朝方になって止んだ雨は、森の緑色を濃くして、空気をぴかぴかに磨いていた。

しかしふたりは、そのしっとりと澄んだ空気を堪能するより先に屋敷に戻される。
乾いた埃っぽい風と、目の下の影がくっきりとしたアートに出迎えられた。



「しっかりと睡眠を取らないと大きくなりませんよ?」
師匠(せんせい)が急がせたんでしょ」
「そうでしたっけ?」
「……おかえりなさい」
「はい、ただいま帰りました。術の組み方は良かったですけど、三番が甘いですね……あと」
「二十四番も雑……分かってます」
「よろしい」

身長の伸び方が落ち着いたのを気にしているアートの頭をひと撫でして、まるまった背をぽんぽんと叩く。

背筋がすと伸びたところで、それほど違わないリンフォードやローレルの肩の辺りにアートの枯茶の髪がふわふわとしていた。

やり取りを静かに見ていたローレルに、リンフォードは何ですかと笑いかける。

「……いや、ちゃんと師匠だなと」
「もちろんですよ。悪い見本がありましたからね。苦労する弟子の気持ちはよく分かります」
「……そうだな」
「アートは休みなさい、ありがとうございます」
師匠(せんせい)は?」
「私はこれからローレルさんと離宮に……良いですか?」
「ああ……うん」
「温習は私が戻ってからにしましょう」
「それはいいけどソニアが……」
「アートはとにかく食べて寝ないと身長が」
「背丈のことはもういいだろ!」
「構うな……アートはこれからもっと伸びる」
「ほんと?!」
「うん……手足が大きい……師を越えるぞ?」

これまで男に囲まれて、次々と背丈を越されていったローレルだ。
身長が伸びそうな人は見ていれば何となく分かる。

ローレルがしっかりと頷くと、アートは腰の横で両手を握りしめて、ぐっと力を込めた。

「……っし!! ……ぃよし!」
「……背丈だけ(・・)越えてもねぇ?」
()の予定だけどな」
「…………まぁ、まだまだ道のりが長そうですが、励むといいですよ」
「……うわぁ……腹立つわぁ」

話をしながら庭から屋敷内に入ると、部屋の中に恭しく頭を下げている侍女のソニアがいた。

「お帰りなさいませ、お湯とお食事の用意がございます」
「いいえ、それは離宮から帰ってからで……」
「はい?」
「はい?」
「まさかそのナリで御前へ?」
「そのつもりですが……口が悪いですよ、ソニア」
「風呂に入ってお召し物を改めなさいませ。食事を取って休息をして、それからでございます」
「私のナリなんてどうでも良いでしょう?」
「坊っちゃまはいつもの事なのでどうでもよろしい!」
「……なるほどそうですね。確かにローレルさんには清潔でいてもらいたい」
「……よく匂いや不潔さを気にされるが……なんだ私は臭いのか?」
「ローレルさんは良い匂いです!」
「……虫除けでな?」
「そんなものなくても、貴女の肌も髪もとても……」
「やめろ、気色悪い」
「薄汚れて疲れた風情もそそりますが、内も外も充実したローレルさんもまた美しい!」
「おっしゃる通りです」
「……いやそもそも離宮に出向くならそれ相応にするべきという話では?」
「納得ですね。……ではこれからお風呂に入りますよ、ローレルさん!」
師匠(せんせい)は俺の部屋の風呂な」
「なんですって?!」
「……え、何でそこまで驚けるの?」
「その無精髭を剃って、髪を整えていらっしゃいませ」
「森での探索で増しに増したこの野性味を改めろと?!」
「似合ってないからな」
「そんなバカな! ローレルさんはどう思いますか?!」
「……私はこの部屋の風呂を使えばいいんだな」
「……左様でございます」
「…………ほら。行くよ、師匠(せんせい)



人間らしい文明を甘受したリンフォードは、増しに増した野性味はすっかり湯で洗い流されて、元のお坊っちゃまに戻った。

これだけは譲れないと自分を後回しにして急いで自室に戻ると、ローレルの髪を乾かそうと待ち構える。

小さな子どものように喜んだ顔を満足気に見て、リンフォードも子どものような顔で笑った。

ゆっくりと食事をし、さらに休憩をし、午後を過ぎてから離宮に向かう。

今回は良い服ではなく、いつもと変わらない格好で。
ローレルは自分の荷を担いでいた。




グレアム閣下と会い、ローレルがいた間の王城の様子、それから隠し通路などを図面に書き込んだ。

知っていることはそれほど無いと思っていたが、リンフォードやグレアムから降るようにされた質問にはほとんど答えることができた。

特に組織内の構成、役職の入れ替わりの話題には長い時間を割いた。
ローレルが王城を去る二年前の話だが、急拵えだった機構はそれなりに落ち着き、ぎくしゃくとしながらも進行していた。

出てくる家名はどれも、落ち着くところに落ち着いていた印象だとふたりは頷き合う。
予想もそう外れてはいない。
よほどのことがない限り大きく変わることも無さそうな顔ぶれだと、グレアムもリンフォードも結論を出した。

予想の通りなら確かめなくてもとローレルは言ったが、知っていると知らないとでは格段に考える量が変わるとリンフォードが返す。

明日は各家の動向について聞こうと話を終える。

陽が暮れかける時間になってローレルはやっと解放された。


スタンリーが呼ばれ、離宮の裏手にある別棟の建物に案内される。
元は下働きや小間使いが詰める宿舎らしいが、今は更に裏手にある厩舎ごと騎士たちが使っていた。

「部屋は余ってないから俺と一緒な」
「ああ、うん」
「ああ、うんじゃねーわ」
「うん?」
「明け渡せとか言えよ」
「ああ……明け渡せ」
「……お前さぁ……なんでこっち来てんの?」
「……どういう意味だ。何が言いたい」
「あいつがいる屋敷にいればいいだろ?」
「なんで?」
「なんで? え? いや、ほれ……んん? あれ? お前らそういうそれじゃないの?」
「…………………………は?」
「うお、怖ぇな……なんだ、てっきりそういう仲なのかと」
「雇用主だった……もう違う」
「へぇぇぇえ?」
「……はぁ?!」
「男と女が何日もふたりっきりで、なにも無かったとかあるのかよ」
「スタンと私もなにも無かったぞ?」
「いや、そりゃお前。ガキの頃の話だろ」

ハーティエの騎士は訓練の際、よく二人一組にされる。スタンリーとは同期で攻守の相性が良かったので、一緒にされることが多かった。

王城外での警邏訓練や、野外の訓練は特に。
反射で突っ込んでいくスタンリーに、冷静に判断するローレルがちょうど良かった。
機動力と守備で、他は真似ができないと言われていた。
重く破壊力のある剣と軽くとも誰より早い剣。

他のどの騎士より長く一緒に過ごしたので、何でも話すし遠慮も無い。
何より考え方も気も合った。

スタンリーがリンフォードに言った言葉は間違いではない。
王城にいる間は本当に兄弟のように過ごしていた。

「お前はどうか知らんが俺は意識してたぞ。お前、胸が出かかってたしな……ガキはその辺 見境ないだろ? さすがの俺も毎晩悶々としたもんさ」
「うぇ……気持ち悪っ! あっち行け!」
「……いやぁ、まったく立派になったもんだな!」
「おいその手付きをやめろ」
「俺のも立派になったぜ! 見る?」
「……馬鹿は相変わらずだな」
「……まぁ、冗談はさておき。詰所は男ばかりだぞ? いいのか?」
「今までもそうだったろ?」
「だーかーらー。それは全員ガキだったからなんにも無かっただけだろーもー」
「女に現を抜かす余裕があるのか?」
「俺みたいな紳士ばっかりじゃ無いって話をしてんだっつーの」
「ん? 紳士とは? まさか私の知らない新しい解釈ができたのか?」
「茶化すなよ。気を付けるんだぞ」
「……分かったって」
「だから俺と一緒の部屋な」
「いや、明け渡せって」

案内された部屋はそれなりに片付けられ、スタンリーのものはすでに別の部屋に運ばれていた。
最初から明け渡す気は満々だったらしい。

部屋に荷物を置いただけですぐに、皆が集まる食堂に連れて行かれた。懐かしい顔を見て、駆け出しの騎士の頃を取り戻した気がした。

といってもそれはスタンリーを含めて両手の指の数で足りる。

ローレルの話で、亡くなった仲間と、袂を分かった者とを確認した。

かつての仲間ともこれから敵として剣を交えるのだと、スタンリーたちは覚悟を改める。



詰所にいる騎士たちの半分は元の仲間であった者たち。
スタンリーが気を付けろと言ったのは、残りのもう半分の騎士たちのことだった。

この国テイリーンや東のイーリィズ、西のプロヴァル。

大っぴらに同盟とは言えないが、この周辺三国は、協力は惜しまない姿勢を見える形で表していた。
各国の騎士や軍人が同じ宿舎に一緒に詰め込まれている。

地位の高い騎士や軍人は客人扱いで離宮の方にいるので、その次点や補佐がこの場にいた。

プロヴァルは騎士制度があるが、女性は認められていない。
この国とイーリィズには軍があり、それなりに女性もいるが後方支援が主だ。
そもそもハーティエだって、前線に出た経験のある女性の騎士は、ローレル含めても片手で足りる人数。

女性騎士のほとんどの仕事は要人や王族の警護、その端に居るお飾りのような立場でしかない。

騎士としての立場は低く、馬鹿にされたり侮られることに、慣れたくはないが、これまでもそういうことは数限りなくあった。

毎度のことだと思えば、心中で大きくため息を吐いてその場はやり過ごせる。

見ていた仲間も苦いものを噛んだような、同じような表情をしていた。

ローレルが堪えているのに、無駄な波風を立てようとはしない。
それは長く同じ時を過ごした、気心を知った仲だから敵う、考えの一致。
ローレルは久しぶりのこの感じに胸の真ん中が締め付けられて熱くなる。



明けて翌朝からは剣を振るった。

ちゃんとした稽古は久しぶりだったので、勘を取り戻すまではもう暫くかかりそうな気がする。

スタンリーたちと軽く手合わせをしてみたが、自分も相手もそれぞれで鍛えてきたのか、正統な形を基本にして、やり易いように我流が含まれていた。

にやにやしたり、時に大きな声で笑い合って、ひとつも真剣味のない稽古をした。


昼前の時間に昨日の続きをとリンフォードが訪れる。


じゃれあって遊んでいるようなローレルたちの稽古を見て、むっすりと顔を顰めていた。
キリの良さそうなところでずかずかと歩み寄ってくる。

「行きますよ、ローレルさん」
「うん? 分かった」

剣を鞘に納めると、すぐにその手を掬うようにして持ち上げた。

「掌がぼろぼろになってるじゃないですか」
「…………これだけ稽古したのは久しぶりだからな。まぁこうなる」
「きれいな水で洗いますよ……治療しましょう」
「……これは今まで怠けてた私の落ち度だから」
「それとこれとは別の話です。明日もきちんと稽古したいなら治しましょう」
「えー? じゃあ俺の腕も治してくれよ。ローレルに斬られた」
「……掠っただけに見えます。そんくらい舐めときゃいんですよ」
「あっそ。……じゃあローレル舐めてくれ」
「ローレルさんが舐めていいのは私だけです! 代わりに私が舐めて差し上げますよ!」
「…………っえ。何言ってんのこいつ」
「…………知らない」
「……あれ? ちょっと待ってください、ローレルさん」
「なんだ」
「昨夜はどこで眠ったんですか?」
「……どこって……宿舎(ここ)
「の?!」
「……俺の部屋の俺の寝台だよな?」
「……なんですって?!」

スタンリーは背後からローレルにがばりと抱きつく。

「朝イチから俺くさいって文句言ったよな?」
「はぃいい?!」
「こういうふうに包まれるようにして寝たんだよなぁ?」
「ローレルさんそれは本当ですか?!」
「スタンが使ってた毛布にな……いいから離せ」

後ろから体に回っているスタンリーの腕と、前からリンフォードが握っている手を振り解く。

スタンリーはにやにやと口の両端を持ち上げていた。

「匂いの違いが分かったのか?……お前 鼻がいいな!」
「私のローレルさんがケモノ臭いんですよ!」
「おい、誰がケモノ臭いだ! 俺は朝露に濡れるお花の香りだぞコラ!」
「こんな奴 放っておきましょう。行きますよローレルさん」
「……はぁ……じゃあ、スタン。続きは後から」
「おう、後でな」

ずんずん歩いていくリンフォードと、その後を追っているローレルの背中が小さくなるのを見送った。

隣にジェイミーが音も無く並ぶ。

「あんま煽るなって」
「私のローレルさんだとよ」
「お兄ちゃんが爆裂してるな」
「……気もねぇのに『私の』とか言ってんじゃねぇって話だろ」
「あ、そうなの?」
「ありゃ好きな女を見る目じゃねぇよ。ローレルだって分かってる」
「なんだてっきりおちょくってるんだと思った」
「あいつローレルをどうする気だ」
「妹かわいいか?」
「お前は違うのか」
「かわいいねぇ」
「……よし! お前もがんがん揶揄っていけ!」
「うわ! やっぱり面白がってた!!」




ジェイミーの背中を小突きつつ、角を曲がってなくなったふたりの後ろ姿を、それでもスタンリーは見続けていた。