もうすぐ陽も落ちようかという時間になると、森の中では地面から先に夜が迫ってくる。

木や草が生い茂りその下に濃い影が落ち、故にふたりの周囲の方が空よりも暗い。



少し前から風が強くなって、火の粉が飛ばないように面倒をみていたが、嫌な予感は現実になった。

ざわざわとした草木の揺れる音の中に、ぱつりぱつりと葉に当たる水の音が聞こえだし、それはすぐに連続したものに変わる。


ひとつ悪態を吐き出して荷を背負い、ローレルは集めた焚き木を片腕に持てるだけ抱えた。

それはリンフォードも同じく、魔術で火を消すとこちらにと先に立って走り出す。

「あっちに巣穴を見つけたんです。まぁまぁ大きめの」
「巣穴?」
「ええ……何もいないようでしたので、安心してください」
「雨がしのげそうなのか?」
「木の下に居るよりは」

ひどくなっていく雨足に、夕暮れとはまた違う暗い空を仰ぎ見てローレルは勢いよく息を吐く。

しばらく走ってたどり着いたのは、人ひとり分の高さがある段差の下。
見た目は小さな崖と形容できそうな場所だった。

土ではなく、まばらな草の間からは岩肌が見えている。

「私とローレルさんくらいなら入れるでしょう?」
「本当に何も居ないんだろうな?」
「うーん。奥まで行ってはないので、確実とは言えませんけど……新しそうな臭いも無いですから」

少し身を屈めて穴を覗き込んだが、もちろん奥は暗くて何も見えない。
すぐに突き当たりが見えそうな奥行きでもない、洞窟であろうと思えた。
確かにリンフォードの言う通り、新しい獣臭さはない。
入り口からだけだが、大型の生き物が生息していそうな気配は感じない。

「私が見つけた時は生えた草が入り口を覆ってましたよ」
「中で火は使えそうか?」
「最低限にしましょうね」

奥までは足を踏み入れず、雨の降り込まない場所に荷を置いた。
その上にローレルは腰を下ろす。
腰を曲げないと入れない高さ、向かい合って座れるが、間に火を挟めるほどは間隔がない幅の洞窟だ。

この入り口の大きさの獣が何度も通ったからだろうか、それとも誰かが意図して掘ったのだろうか。
そう思えるほど天井は丸く、そのままの形が奥まで続いているように見える。

「あ! こっちに来てくださいローレルさん! 足跡ですよ。見事ですねぇ」

出入り口の近くにしゃがみ込んでいるリンフォードの側にいって、背後から覗き込む。

流れ込んだ雨水で、獣の足跡の形に水溜りが出来ていた。

「……イヤな大きさだな」
「私の足より大きいですよ、ほら!」
「嬉々とするな」
「この足跡の大きさから推測して……ここに住んでいた獣は、きっとこの巣穴が小さくなったから出ていったんでしょうね」
「この穴に入りきれない大きさの獣が近くにいるってことか」
「だとしても、この中には入れないってことですから、逆にここの方が安全なのでは?」
「……そうか?」
「ん? あ……いけませんね。風邪をひいてしまいます!」
「……ああ、悪い」

上から覗き込んでいたので、ローレルから水の粒がぽとりぽとりとリンフォードの肩の辺りに落ちていた。
これ以上は落とさないようにと、ローレルはリンフォードからふいと体を離す。

「私の話じゃありませんよ、ローレルさんが、です!」
「……大丈夫だろう」
「さあ、その濡れた服を脱いで下さい!」
「脱ぐ必要はない」
「裸でないと!」
「何故だ」
「お互いの肌で冷えた体を温め合うためですよ!」
「何言ってるんだ。乾かしてくれ。魔術で」
「…………ちっ。忘れてないですね」
「今 舌打ちしたか?」
「うーん! 無駄使いしたくないなぁ!」
「なんだ魔力の話か? なら私だけ乾かせ、貴方は濡れたままでいれば使う魔力が半分で済むぞ」
「雨に濡れた男女がすることしなくて良いんですか?」
「だから服を乾かしてくれって言ってるじゃないか」
「乾かしてる間にすることがあるでしょう?」
「……魔術で乾かせば一瞬だろう?」
「押し通せませんね……」
「通せる気でいるのに驚きだ」
「寒さに震えるローレルさんを抱きしめたいのに……」
「貴方が私に風邪をひかせるような下手を打つものか。大変に優秀な魔術師様なんだからな」
「うぅぅ……まったくその通りですよ!」

リンフォードは恨めしそうな顔でローレルに片方の手のひらをかざす。

「そこに座って、髪をほどいてください。まとまってたら乾きにくいので」

言われた通りに荷物の上に座り、結ってあった髪を下ろし手で軽く梳いて、これでどうだとローレルは見上げた。
それを見届けたリンフォードは口の中でもごもごと詠唱して、ローレルの腕をとんと軽く叩く。

足元から熱風が巻き上がるように通り過ぎ、一瞬だけ何もかもを持ち上げるようにしたすぐ後には、ほのかな温もりと、さらっとした衣服が肌を覆う。

はたはたと自分のあちこちを撫でて乾いているのを確かめると、ローレルはくすぐったそうに少し肩をすくめて笑った。

「……はは! 本当にすごいな」
「ローレルさん、これ好きですね」
「面白いからな」
「むぅ…………今回は引いてあげますよ」
「なに?」
「かわいいからゆるーす!」
「何でそう上からなんだ」

半分は機嫌が元に戻ったリンフォードが今度は自分を乾かす。
髪を結う手を止めて見ているローレルの、子どものような好奇心いっぱいの顔に、リンフォードも完全ないつものにっこり顔に戻っていた。



始めの勢いは無くなったが、まだまだ終わらないと言いたげに、小さな水の粒は落ち続けていた。


ふたりより出入り口に近い場所で、最小限の焚き火が燃えている。
どこかに空気の通り道があるのか、煙は中に入り込まず外に流れていた。

軽く食事を終えた時には、陽は落ちきって夜がこれからと大手を振って闊歩する。

いつもなら陽が落ちればすぐに、リンフォードはさっさと眠る。交代で見張りに起きるために。
でも今夜は横になる気がおきない洞窟の中、明日には屋敷に戻れると分かっているからか、一向に眠る気はないようだった。

「……考えたんだが」
「……何でしょう?」
「今後の自分の身の振り方について」
「……はい」
「騎士を辞めたのは、国や王に仕える気が無くなったからだ。全部が一度に嫌になった」
「……でも?」
「はは……そう、でも、だな」
「新たな王がいる」
「……うん」
「しかも正統な」
「そうだな……貴方には腹立たしさしかないが」
「おっと」
「それも貴方の国と王への忠誠心からだと思うことにした」
「……ほらやっぱり」
「うん?」
「貴女は優しい」
「貴方は腹立たしいな」
「心中お察しします……それで?」
「協力しよう」
「ありがとうございます」
「でも」
「でも?」
「私はまともに戦えない」

腰から外して壁に立て掛けてある長剣にローレルは目を向けた。

騎士と認められた時に賜る長剣には、魔術が施されている。
国と王を守ると誓いを立て、その時に長剣を授かった。剣身には剣自体を強化する術と、名や所属する部隊までが彫り込まれている。

その部分が少しでも欠けたり傷ついてしまうと、術は発動しない。

ローレルは城を離れる際に自らそこに傷を入れた。

今も未練がましく持っているのは、手に馴染んでいるだけではなく、それなりに苦楽を共にした相棒だと思っているからだった。




五年前。

十六の年を数えて見習いから、それが外れて騎士を名乗れるようになった。
ハーティエでは男性は十四で、女性は十六で成人とみなされ、歴とした職と明言することができる。

市井ではもっと幼いうちから仕事をこなし身を立てる者もいるが、王城内ではどれほど優秀であろうがなかろうが、成人する年までは見習いでしかいられない。

城に所属する騎士にも色々ある。見た目だけは柔和な王や王族の護衛を主とする部隊や、気安さが表に出る城下の守りを主にする部隊など、それぞれ師団ごとに特色と役割があった。

ローレルはその十六の年で、王直属の師団に配属になった。中でも武闘派が多い荒事ばかりの先鋭部隊だと王城内の誰もが知っている。
当時の師団長から、こっからここまで俺の部下、のひと声でいとも簡単に決まった。

ローレル自身は特に優秀ではないと思っていた。周りの同輩がみな凄いから、まとめて掬い上げられたのだと考えた。
そこについて行こうと努力して、追い付けることが優秀である証なのだと、本人は知らないままに。

それが功を奏してか、ローレルの懸命な姿を悪く言う者はほぼいなかった。少なくとも同じ師団の中には一人としていない。
数少ない女性で、若年。身体も大きくなかったから、それなりに大目に見てもらえたのだろうとローレルは勝手に思っていた。

小さな王子の乗馬の練習に抜擢されたのも、自分が若年の女だからだと考えた。
先ずは馬が怖くないことを理解していただく為にと、明るく温和でいることに重点を置いて接する。

そこから時々、ウェントワース王子やベルナデッタ王妃のお側に行く機会が増えていく。

王族と関わる機会が増えるだけ、ローレルは国と王への気持ちを高め、そんな自分を少し誇らしくも感じていた。



ローレルが騎士になって一年も経たないうちに、ハーティエ国王が病に伏した。

そこからは急な坂道を転がり落ちるように、国が傾いていくのを日毎に感じた。

良くない噂ばかりを耳にし、かと言って自分の立場でできることは何も無い。

すぐに王妃は位を退き国外に、嫁ぐ前の故国に退居する。
国の定めで王族は離縁はできない決まりだったが、王は伏す直前にその決まりを撤廃していた。
こうなると見越していたのだと後から話を聞く。

その後を追うようにして、当時六つだったウェントワース王子も母を追って城を発ち、国外に向かった。
直後に『不運な事故』に遭われてその命を落とされたとの情報が城内の人々の心を大きく揺さぶる。



全て王弟の、それに侍っている魔術師長の奸計であることは、城中の誰もが知っていた。
王が病に伏せた原因さえ、魔術師長が関係しているとの憶測が囁かれた。


王弟とはいえその母は側室であった。
しかも元の身分は侍女、母もその子もずいぶんと風当たりは強かった。
本人たちも弁えて、ひっそりと王宮の隅で慎ましくしていたらしい。
そこに反王政派が巧みに近付いてくる。
その先頭にいたのが、名ばかりのリンフォードの師であった王宮魔術師長ダルトワ。

現在の王政を覆し、誰もを平等にと旗印を掲げて、国王を名実ともに玉座から引きずり下ろした。

立派な御旗に目を輝かせ、耳障りの良い言葉に賛同する者も少しずつ増えていく。

主張はそれなりに正しいことのように聞こえるから、特に若い者たちの間では、どちらの言うことにも一理あると考える者は少なからずいた。
実際にローレルも仲間との間でそういう議論は幾度となく交わした。

結論には達さぬうちに、事態はどんどん変化していく。

王はこれまでの咎を償うべきだと地下牢に幽閉され、その後にお姿を見た者は誰もいない。

もちろん偽りの王が立ったことに大人しく従う者は居なかった。
特に嫡出子こそ正統の王だとしている親王派は激しく抵抗した。

王城内は静かに、それでも混乱を極めており、反王政派と親王派がお互いに潰し合い、少しずつ数を減らす。
騎士ばかりではなく、文官やその家族まで巻き込まれ、この争いの犠牲者は増す一方。

最期の決め手になったのは、親王派の先頭にいたジェローム師団長の死だった。

父か師匠かと思うほど慕っていたジェロームの死で、ローレルは全てに於いて心を動かせなくなる。

彼の『その日まで耐え忍べ』という言葉すら、希望の光と見ることが、ローレルには難しかった。

かといって城を離れることもできない。
師団長の死で、代理だったレアンドロが師長に繰り上がり、頭数が減った師団で、そのままローレルも繰り上がって隊長格になった。
そうなれば格段にしなくてはならないことが増えていき、やりたくないことも比例してどんどん多くなった。

親王派だった師団は、長がレアンドロに変わった時点でくるりと方針が変わった。

ローレルも機を伺っていたはずが、自分の心を押し殺すあまり、反する気も少しずつ疲弊していく。

いいように使われているのは分かっていた。
身に染みて。

心が擦り減っていると分かっていた。
それでも言われるままに動いていた。
物のように扱われても、平気なほどに心の中には何も無かった。



レアンドロに背後から斬られ、生死の境を彷徨うまで。


目を覚ましてまだ生きていたのかと自覚するまで。


ここに居てはいけないと城を離れると決めるまで。


刀身を傷付けて自ら騎士を辞めるまで。


国を捨ててそこを出るまで。






外はさあさあと小さな雨粒が葉を叩く音、ぽたりぽたりと大きな雨粒が落ちる音。

枯れ枝が炙られて爆ぜる音が小さく聞こえていた。

暖かく湿った外の空気が入ってきたり、逆に乾いた冷たい空気がそれを押し返したり。

当たり前にあるささやかな周囲の変化や、間近にいる誰かの存在を。

落ち着いた気持ちで受け入れて、それを感じられる自分がここに居るのだと、改めてローレルはそこに思い至る。

心は擦り減り、疲弊しても。

無くなりはしていない。
今もまだ。



「ローレルさん……戦い方は人それぞれです。何も誰かを打ち倒すだけが戦いではありません。それぞれが、できることを、できるだけ、です。それが戦うということです」