高く澄んだ青色。
天辺では紺が滲んでいる。
太陽は駆け足でその場所を目指しているが、到達するまでにはしばらくかかりそうだ。

珍しく雲がひとつもない空に高く硬質な金属音がいくつも吸い込まれていく。

下では地を這うような勇ましい声や、大声で笑いあう朗らかな声が、乾いた空気や砂埃と混ざり合う。



故国を持たない騎士たちは、いつも早朝から正午にかけて稽古をする。
彼の国では午後は天候が急変することが多い。その習慣が国が変わってもそのまま続いていた。

現在拠点としているこの国は逆に雨の日が少ない。

からっと乾いた気候だが、太陽が登りはじめれば気温も上がりはじめる。
根性が試されるのは夏の盛りだけだが、この国はそれ以外の季節でも午後は暑いと感じる日が多い。

なのでこの習慣はちょうど良い。

習慣を別にしているイーリィズやプロヴァルの軍人や騎士たちも自国でのやり方を変えて午前に稽古をしている。
なにもわざわざクソの付く暑さ相手に根性を示すことはしなかった。

太陽の下は暑くはあるが、乾燥気味であるので、流れ出た汗がべっとりとまとわりつく感じはあまりない。

この時期なら日陰に入ればなかなかに快適だ。

騎士や軍人たちに踏み荒らされていない場所にはしっかりと緑の絨毯が残っていて、大きな木の下にはくっきりと濃い影があった。

その木陰の中、さらに影のような色をした塊が膝を抱えて座り込んでいる。

稽古をしていたローレルがそれに気付くと、影はのそっと身動いでひらひらと手を振った。

「アート、どうしたんだ?」
「うーん、ちょっと見学」

休憩しようと剣を鞘に収め、ローレルは顎の下を伝う汗を袖口で拭いながら、木陰の中に入る。

アートは立ち上がって、濃い灰色のローブを捲り上げると肩にかけ、フードを外す。
風のよく通る涼しい場所をローレルのために譲った。

「ひとりか?」
「んーん。師匠(せんせい)に付いて来たけど、俺はあっちには混ざれないから」
「そうか……こっちに混ざるか?」

にやりと口の端を片方持ち上げると、アートも鏡で見たようにローレルとは反対の口の端を持ち上げる。

「それなんだけどさ……教えてほしいことがあって」
「うん? なんだ?」
「ナイフを上手く使うコツとか」
「ナイフ……」
「えっと、これなんだけど」

腰の後ろをごそごそとして取り出したのは、手の上に乗るほどの小さなものだった。
切り出したまま先の方だけ研いだような、細長くて平たい鉄の塊には、持ち手になる部分に形ばかりの革紐が巻かれている。
手の中に入る大きさも、見た目の質素さも、どちらかというと暗器に近い。

「投擲用って感じだな」
「俺、魔術師だよ?」
「そうだな」

騎士はナイフや短剣と言われると、確実にとどめを刺すなどの、近接戦を想定してしまうが。
術の詠唱や展開で攻撃までに隙が生まれる魔術師は、中から遠距離の広範囲に攻撃をするのが基本だ。

とはいえそれらの常識を覆すような、どちらも素早くこなしてしまう人物はいる。

「俺と師匠(せんせい)比べないでよ」
「比べてはない……あれはちょっと、何というか……」
師匠(あのひと)がおかしいんだから」

弟子の方が砂粒ひとつ分の遠慮もなく言ってくれたので、ローレルはこの話をこれ以上継がないことにした。

「投擲ならそうだな、私よりジェイミーに教えてもらった方が良い」
「そうなんだ?」

ローレルは今も砂埃舞い上がるむさ苦しい一団の中から、毛先がくるんと跳ねている茶色の後ろ頭を見つけ、当該の人物の名を大声で呼んだ。

ジェイミーは気の抜けるような返事をして、ゆったりとした動作で剣を納めてこちらに向かって歩きだす。その相手をしていたスタンリーも一緒にやってきた。

「なになにー?」
「これ見てジェイミー」
「なにくれるの? オオクワガタ?」
「目の悪さ……ウケる!!」

普通の声で話せるところまで近付いて、ジェイミーはやっとアートの手に乗っているものを確認した。

「なんだクワガタじゃないのか」
「欲しいのかよ!」
「いらないよ、虫キライだもの」

のほほんと笑っているジェイミーに、アートはわずかに眉根を寄せる。
大丈夫なのかと言いた気にローレルに顔を向けた。

「上手く使えるようになりたいんだって」
「へぇ。投げる感じ?」
「は……い。そうですね」
「なら確かにジェイミーだな」

握って使うなら俺だけどと、スタンリーはアートの顔の前で、何かを握ったような拳をぶんと振った。
いや私だしと言ったローレルと、俺だ私だと応酬が始まる。

ジェイミーはツノに見えていた革紐の端を指で摘んで、アートの手からナイフを持ち上げぶらぶらと振った。
巻かれた革紐の隙間からは刀身がちらちらと光って見えている。

「これ術が刻んであるな」
「そう……ですね」
「投擲用なのにいちいち?」
「あ、いやコレ。強化とかじゃなくて……返ってくるように」
「返ってくるように?!」
「あ……じゃあちょっと投げてもらって」
「うん? どっちに当てたらいい?」

今もまだやり合っているスタンリーとローレルを見ているジェイミーに、いやいやいやとアートは手を振って止めた。

「人に当てる為の武器なんだけどな」
「分かってますけど……えっと……そうだな、あれに投げてください」

今いる場所から大きく十歩ほど離れた場所に木箱が置いてあった。
中には刃を潰した稽古用の剣の、柄の辺りがいくつか見えている。

日向にあるので触ったら熱そうだなと、どうでもいいことがアートの頭の中を素早く通り抜ける。

アートは木箱を指さし、ジェイミーの方に顔を振り向けると、離れた場所でたんと乾いた音がする。
ナイフは箱の側面、ど真ん中に突き立っていた。

「はいよ」
「…………え……動いたのが見えなかった」
「ぼさっとしてるからだろ……で? あそこからここまで返ってくるってこと?」

アートはぼそりとひと言だけ発し、何かを引っ張るような仕草をする。
引っこ抜くというよりは、軽く糸や紐を引くといった感じだった。

ナイフが箱から消えたと思ったら、それはアートの手の中に戻っている。

「ぉぉぉおお!! すげえな!! なにこれすげぇ便利じゃん!! どうなってんの?!」

ジェイミーの興奮した様子に、スタンリーとローレルはなになにと寄ってくる。

さっきと同じことをしてみせると、興奮も三倍になった。
寄ってたかって褒められたアートは、頬を赤らめてもじもじし始める。

「転移……させてるんだよ……極小範囲で」
「なるほど転移か……すげえぇぇぇ」
「応用させたら、俺でも戦えるかなって」
「確かに……充分やれる感じ」
「そうかな?!」
「うん、やれるやれる」
「んーでもどうして今まで見たことないんだろう、みんなやれば良いのにな」
「似たようなことは誰でも思い付くと思うんだ……でもほら……」
「おお……まぁな」

騎士や兵士は極小範囲で転移をさせられるような知識も器用さも、余分な魔力もない。
そのあたりを克服する暇があるなら他に伸ばすところがあると考える。

魔術師もそれは同じく、投擲の技術を高める前にすることが山程ある。
そもそも魔術師は人を直接攻撃するのを好まない。
ケガや病気、生活を少しでも楽にするために魔術は発展してきたし、その為であれという前提から始まるからだ。

「アートはいいのか、それで」
「いや……ううん。別にね、戦えるようになって活躍する! とかまでは思ってないよ……そうできたら少しでも助けになるかな、とかは思うけど。……ていうよりは、なんかしとかないと、って感じ。いざって時に、ひとつでも出来ることが多かったらなって」
「……そうか」

三人が顔を見合わせて笑うから、アートは眉を顰めた。その顔が苦笑いだったから余計に眉の間に力が入る。

スタンリーは腕を組んで、背後にある木の幹に寄りかかった。

「んまーいじらしくて可愛いけどな、少年!」
「……なに? 少年じゃねーし」
「そんな甘っちょろい考えじゃナイフは人には届きませんぞ?」
「別に! ……だから!」
「木箱に当てたいだけならひとりで練習したら?」
「スタン、ジェイミーも。言い方考えろ」
「いいかぁ坊主……いざって時の奥の手は、百発百中じゃないと意味が無い。だろ?」
「……うん」
「できたらなぁ、とか、だったらいいのになぁなんて奴が、人に教えてもらったところで上達すると思うか?」
「……思わない」
「ならもう少し考え方を変えろ……お前が持ってる物も、魔力も、使い方次第で簡単に人が死ぬ。相手を倒したいけど傷付けたくないなんて無理だぞ?」
「……そんなことアートだって分かってる。でも迷ってるからここに来たんだろ」

下を向いているアートの背中を、ローレルはどんと叩いて顔を上げさせる。

顔を上げたアートは、悩むというよりもきりと引き締まった顔をしていた。

三人は今度こそちゃんと笑って顔を見合わせる。

「これまで似たような道を通って来たんだから、どうだったか教えてやれば?」
「そうね! このお兄さんたちすげぇ親切だからね!」
「まぁね!」
「……いいかぁ、坊主ぅ……時々強引な方が女の子にはモテる!」
「優しさと強引さは8対2だ!!」
「それは人によるんじゃないか?」
「おお! 姉さんがああ言ってるから、割合は相手によって微調整しろ!!」
「……そんなこと教えてもらいに来たんじゃねーぞ」
「お? その意気だぞ坊主ぅ」
「アートだよ!」
「アートよ。ナイフはな、こう……ふぁっとして……びゃっと投げろ」
「全然わかんねーよ! ちゃんと教えろ!」
「まずは人に当てろ。とりあえずスタンかローレルに投げてみ?」
「投げねーよ!!」

にやりとしたスタンリーは、横にいたローレルの肩にぐっと腕を回した。

「あらヤダこの子! 当たると思ってほざいてやがるわよ! やーねー。どう思う姉さん?」
「アート……私たちには当たらないぞ?」
「そうよねー?」
「当てられるわ! ちょっと離れてみろよ」

アートがぐるぐる腕を振り回すと、そのままふたりは木陰を出て木箱の前まで歩いた。
ふざけた姿勢で分かりやすく挑発している。

ジェイミーはアートの肩を掴んで、ぐりとふたりの方に向ける。

「いいか……ふぁっとしてびゃっとやれ」
「だから全然わかんねーっつってんの!」

アートは深く息を吸って、ゆっくりと細長く吐き出した。
木箱の前にいるふたりを見て、ぶるりと身体が震える。
身体中の毛穴が開いた気分になって、瞬間で肌の表面に痺れが走る。
手のひらの汗が一気に増した。


ジェイミーの低く抑えた声が耳元でする。

「殺す気でやれ?」






夕暮れどきの騎士たちの宿舎の中で、一番に賑やかなのは、一番に広い食堂の中だ。

その奥側の隅の方は、周囲に反比例するように静かで、なおかつ空気が重い。



腰に手を当てて踏ん反り返って立つリンフォード。その目の前の床でアートは正座をしていた。

「………………で?」
「……違います」
「では何故ローレルさんは傷だらけに?」
「だから……」
「俺も傷だらけだぞー?」

離れた場所で手を上げているスタンリーをぎろと睨むと、その手はゆるゆると引っ込んだ。

膝の上でぐと拳を握るアートの顔に悔しさが滲み出る。

「俺じゃないって」
「…………はい? 言い訳ですか?」
「俺はかすりもしなかったよ!」
「じゃあなんでローレルさんは血みどろなんですか!!」
「血みどろじゃないぞ?」

けろりと言ったローレルとスタンリーには、すっと尾を引くような短い傷が、腕や脇腹にいくつも散らばっている。
どれも血が吹き出すようなものではなく、猫に引っ掻かれたような短く浅いものばかりだ。
シャツが少しだけ切り裂かれ、その周囲にちらちらと血が移って、ぽつぽつと水玉模様ができている。

血は完全に止まって随分前から乾いた状態だ。

「ほとんどはスタンとやり合った傷だよ。その内の二、三個は俺が見本で投げたのが掠ったって感じ」

へらりと笑うジェイミーにもリンフォードはぎらりとした視線を送りつけた。

「最初から話しなさい……その前に手当てを。ローレルさん、傷を見……ああ、いえ。アートが治療しなさい」
「……わかった」

動かない標的では木箱に当てるのと変わりがないからと、スタンリーとローレルは仕合を始めた。
実践に近付けた結果のことだが、兄さん姉さん三人組は、アートのナイフが当たることは無いと踏んでいた。
それは側でアートの力量を見ていたジェイミーの判断なので間違いはない。

しかも狙っていたのはローレルではなくスタンリーの方だとアートが付け加える。

それを聞いたスタンリーはもちろん、なぜかローレルまでもがどういうことだと文句を言った。

ふたりの治療を終えたのを確認してからリンフォードはひとつ頷く。

「経緯は分かりました……詳しい話は帰ってからにしましょう。いいですねアート」
「……はい」
「アートも考え無しでやったわけじゃ無いぞ?」
「口を出さないで下さい、これは師弟の問題です」
「……分かった」
「きれいに治った! ありがとな。続きはまた明日」
「……はぃい?!」
「はは……怖ぁ……アートかわいそ」
「ああ、そうだ。ちょっと待ってろアート」

ローレルは食堂を出ると、自室に戻って荷物の中から小さなナイフを持ってくる。

アートのものよりはそれらしい、少し重めのナイフだ。
木製の柄と鞘には少し凝った金属の飾りもある。

「これは?」
「アートにあげると約束したんだ。投げても返るなら投げやすいものにした方が良いからな」

まだ実力の無いアートの薄くて軽いナイフは、当たったとしても簡単に弾かれる。
加えて彼が持っていたのは、投げて無くなる前提の玄人向けのものだ。

「……ありがと」

アートの手を押さえて、リンフォードがその前に手を出した。

「私が預かります」
「ぁぁ……そうか、じゃあ」

ローレルは手の中でくるりと柄の方を向けてリンフォードに差し出す。

受け渡したと思って手を離す瞬間、弾かれたように素早くリンフォードが手を引いた。

ごとと床に落ちたナイフは、飾りを支点にゆっくりと半回転して止まる。

ナイフを拾おうと屈んだローレルの頭上で、いつもより高い声が大きく響く。

「すすすすすすみません!」
「…………いや?…………どうした?」
「大丈夫ですよ?!」
「あ……そう」
「ではこれで失礼しますね!」

ローレルの手からナイフを引ったくるようにすると、アートの首根っこを掴んで食堂を出て行く。

リンフォードの真っ赤な顔はローレルから全力で逸らされていた。




「…………おんやぁ?」
「おやおや〜〜?」
「なに」


両脇に並んだ目が半開きの兄さんたちに、ローレルはどしと背中を叩かれた。