宮の規模からしたら部屋は狭い。
壁一面の棚には分厚い本がぎっしりと詰まっている。

家具や床はこれでもかと磨かれた黒に近い飴色。中央にはどっしりと重厚感あふれる書斎机がある。

窓にはしっかりとカーテンが引かれ、昼間なのに薄暗い部屋の中にはランプがひとつ灯っていた。

頭を中央に寄せ集め、机の上の書面や図面を見下ろしては抑えた低い声で話をする。
どうにも奸策を弄しているようにしか見えない。

ローレルは前日からの続きを話す。
グレアムやリンフォードからこうではないかと問われると、確かなこととそうでないこと、知らないことと、このうちのどれかで答える。

ローレルは両手に濡れた手巾を持っていた。
嫌がらせをされている訳でも、これからしようという訳でもない。
掌の傷はリンフォードに魔術で塞いでもらったが、熱を持っていたので冷やすためにと握らされている。

時々ご丁寧に水分を補充されるので、指先はふやけてしわしわだ。


だいたい知っていることは答えた気がする。

忘れてしまっていることもあるだろうし、後はもう噂程度の不確かな話しか出てこない。

思い出すことがあれば都度 話せばいいのではと、ローレルはしわしわの指先を見ながら、すかすかになった頭で考えていた。



出入り口の立派な一枚板の扉が音もなく開く。

扉の間から白い光が刺すように入り込んで、それと一緒にウェントワース王子が現れた。
顎のあたりで切りそろえられた蜂蜜色の髪が、傾げた頭の角度に合わせてさらりと揺れる。

「もう終わった?」
「んー……いや、まだかかるぞ」
「グレアムはね」
「なんだ?」
「ローレルとおでかけするんだよ」
「何言ってるんだ」
「そうですよ、王子」
「……でもローレルはやった! って顔をしているよ?」

グレアムとリンフォードにぐるりと顔を向けられて、そこからゆっくりと顔を背けると、ローレルはこそりと小声で謝った。

「ローレルに小鳥の雛を見せてあげたいんだ」
「私が庭園に設置した巣箱の、ですか?」
「そうだよ?」
「それなら私に見せたいと思うものでは?」
「リンフォードはグレアムと話があるでしょ」
「ローレルさんとも終わってません」
「でも今度はすごく悲しそうな顔をしているけど?」
「ぅ………………すみません、大丈夫です」
「ぶは!…………そうだな、もういいぞ若いの。聞きたいことは大概聞けただろう。子守でも何でもしてくれ」
「やった! ありがとう、グレアム!」
「あ、じゃあ私も……」
「リンフォードは駄目だ」
「なんでですか!」
「いや聞くなよ、分かるだろ」
「ローレルさんだけ! 贔屓だ!」
「……そうだよ贔屓だよ。ほら、王子。早く連れて行け」
「うん! おいで、ローレル!」

手を繋ごうと差し出して、ローレルの両手にある邪魔な手巾を引っこ抜くと、王子はぺいぺいっとそれをリンフォードに向けて放り投げた。

にっこりと満足そうな顔で改めて手を繋ぐと、揚々と部屋を出ていく。

「……みんながローレルさんに甘い」
「…………お前、それは……嫉妬か?」
「そうですね!」
「誰にだ?」
「そりゃもちろん!…………誰にでしょう?」
「お前賢いんだか馬鹿なんだか極端だな」




空気はからりと軽く、暖かな陽がふわりと降る草の上に、ふたりは静かにしてしゃがみ込む。

四方を建物に囲まれた中庭だが、大きな屋敷がすっぽり入りそうな規模だ。

人の手で作られた石造りの通路や四阿は左右対称だが、そこに生える草木は非対称で自然に近い姿をしていた。

短く刈り込まれた草のある区画には、立派な広葉樹が大きく枝を広げて、その下の木陰の中には素焼きの水鉢が置かれている。

木の幹に固定されているのは、小鳥が観察しやすい白の巣箱。

ウェントワース王子とローレルは、その巣箱を忙しく出入りする黄と赤の鮮やかな配色の小鳥を遠巻きに見ていた。

「雛鳥の声が聞こえる?」
「そうですね……三羽ほどでしょうか」
「うん……ふわふわでね……雛は灰色なんだよ」

内緒話をするように、こそこそと囁きながら顔を見合わせる。

ふふと笑う王子にローレルも同じように笑い返した。

しばらくすると、今度はこっちとローレルの手を引いて王子は立ち上がる。

同じ木の裏側に回って、さっきよりも少し低いところにある水色の巣箱を指さした。

「あの巣箱には栗鼠がいるの」
「そうなんですか?」
「ローレル、私を持ち上げて」

ポケットから木の実を取り出すとそれを掲げて巣箱の方に向けた。

両膝を抱えてなるべく上の方に持ち上げるとどうにか手が届く高さだ。王子は巣箱から張り出した、小さな舞台のようなところに木の実を置いた。

王子を抱えたまま静かに後ろに下がる。

「中にいるかなぁ?」
「どうでしょうね」

丸い穴から小さな顔がちらりと見えると、王子はローレルの首に両腕を回してきゅうと抱きついた。

舞台まで出て木の実を抱えると、栗鼠は大きな尻尾を振り回して巣箱に帰っていく。

「……見た?」
「はい、見ました」
「この前はパンのかけらを食べたんだよ」
「そうでしたか」
「あんまり色々なものをあげちゃいけないってリンフォードが言ったんだけどね」
「……はい」
「でもローレルに見せてあげたかったの」
「ありがとうございます、嬉しいです」
「私も嬉しいよ」
「……王子?」
「ローレルがここに来てくれて嬉しい」

ありがとうと、王子がローレルにふたたびきゅうと抱きついた時、離れた場所からわざとらしく大きな咳払いが聞こえる。

「あざといですよ、王子」
「……今のうちにしかできないことをやれって言ったのはリンフォードだよ?」
「実行しているのは大変に素晴らしいことですが……」
「なあに?」
「ローレルさんもローレルさんですよ。よく考えて下さい。王子の周りにいたのは私やグレアム閣下ですよ? 王子がこの愛らしい見た目のまま、心も愛らしく育っていると思いますか?」

王子に顔を向けると、ローレルににっこりと満面の笑みを返す。
それはリンフォードのにっこり顔によく似て見える気がした。

「……とにかく下に降りなさい。いつまでローレルさんの腕の中にいる気ですか」
「ローレル、私を抱っこするのはイヤ?」
「いいえ、まさか」
「おーうーじー?」

すとんと腕の中から着地すると、ウェントワース王子はローレルの背後に回って、今度は腰に両腕を回した。
背中に隠れてぎゅうと身を縮める。

「助けてローレル!」
「うわ! なんかもう、色々とひどい!!」

ローレルは王子を後ろ手に庇うように手を回すと、リンフォードに顔を顰めてみせる。

「それを言い出したら、色々とひどいのは貴方の方だ」
「あ……あれ?!」
「何かと言えば私に触れようとしたり、つつしみのないことを言ったり」
「そうなの? リンフォード……それはいけないよ!」

味方を得た王子は、ローレルの後ろから小さな子どもにするように、めと怒った顔を作った。

呆然とした表情のリンフォードは、ゆっくり両手で顔を覆うと、そのままくるりと向きを変えて、とぼとぼと建物に向かって歩き出す。

「え……え? どうしたの、リンフォード」

ぴたりと足を止めると、振り返りもせずぼそりと低い声をこぼす。

「……戻ります……隙を突いて抜け出てきたんで」
「……そうなんだ。グレアムにちゃんと謝るんだよ?」

項垂れたまま去っていく様子を、ふたりでたっぷり見送って、そのまま顔を見合わせた。

「どうして急に落ち込んだの?」
「……さあ……私の言い方が厳しかったでしょうか」
「でもローレルの言ったことが間違いないなら、いけないのはリンフォードの方だよ」
「そう……ですよね」



リンフォードが書斎に戻ってもそこには誰もいなかった。

机の上もきれいに片付けられて、カーテンも開けられ、家具の曲線に白く陽の光が反射している。

抜け出したと分かった時点でグレアムもやる気が失せていた。
一通り話も聞いたし、やるべきことは他にも沢山ある。

リンフォードはそれでも書斎机の脇に寄せた、さっきまで自分が使っていた椅子にすとんと座った。

斜めの位置にあるローレルがいた椅子に目を向ける。

思い出すのは王子といる時の、優しげな笑顔のローレル。


何度も呆れた顔を向けられたり、やめろだの気持ち悪いだのと拒否の言葉もあったが。
『ひどいのは貴方の方だ』と言われた時は、力強く打たれたような気持ちになった。

ローレルの言った通り、これまで散々 彼女に酷いことを言ったのに、打たれた気になった身勝手な自分に衝撃を受けた。


「…………はぁ……」




転移陣を埋める為に必要だったのは『詮索をしない人』だった。
その人物の強さは二の次、大抵のことは自分でなんとかできる。

余計なことはせず、関心も持たない。
依頼を危なげなく着実にこなしてくれそうだ。

そんな人物に見えたからローレルに依頼をした。

元騎士だということも、ハーティエの国民だったということも、おまけで付いてきた些細な幸運程度にしか思っていなかった。


軽い気持ちで聞けば、離宮に詰めている騎士たちはローレルのことを知っており、是非にも協力をしてもらえと強く推す。

ローレルは義理堅く誠実な人だ。
もしリンフォードに不測の事態があった場合でも、必ず頼りになるに違いない。
話を聞いた誰もが大きく頷いてそれを保証した。

リンフォードが依頼を断られたら、すぐにも仲間の誰かがローレルを迎えに行く用意まであったのだと聞いた。

そのことを知ればなおさら、何度断られようとも諦める訳にはいかない。
皆から話を聞くほど、ローレルを巻き込んで引き入れなければと考えを巡らせた。

まず計画を順調に進めるために、円滑な関係を築かなくてはならない。

人当たり良く、嫌味にならない程度に、いつも笑顔を心がけよう。
主導はこちらであるから、丁寧にしつつも態度は大きくしていよう。
いつもそうしてきたから、そこは特に難しく考えずにできるだろう。

問題なのは。

問題なのは、そう。

ローレルが女性であるということ。
しかも美しい。

ここを意識しないのはかなり難しい。

だからいっそのこと逆手に取ろうと思案した。

女性であるということを、事あるごとに前面に押し出した。

これまでに女性をまともに褒めたことがないので、言えば言うほど気持ち悪いと返されたが、それで良い。

それで良い。

のに。

王子に向けられた、穏やかな笑顔がこちらに向けられることはない。

騎士たちと楽しそうにしている、大きな笑い声も、初めて聞いた。

向けられるのはいつも、自嘲を含んだものばかりで。
子どものように笑ってくれるのは唯一、それこそ子ども騙しのような、魔術を繰った時だけ。



「…………違う違う……それでいいんです。そういう関係でいいんです、私たちは」



ふたりの間に余計なものは要らない。

なるべく単純で簡素に、磨いて必要な部分だけを鋭くしていくこと、それがふたりの関係。

スタンリーやウェントワース王子や、あのクソクソのクソ男に苛つく必要は無い。



「…………………ん゛ん?!」



小刻みに震えている手で覆った顔が熱い。
耳の中でどくどくと鳴っているような、心臓の音がうるさい。



椅子に座ったまま身体を丸めると、口から変な音の息が漏れ出す。


これは何だと己に問うたが、答えはもう解りきっている。





ひとりでは碌なことを考えない。

そこまでは冷静に判断できたので、思い付きのようにアートをしごき倒すと決める。



その場から転移してリンフォードは屋敷に帰った。