この五日ほど姿を見なかったスタンリーが宿舎裏の井戸で半裸の姿だ。


ポンプを漕ぎ洗濯用の木桶に水を汲んでいる。

午前の稽古の後、顔を洗おうと水場に来たローレルとジェイミーが、ちょっぴり泣いているスタンリーを見つけた。

「おいー。どこ行ってたんだよスタンリー」
「おお……お前らにも内緒で隠密の作戦行動な」
「こら待て、今この瞬間に内緒でも隠密でもなくなったぞ」
「終わったからもういいん……止まれ。お前ら俺に近寄るな!!」
「どうした?」
「それがさぁ。……なんか……見てコレ。なんだろ……ダニ?」
「ダニ?」
「ノミ?」
「ノミ?」

近寄るなと言っておきながら、ゆっくりとスタンリーはふたりに歩み寄る。

髪をかき混ぜるとぽろぽろと小さな粒が下に落ちる。反対の手でそれを受け止めた。
スタンリーの手の中には大きめの砂粒ほどの、透き通る青が鮮やかな虫がいくつも乗っている。

「……うっわ! 気持ち悪っ! あっち行け!!」
「なんだよ、助けろよ!!」
「……スタン、とりあえず下も脱げ」
「ローレル、俺の俺が見たいの?」
「…………燃やすか」
「燃やすって何を? ていうかどこを?」
「煮えた油でもぶっかける?」
「それ拷問のやつ!!」

待ってろと言い置いてローレルは自分の部屋に向かった。

リンフォードからもらった虫除けを取りに行く。服や身体についてからでは遅いかもしれないが、殺虫の成分もあるからどうにかならないだろうかと考えた。

膝までの長靴(ちょうか)やズボンを脱いで、最後の砦だけ残したスタンリーが虫除けをあちこちに塗り込んでいる。
ローレルはそれを横目に、脱ぎ散らかしてあった服を水を張った桶に入れ、その中にも薬をとぽりと垂らした。

スタンリーからぽろぽろ落ちたりぴょんぴょん飛び出してくる小さな粒に、ジェイミーは引きつった叫び声をあげている。

「……どこに行って拾ってきたんだ」
「んー……行き帰りにでかい藪があってな。水が淀んでたんだ。臭ぇし、なんかいつの間にか噛まれたし」

確かにスタンリーをよく見れば、皮膚の柔らかそうな場所ばかりがぼこぼこと赤く腫れている。

「痒いし……」
「ああ、掻くな。酷くなるぞ」
「だってぇ」
「お前、何の作戦行動だよ」

スタンリーは斜め上を見上げて、まぁいいかと呟くと、おいでおいでと手招いた。
三人は頭を寄せ集める。

「あれ。例の隠し通路を見に行ってた」
「……王城に?」
「そ。……まぁもう報告は済ませたし、すぐにも話が回ってくるだろうけど、一応それまでは内緒な」
「どうだったんだよ」
「……ダメだな。今知れてる通路は全部塞がれてる」
「塞がれてる?」
「あの様子じゃ俺たちが知らない通路も全部だろうな……こっから城内ってところが土砂で埋まってやんの」
「外からの侵入は無理ってことか?」
「いっちょ掘ってやるか、って感じでもなかったわ」
「こっそり掘るなんて悠長なこともできないか」
「はぁあ……参ったねこりゃ」
「内側に侵入どうこうって話はナシだろうな」

ふと輪を解いて横並びになると、三人は水場の縁石に座り込んだ。

落ちていた棒切れを拾って、スタンリーは桶の中の服をつつく。
ぷかぷかと浮かんだ虫が水面の半分ほどを覆っていた。

必死でもがきながら進んだり、死んだ仲間の上をよじ登っている小さな虫に、自分たちの今を見る。

水面をぐしゃぐしゃにかき混ぜた後、苛立ちを込めて棒切れを力一杯遠くに投げた。

スタンリーの子どものような行動に、ジェイミーはふと笑い声をこぼす。

「……まぁ、だからって目指すものは変わらないって」
「……だな。俺たちがやることも同じだ」
「他所の国の知らない城じゃあるまいし」
「なぁ? ほんとそ……」
「ここに居た! ローレルさん、そこから離れて下さい!!」

突進してきたリンフォードは、ローレルの手を握ると、ぐいと引いて立たせ、スタンリーたちと距離を取らせる。

「なになに?」
「どうしたよ」
「どうして不用意に近付くんですか! 下着一枚だけの変態ですよ!」
「俺のこと?」
「もちろんですよ、スタンリー!」
「はは、変態だって」
「噛まれてませんか? ローレルさん虫除け塗ってます?」
「……いや、でもスタンに分けたぞ?」
「噛まれてませんね?!」
「……大丈夫だ」
「……え、ちょっとナニ……ヤバい虫なの? 俺なんかいっぱい噛まれてるけど」
「ああ……別に大した毒はありませんよ」
「毒?!」
「微々たるものです」
「にしちゃあ、大慌てだったけど?」
「ちょっと二、三日熱でうなされるだけですよ」
「それちょっとって言わなくね?」
「それに痕が残るんです」
「噛まれた痕ってこと?」
「そうです……ローレルさんの美しい肌に虫の噛んだ傷なんて……!」
「別にそのくらい……」
「よくありません!」
「そんなことより、スタンを見てやってくれ。あちこち噛まれてかわいそうだ」
「痒いんだぞ!」
「内臓出るまで掻きむしればいいんですよ!」
「……え、ちょ……こいつホントなんなの?」
「……いつまで手を握ってるんだ、離せ」
「……あ。ごっ……ごごごごめんなさい!!」

突き飛ばされたような勢いで、リンフォードはローレルから数歩分を一気に飛び退いた。

リンフォードの真っ赤になった顔を見て、兄さんたちがにたにた笑っている。

「これまで冷静沈着で売ってたのにねぇ。どうした? 情緒とか大丈夫?」
「お前の今後が心配になっちゃう俺だよ」

両手で顔を覆ってみても時すでに遅しだが、それでも全力でローレルから逸らそうとしている。

「ていうかさぁ、なんでスタンリーが虫だらけって知ってんの?」
「あ、アートか」
「アート?」
「ああ、俺とアートのふたりで行動したんだよ。転移で移動してたから。なぁ、あいつ虫は大丈夫だったのか?」
「……アート自体は大丈夫です、虫除けしてましたから」

ただ衣服や荷物に付いた虫を持ち帰り、屋敷の中まで入ってきてからそれが発覚した。
しかもしばらく時間が経ってからのことだったのでソニアが怒り狂っている。

屋敷内はただ今駆除作業で大騒ぎだとリンフォードが他人事のように話す。

「あらー。部屋の中に持ち込んじゃったんだぁ……そりゃ、一大事だわ」
「ちょっと待て、アートは虫除けしてましたっつったか?! あいつ、そんな話ひと言も無かったぞ!!」
「……師弟だな」
「本当ですねぇ」
「お前らみんな、のんきさんか!」
「だからスタンリーの方こそ虫まみれだと思って慌てましたよ」
「ローレルが危ないってな。俺じゃなくて」
「……そうですが何か?!」
「逆ギレやがった!!」
「……もういいから、薬を出してやってくれ。持って来たんだろう?」
「もちろんですよ、ローレルさんが噛まれてたら大変だと思って……」
「あるならさっさと出せやコラ!」
「金貨一枚」
「金取るのかよ!」
「しかもぼったくるねぇ」

痒みを抑える塗り薬と、ご丁寧に解毒の飲み薬までもらった。スタンリーはこれでうなされずには済んだが、寝込む羽目になったのは変わらなかった。





その日、完全に陽が落ちてからローレルは離宮へグレアムを訪ねた。

邪魔をするであろう人物が屋敷に帰っている時間を見計らい、話を聞いてもらうためだった。

出された案に始めは難色を示したが、最終的には苦々しく承諾をした。

王子に次いで裁可権を持つグレアムから言質を得て、ローレルは胸を撫で下ろす。



ウェントワース王子を新王に、玉座に押し頂く。

簒奪者から国を取り返して民に穏やかな安定を。その為に命を賭す覚悟で戦うこと。

目的は変わらない。
やることも同じだ。
スタンリーとジェイミーの言葉が、ローレルを含めた騎士たちの、今ここに在る意義の全てだ。

それならやれることは何でもやるべきだとグレアムを説き付けた。



顰められた表情に完璧な微笑みを返す。

「……俺が別の面倒に悩まされるじゃないか」
「そもそもそれを計画していた人に反対される謂れはないと返して下さい」
「……そりゃあいつがお前に惚れる前の話だろ」
「個人を持ち出している場合でしょうか」
「お前の言う通りだが、なぁ?」
「……早く命が下されるのを待っています」
「ああ……とりあえず明日の朝には鼻息の荒い誰かさんがそっちに行くぞ?」
「……受けて立ちましょう?」
「……もう帰っていい。休め」
「はい。失礼します、グレアム閣下」


誰かさんはいないので、離宮の正面、大扉から外に出た。

宿舎まではうんざりするような距離を歩かなくてはならないが、今はその遠さがちょうど良い気がした。

離宮の上には爪で掻いたような細い月が昇り、それよりも明るい星空がある。

響くのは石畳を叩く自分の靴音だけ。

『何も出来なかったと悔やんでいるのかも知れないが、為せることはこれからいくらでもある』

そう言った誰かさんの言葉を思い出し、ローレルは小さく笑い声を漏らした。

王城へ続く隠し通路が塞がれていなければ、はっきりと決断できないでいたような気がする。

いつまでも内側に澱が溜まったまま、鬱屈として過ごしていただろう。

届かないと諦める。
それは心を擦り減らしていたあの頃と何も変わらない。

一度心に決めたら、こんなにも気持ちが軽くなるものなのか。

これが希望の光というやつなのかと、ローレルは頭上にある一等白く瞬く星に目を凝らした。




翌朝にはグレアムの言った通り、ひどく腹を立てた様子のリンフォードがローレルの横にふんぞり返る。

「ローレルさんお話があります」
「……思ったより早いな」
「おはようございます」
「……おはようございます」
「場所を変えて話がしたいのですが」
「……朝食抜きは辛い」

人が移動する音、話し声、食器のぶつかる音。

食堂はもうそれなりに人が集まって食事をしていたが、リンフォードの周囲だけは不思議と静かに感じる。
空気も高密度ではないかと錯覚しそうだ。

ローレルのいる卓には、向かい合った位置にジェイミーが座っている。
スタンリーは今朝になっても高熱で起き上がれずに、寝台と仲良しのままだ。

「お前も朝メシ食ったら?」
「もう済ませましたので結構」
「ああそう」
「……ローレルさん?」
「さっき食べ始めたのにか?」
「お話が先です」
「あー……ローレルはな。お前は人がメシを食うちょっとの時間も待てねぇのかって言いたいんだと思うぞ?」
「……分かりました。では外でお待ちしています」
「……ああ」

今日になって急に体重が増したかのように、リンフォードは床をどしどしと鳴らしながら遠ざかっていく。

知らぬ顔で再び食事を始めたローレルに、ジェイミーは顔を顰めた。

「何した?」
「……何も」
「珍しいな、あいつが怒るの」
「勝手に怒ってるだけだ」
「お前が先に勝手なことしたんだろ?」
「……まさか」

にやりと笑ったローレルに、眉の両端を下げたジェイミーが軽くため息を吐き出す。



稽古をする広場、宿舎や厩舎の周囲には騎士や下士官たちがいる。

聞かれたくなし、聞かせる気も無いとリンフォードは離宮に向かった。
それに異論はないのでローレルも大人しく後ろをついて行く。

通用口から入ってすぐの、小さな休憩室のような部屋を見つけてそこに入った。

今は居ない使用人たちが使っていたのだろう、飾り気も何もない部屋には、二人掛けの丸い卓と椅子が数組、壁の棚には安物のポットやカップが並んでいた。

リンフォードはカーテンの無い腰高の窓を開く。

白く筋を引く光の中にきらきらと埃が舞っているのが見えた。

窓辺でリンフォードが振り返る。
入り口の扉を閉めて、そのすぐ側でローレルが腕を組んだ。

「椅子に掛けますか?」
「……いや、このままでいい」

卓や椅子には薄らと埃が乗っている。
そのまま座れないし、この部屋の掃除をしにきた訳でもない。

「理由を聞かせてもらえますか」
「理由? 何の?」
「貴女が今回のことを言いだした理由です」
「私が適任だからだ……むしろ私にしか出来ない」
「他にも策はあります」
「それは知ってる……どれも誰かが危険に晒されるな。しかも大勢」
「貴女ひとりを犠牲にしろと?」
「失敗すれば私ひとりじゃ足りないけど」
「冗談で言ってるんじゃないんですよ」
「私も本気だ」
「無茶です」
「……本当にそう思うか?」
「ローレルさん」
「貴方が言ったんだ。私の価値を甘く見るなと」
「……どうか考え直して下さい」
「森での護衛を済ませた後、何をさせるつもりだった?」
「今はあの時の自分を殴り倒したいです」
「ああ。なら、あの時殴ってやればよかったな」

ぐと息を飲み込んだリンフォードが気を入れ替えてローレルを真っ直ぐ見つめ返す。

光を背負って影のようなのに、目だけはぎらりとして見える。

「……貴女を王城になんか行かせない」
「じゃあ他に誰が行ける」
「他にも城を落とす方法はあります」
「話が巡ってるぞ……優秀な魔術師様の奇策だろう? より早く、より確実な」
「危ない橋です」
「渡らせる気だったくせに」
「……話が進まない」
「貴方が折れればすぐに済む」
「折れませんよ」
「私をなんだと思ってるんだ?」
「……そ……れは」
「もう貴方の案内役でも護衛でもない。王子のため、民のために国を取り戻したいと思っているひとりだ。使い勝手の良い、数ある駒のひとつ。そうだろう?」
「……私にとっては違います」

ふうと息を吐き出してローレルは背にある扉にもたれ掛かった。

片足をもう一方に絡めて、軽く肩を竦める。

「なんだ? どうすれば満足がいくんだ? 大人しく部屋にこもっていれば貴方の気は済むのか?」
「そういうことを言ってるんじゃないんです」
「いいか、思い出せ。どうする予定だったか。私の利用価値はどこにあるか」
「……ローレルさん」
「裏から入れないなら、表から入るしかない。誰ならそれが可能だ。城内の奥まで行けそうなのは誰だ」
「……お願いです」
「……私を使え」




沈痛な表情を床に向け、リンフォードは口を閉じて奥歯を噛み締める。





「あの王師団長は、私のことをまだ自分の女だと思っているぞ?」