※この回は流血のシーンがあります。苦手な方はご注意ください。














みしみしと鳴る木の床には、小さな窓から入る真っ白な光が四角く落ちている。

採光がよくないのは隣の家との間隔が狭いからだろう、部屋の中は薄暗い。

広いとは言えない室内に、何もないよりはましだと置かれた質素な卓と椅子がある。
そのせいで、余計に侘しい雰囲気が漂っていた。

「さぁ、ローレルさん。もう一度、最初から」
「……もういいだろう」
「ダメです。……はい、優先すべきは?」
「……私の無事」
「そうです。それから?」

優しく歌うような調子でリンフォードは繰り返し作戦の確認をしている。

ふたりは小さな卓を挟んで向かい合って座っていた。

ローレルは頬杖をついて窓の方を向き、リンフォードはその卓の上で手作業中だ。

柔らかい口調なのにも関わらずの有無を言わさなさは、さすが師としてやっているだけのことはある。

数えるのも嫌になるほどの繰り返しで、ローレルが内容を端折ると、にっこりと笑って訂正を入れたり、やり直しをさせた。


ハーティエ国内。
表に出れば王城が望めるほど、足元ともいえる近場に、リンフォードは拠点を構えていた。

裏通りに少し入った住宅密集地、安価な貸部屋だ。

前回この場所を使ったのはスタンリーとアート。どちらかの忘れ物なのか、何もない作り付けの棚にぐしゃぐしゃに丸まったシャツだけが入っている。

「では、次です。転移陣は?」
「最高で城内の隠し通路、できればグレアム閣下の部屋、最悪で前庭のどこか」
「……どこかの?」
「井戸の周り以外」
「よろしい。部屋の位置を最上層の北側から……はい、どうぞ?」

反復の最中でもローレルはもう終わろうとごねたが、リンフォードはそれを無視してにっこりとしたまま質問をやめなかった。

満足するまで終わらないのかと腹を括って、早口でさくさく答える方向に切り替えても、もうかなりの時間を費やした。

さっさと上から順に部屋を言い、下階の大広間まで到達した時に、リンフォードができたと息を吐いた。

窓の方をぼんやり見ながら復唱していたローレルが、向かい側のリンフォードの手元に目を向ける。

「ふふ……ローレルさんに似合いそうです」

嬉しそうな顔で持ち上げたのは、繊細な銀の鎖と、それにぶら下がった小さくて透明な宝石だった。

「首飾り?」
「そうです、首飾り」
「私が?」
「もちろん」
「どう使うんだ?」
「転移陣を設置した後は?」
「合図を送る……それで?」
「はい、これで……失礼しますね」

リンフォードは立ち上がり、卓を回ってローレルの横に立った。
鎖の端と端を両手に持って広げている。

「自分で着ける」
「ああ、いえいえ。術を込めながら留めたいので私が」

椅子に座ったまま体を回して、リンフォードと向かい合う。
ローレルの首に手を回そうとして、ぴたりと止まった。

「あーローレルさん、ちょっと襟を……」
「……あぁうん」

首元のボタンを外して襟を広げる。

「では失礼しますね。すぐ済みますから」
「じっとしてればいいか?」
「ええ……あ、そうだ。合図の出し方は剣の解放と同じようにしましょうか。馴染みがある方がローレルさんも簡単にできるでしょう?」
「……だな」
「触って、魔力を流して、解放の言葉、の順番ですね?」
「うん。そうしてもらえると楽だな」
「分かりました……解放の言葉は何にします?」
「……別になんでも……短くて忘れなさそうな」
「じゃあ私の名前にしましょう! いきますよー、はい、動かなーい」
「……おい、待て」
「お静かにー」

すうと息を吸い込んで、顔つきが変わる。
いつもよりも低い声で詠唱を始めた。
大概が短く、囁くような小さな声だが、今回ははっきりとした発音でそこそこ長い。

ローレルには他所の国の言葉に聞こえて、意味はひとつも分からなかった。

どこを見ていればいいのか、下の方に向けた視界の端で、リンフォードのシャツの袖がふわと膨らんだように見えた。

注目してみると、袖が膨らんでいるのではなくて、シャツの内側が青白く発光しているようだ。

「……はい、これで終わりですよ」
「な……んか、腕が光ってなかったか?」
「あ、気付きました?」

手首のボタンを外すと、リンフォードは袖を捲り上げ、腕をローレルの目の前に出した。

手首の上から隙間が無いほどに、精緻な文様が刻まれている。左右対称の図形が並び、その隙間を蔦が這っているように見えた。

「これは?」
「紙に残したんじゃ、無くなった時困るでしょう?」
「……無くさなければいいのでは?」
「まぁ、どうでもいいのは紙ですけど、今回は違いますから……ほら、これがその首飾りの陣ですよ」

リンフォードは前腕の中央辺り、拳ひとつ分程の円陣を指さした。

「私が合図を出したら?」
「合図が来たよーって」
「どうなるんだ」
「音が鳴ります」
「は?」
「あ、や。私だけにしか聞こえないんですけどね。今回は音にしてみました」
「……はあ。なるほど?」
「腕以外にも色々ありますよ、この肩のところがまた傑作で、あと背中なんかは……」
「見せなくていい……脱ごうとするな」





ローレルは足音をなるべく立てないように通路を走った。

レアンドロの部屋へ、少しだけ開けた扉の隙間に滑り込む。

それを閉じたのはローレルではなく、扉の裏側の位置、壁に寄りかかっていたクライヴの手だった。

鋭く息を吸い込んだローレルは、横目でクライヴの姿を見てふうと息を吐き出した。

「大人しく……って言ったよね?」
「言ったな」
「しばらくは派手に動かないと思ってたんだけど。もうちょっと様子見するでしょ、普通さ」
「……こんなふうに怪しまれてるって分かってて様子見もないだろ」
「ああ……まぁそうだけどさ。どこに行ってたの?」
「素直に答えるとでも?」
「……教えてくれないんだ?」
「……悪いな」

ほとんど血の繋がりはないが、クライヴとは家名が同じ。本家筋が没落した時に、遠い遠い分家筋まで全てお取り潰しになった。
どちらも名ばかり、田舎の貧乏貴族。
境遇も似ていたから、年が少し違っても上下という感覚は薄く、ふたりは気安い関係だった。

二年前、レアンドロに斬り倒されたあと、介抱して命を繋いでくれたのはクライヴ。
何かと面倒をかけたのに、黙って王城を出ていくのを、見て見ぬふりをしてくれた。

「俺はレアンドロに惚れてるんだよね。あ、そういう意味じゃなくて」
「……分かってる。どこにそんな要素があるかは見当も付かないけど」
「……あいつを裏切れない」
「知ってる」

横に並んで、隣同士。
お互いの顔を見て笑い合う。

「ごめんな?」

ローレルの肩を掴んで向き合えるように体をくるりと回す。
手元を見下ろした時には、クライヴが持っていた短剣がローレルの腹にあった。

どんどん銀色に光る部分が短くなっていく。

ローレルはクライヴの肩をぐっと掴み、反対の手に隠し持っていたものを相手の腹の同じ場所に突き立てた。

何も無いよりはと頂戴した、グレアム閣下の部屋にあったペーパーナイフ。

自分の腹と相手の腹を交互に見て、ふたりして苦笑いをする。

「……俺さ。お前のこと好きだった。あ、これはそういう意味でな」
「私は逆だな」
「おい、うそだろ?」
「憎くて憎くて仕方がない」
「なんで……」

血で滑りそうなペーパーナイフを下からに握り変えて、力一杯腹の中身をかき混ぜる。

クライヴは顔を歪めて呻き声を漏らした。

「私はこのために戻ってきた……ジェローム師団長を殺したのはお前だろう?」
「……知って……た?」
「あいつの命令だっていうのも」
「……れと、刺し……違え、る気で……?」
「覚悟はな……でも刺し違えてはないよ」





本当はそちらが最も重要なのに、リンフォードはついでのような口ぶりで告げた。

「ああそうそう、ローレルさん。その首飾りにはこの前の防御壁も組み込んでありますからね」
「防御壁……」
「問題点は改良しましたから心配いりません」
「……へぇ?」
「……どうしても貴女が傷付くのは耐えられない」
「あ、そう」
「……ふふ」

自分で作って自分で着けた首飾りを満足気に見下ろして、小さな石を手に取った。

「思った通り。よく似合ってますよ」

うっとりとした顔で見ていたのに、急に短く呻いて、リンフォードは宝石から手を離す。
薄っすら赤い顔でローレルのシャツのボタンをとめた。

「ぅ……あぁ……はい。さぁ、ではローレルさん? 優先すべきは?」
「…………もういい、しつこい」






改良点はどちらにも体感があること。

刺した側のクライヴには違和感はない。
そもそも骨もない柔らかな下腹だから、手応えもそれほど気にしなかった。

ローレルにはぐっと押された感覚だけがあった。

自分の腹に刺さったように見える短剣を、力の抜けたクライヴの手から取り上げた。

その手でどすりと音がするほど相手の胸に振り下ろす。

押された勢いで、クライヴはゆっくりと後ろに倒れていった。

「……ジェロームさんは……上司や師である前に、父親のようだった……特に、身分なんて無いような私とお前にとって。……そう思ってたのは私だけか?」

床の上で仰向けになり、クライヴは返事のように口からごぼりと血を吐き出す。

「私はこのためにここを出て、このためにここに戻って来たんだよ」

口の中に溜まった血で息もままならないクライヴは、虚に宙を見上げ、目の端から涙をこぼした。
死にゆく身体の悲鳴なのか、後悔の涙なのかは、もう分からない。

震えるように痙攣していた彼の身体からふと力が抜けていく様を、ローレルは静かに見守った。

これまでのクライヴとの思い出が頭の中を駆け巡り、心の中を滅茶苦茶に引っ掻き回していく。
今はその時ではないと、ひとつ大きく呼吸をして、ローレルは自分の中身を静かにさせた。




音もなく開いた扉、動いた空気が頬を撫でる。

背後の気配にぞくりとした腰の辺りから、痺れが背中を駆け上がる。
ローレルは背筋を伸ばして、顔を上げた。

「……クライヴ、待ってろ。すぐに行く」
「そう簡単に死なせると思うな?」
「私じゃなくて、お前の話なんだけど」

すらりと鞘から剣の抜ける音が聞こえる。

後ろの気配は、怒りなどではなく、落ち着いた静かなものだった。

「……またか、ローレル」
「何だ?」
「また俺を裏切った」
「は……裏切るもなにも、そもそも貴方の側に私は居ない……最初から」

レアンドロの方に振り返り、口の端を片方持ち上げて笑ってやる。

「……よくもそんな口が聞けたな」
「……ほんとびっくり……何も感じない。昔はなんであんなにびくついてたんだか」
「……確かにな。お前の血の気が引いた顔は良かった。押し殺した声もそそられた」
「……反吐が出る」
「意識が飛ばない程度に刻んでやろう……死ぬまでお前をかわいがってやる」
「…………今さら上品ぶるな」
「喜ばせると言ったほうがいいか?」
「頭空っぽ、目は節穴、やることしか興味がないくせに気位ばかり高くてどうしようもないな?」
「……もう一度言ってみろ」
「馬鹿にも分かりやすく言ってやろうか? 『私はお前が心の底から大嫌い』」
「ローレル……あの魔術師に礼を言いたいんだが」

レアンドロの手に力が入り、長剣が瞬間青白く光る。勝ち誇った顔で解放の言葉を唱えた。

「クライヴにやられなかったのは魔術で防御していたからだろう?」

ローレルは首飾りの石を掴み、魔力を流し込んで名を呼んだ。

「あの男の名か? 助けに来るか……」

ゆったりと大きく振りかぶられた長剣は、同じ速さで振り下ろされる。

光っている切っ先を見ながら、防御壁は効かないだろうと何となく察した。これを避けることは出来たとしても、二撃目は無理な間合いだなと避けること自体を諦めた。

剣は前から斜めに振り下ろされ、ローレルの肩から反対側の脇腹を切り裂いて血をあちこちに散らす。


ゆっくり膝から崩れて床に伏せたローレルを、レアンドロが上から覗き込んだ。


「残念だな……間に合わなかった。礼は俺から言おう。お前のおかげで剣に破術を仕込むことを思い付いたとな」

いくら完成度を上げたところで、その魔術を無効にする術が施されているならどうしようもない。
ころりと動いたものに目をやって、ローレルはふと笑った。

床の上には首飾りに付いていた石が転がっている。

「……ああ、でも。それより先に……お前は死ぬ」
「あの男の手でか?」
「……いや、もっと……たくさんの手で」
「どういう意味だ」
「…………斬り刻まれて死ね」


「いいえ。腹に大穴が空いて死ぬんですよ」



どすりと背中にぶつかる衝撃に、レアンドロは後ろを振り向いた。

魔術師らしいローブに身を包んだいつかの男と目が合う。



「こんにちは、さようなら」



先に言った通り、腹には大穴ができている。

血濡れの男の拳が腹から突き出ていた。


握った手が開かれて、びちゃりと床に何かが落ちる。