馬車が到着したのは、澄んだ水を湛えた湖のほとり。
周囲を針葉樹に囲まれた、濃い緑の多い場所。
その陰にひっそりと建つ白が美しい館だった。

白っぽい石畳の上に降り立って、ローレルはその立派な館を見上げる。
建物の正面ではなかったが、そこから見える外観だけでも、自分たちがいた屋敷の数倍の規模がありそうだ。
並の貴族の持ち物ではないのはすぐに知れた。

「ここは?」
「テイリーン国王の離宮です」
「この国の」
「貸してくださっているのです。ここに詰め込まれた、の方が近いかもしれませんが」

こちらですとにこにこ笑いながら、リンフォードは先に立って歩き出す。

正面ではなく、裏手にあたるような扉から中に入り、華美ではない使用人が使うような通路を進む。
館の規模を考えればひと気のない通路を、奥へ奥へと向かっていく。

人の姿どころか気配さえ感じない。

「人が居ないな」
「そうですね、少なくしてあります」
「守りは大丈夫なのか?」
「あ、やっばりその辺気になります? さすがですね、職柄ですか?」
「……誰だってここまで静かなら気になるだろう」
「守りの方は大丈夫ですよ、出入りは厳しくしてありますから」
「……魔術でか」
「そうです。裏側(こっち)からは私とではないと通れないので気を付けてください。この方が近道なんですよね」
「……気を付けるもなにも」

しばらく歩いて通されたのは、応接か会合のための大きな部屋だった。

中央には大人数で囲める卓と椅子が並ぶ。
その端には低い卓と、見ただけでふかふかだと分かる椅子もあった。

リンフォードはその低い卓の方へどうぞと手を向けたが、ローレルはそこへ掛けずに、大きな卓と低い卓の間に立つ。

そこだって充分な広さがあるし、それ以前に悠長に座っていられる気分でもなかった。



目線だけでゆっくり部屋を見回していると、大きな両開きの扉の片方が少しだけ開いた。

隙間から小さな顔が覗くと、その人はローレルを見て、ぱっと表情を明るくさせる。

「あ! やっぱりだ……私のことを覚えている?」

扉をすり抜けるようにして、少年が走り寄る。

ローレルが最後に見た時より、背丈は随分と伸びて、幼い丸みがすっとしたものに変わっていた。

それでも以前の面影は変わらずに残っている。

柔らかく微笑むその顔に、ローレルは言葉を返せず、力の抜けそうな膝を根性でゆっくりと折り曲げて、なんとか崩れ落ちることなく片膝を突いて礼の形を取った。

「……生きて……おいででしたか」
「まあね。貴女も息災のようでなにより」

それ以上何も返せず、ローレルは床に目を落として絨毯の織り目を見続ける。

ローレルの中でこれまでの様々が駆け巡って、目の周りが熱くなるのを堪えようと何度も瞬いた。

妙に空いた間を取り繕うように、リンフォードの明るい声がする。

「おや、ローレルさんと面識が?」
「うん……私を仔馬に乗せてくれたんだ」
「ほぉ、そんなことが」
「すごく楽しかったからね、よく覚えているよ」
「美しい想い出というやつですね」
「やつだよ、リンフォード。連れて来てくれてありがとう」
「礼には及びませんよ」
「……ねぇ、いつまでもそんな格好しなくて良いよ。あっちに座る? こっちが良いかな?」

少年は稚い素振りで、左右の卓を指さし、少し首を傾げる。

「……いえ。いいえ。私はこのままで」
「ウェントワース様、提案ではなくて用命じゃないと動きませんよ、ローレルさんは」
「……そうか。ローレル、そこに座りなさい」
「いいえ、王子」
「だってこのままだと話し難いもの。さあ、座って? ね?」

脚に力が入らず立てる気がしなかったが、リンフォードが横から手を差し出したので、それに掴まってなんとか立ち上がる。

少年は一人掛けのふかふかで立派な椅子にちんまりと、しかし堂々たる姿勢で座す。卓を挟んだその向かい側の長椅子にローレルは浅く腰掛けた。

当然のようにリンフォードがローレルの横に座る。

「……ご無事で」
「うん、まあね」
「……良かった」
「私を案じてくれてありがとう」
「……もったいないお言葉です」

前触れもなく今度は無遠慮に扉が大きく開いて、次に入って来たのは大柄な男だった。

それを見てローレルはすくと立ち上がる。

「なんだ、ここだったか。探したぞ」
「ここだと言ったよ」
「この宮は『大きな部屋』だらけだと知らないのか……まったく。足が速くなった自覚を持ってくれと何度言ったら分かるんだ……おう、来たな若いの」
「……グレアム閣下」
「畏まるな、今じゃ唯の人だ」

よせと言ったふうにふらふらと手を振るその顔に、ローレルは胸を締め付けられる想いがした。
部下全般を『若いの』と一括りに呼ぶのも、以前と変わらない。
昔が戻った気がしてぐっと胸が詰まる。

ただ前よりも髪や髭に白いものが混ざり、昔にはなかった目元のしわ、大きな傷が頬の上を走っている。

胸の苦しさを均そうと気を整えていると、王子からはううんと思案の声が聞こえる。

「その言い方でいくと、私も唯の人だよ」
「私もそうなりますかねぇ」
「遜るのは美徳じゃないよ、グレアム」
「……若いのに畏まられたくなかっただけだ。遜ったわけじゃないぞ」

ひとつ息を吐き出して、ローレルに座れと軽く手を振った。

グレアムは歩み寄ってぐるりと椅子を回る。
ウェントワース王子の横にどしりと腰を下ろしたのを見届けて、ローレルもそっと椅子に掛け直した。

「あー……あーお前、あれだな。ジェロームんとこの下にいたな」
「はい、ご存知でしたか」
「うん、存じてる存じてる。できる奴は大体覚えてるぞ」
「ああ、やっぱりローレルさんは優秀なんですねぇ」
「んまぁ、そもそもジェロームんとこが粒選りの集まりだったもんな」
「ほうほう、なるほど」
「横着者だからな、良いの揃えて自分が楽したかったんだろよ……あいつどうした」
「…………亡くなられました」
「…………そうか……まあ、あいつなら、そうだろうな」

しんと静まった空気を混ぜ返すように、ウェントワース王子は表情を明るくさせる。

「リンフォードから貴女の話を聞いてね。もしかしたらって思ったんだよ」
「……そうでしたか」
「仔馬に乗ったなんて、ずいぶんお小さい時の話ですか?」
「うーん、四つか五つか……そのくらいだったよね」
「はい……そのように記憶しております。よく覚えておいでですね」
「言ったでしょ、楽しかったもの。それに、大きな馬に乗るようになっても、しばらくは貴女がいいなと思ってたから」
「待って下さい、王子。ローレルさんを口説いているんですか?」
「何言ってるのリンフォード。分からないかな、大きな馬に乗りだしたら、私の周りはみんなこうなっちゃうんだよ」

王子は隣にいる、体格の良いグレアムの膝をぺちぺちと叩いた。

「ああ、それは厳つくていけませんね」
「口喧しいし」
「ちやほやしてどうするんだ。おかげで一人前に乗れるようになっただろう?」
「こうして恩着せがましいもの」

気安く和やかに笑い合う姿を見て、ローレルはやっと心の中身が落ち着いてくるのを感じた。

身罷ったとばかり思っていた王子が、今、目の前にいる。

笑顔で、成長した姿で、ここに確かに在る。

リンフォードが成そうとしていることが、ただの戦や国盗りではなく、王位の奪還であるのだと、今になって腑に落ちた。

それはローレルの身体の芯の部分に熱を起こさせる。
冷たく暗い場所から、陽の光の下に引き出された心地がした。

「しかし……王子がローレルさんを知ってるとなると、なおさらですねぇ」
「なんの話?」
「やはり是非とも協力してもらわなければ、と考えます」
「……リンフォード」

ふうと細く長く息を吐き出すと、王子は困ったような顔をリンフォードに向けた。

「強いるのはいけないよ」
「王子が『お願い』すれば一発なんですけどねぇ?」
「私はそんなことはしないよ。ただ思った人か確かめたかっただけだからね」
「ほーん……じゃあ、俺が『お願い』してみるかな」
「グレアムも。ダメだよ」
「手勢は一人でも多い方が良い。出来が良いならなおさらだ」
「だから……意思が伴わない手勢を増やしてもしょうがないでしょう?」
「王子……それは大変に良いお考えですね。素晴らしい」
「ならリンフォードもそう考えてよ」
「そこを他所に置いても、ローレルさんが惜しいのですよ」
「……だなぁ」
「もう、ふたりとも」
「グレアム殿も賛同してくれるとなると、益々ですね。私の目に狂いはなかったようです!」
「なんだ、自賛してるのか」
「他賛もしますよ、グレアム殿に見込まれるとは。さすが私のローレルさんです」
「私の?」
「おっと、他意と計算が多分に含まれた言葉がついうっかりと」
「それを口にするから胡散臭くなるんだろが。そこは上手いこと隠しとけよ」
「根が正直だと黙ってられないですよね」

徐々に眉間に皺が寄っていたローレルに、王子は申し訳なさそうに両方の眉の端を下げる。

気にしなくていいからねと王子は告げた。

「本当に、少しで良いから会いたかっただけだったんだよ。振り回してごめんなさい」



真摯に向けられた表情と言葉に、ローレルは小さくいいえとしか返せなかった。







離宮から戻る馬車の中は静かだった。


ローレルは腕を組んで、壁に寄りかかり、小さな窓から、流れていく緑色を目で追っていた。

斜め向かいに座っているリンフォードは、逆向きに流れる反対側の車窓を眺めている。

「ジェローム師団長はいつお亡くなりに?」
「王子が身罷ったのが知れて……ひと月ほど後に」
「そうでしたか……隠伏しているものとばかり」
「そんな方ではない」
「そうですね」
「王子とグレアム閣下は遺体が見つかったと聞いた」
「私の大活躍ですね、上手くごまかせました」
「……貴方も王宮にいたのか」
「そうですね、宮廷魔術師の末席でした」
「ここにきて謙遜か?」
「ふふ……バレました? 上が碌でもないと優秀なものほど下に置かれちゃいますよね」
「……だな」
「ジェローム師団長が亡くなられたから、あのクソクソのクソが繰り上がったんですね?」
「私もそのクソクソのクソのうちの一人だ」
「ここにきて卑下ですか?」
「私は何も出来なかった」
「ローレルさん……」
「逆らえず、流されるままだった」
「ジェローム殿は『その日まで耐え忍べ』と言ったのでは? ローレルさんはそれを守ったんですよね?」
「なぜそれを……」
「ジェローム隊の数人がこちらに。その方達から聞きました。貴女のことも」
「ああ……生きていたか」
「ローレルさん……『その日』はもうすぐです。貴女のこれまでの協力のおかげで」
「森の中を歩いただけでか」
「……そここそが重要だったんです」
「……そうか」
「何も出来なかったと悔やんでいるのかも知れませんけど、為せることはこれからいくらでもあります」
「口が上手いな……思わず信じそうだ」
「騙されてくれませんね」
「これまでを無かったことにはできない」
「…………立ち入ったことを聞いても?」
「なんだ」
「あのクズクズのクズはどうしてローレルさんを手込めに?」
「手込め……」
「表現変えます?」
「ずいぶん立ち入ったな……」
「答えたくなければ結構です」
「……今はどうか知らないが。私がまだ居た頃、王城の女性の騎士は……いや、騎士に限らないか。女性は……あぁ、可愛らしい男性もだ。……まぁ、みんな娼婦のように扱われた」
「……そ……うだったんですか」
「王師団長の女でいれば、他からは手を出されない」
「……すみません、女だなんて、本当に言い方が悪かった。許して下さい」
「別に当て擦りじゃない……事実だ」
「いいえ、考え無しの私が悪かったです。……そんなこととは、想像すらしなかった」
「誰も想像なんて出来ない……陛下が居られた頃とは何もかも変わってしまった」
「ダルトワはまだ簒奪者に侍っていますか?」
「死んだ話は聞いてないな……貴方の師か?」
「あれを師匠だと思ったことは一度も無いです……立場は下にしてましたけど、私の方が優秀ですから」
「……そうか」

窓の外を見たまま、鼻で軽く笑っているローレルに、リンフォードは目を向ける。

自分で自分を笑っているようなローレルの表情に、喉の奥にできた硬くて大きな塊を、リンフォードはゆっくりと飲み下していった。

「ローレルさん……もうひとつ」
「なんだ」
「背中の傷は?」
「……何だろうな……私には心当たりのない責任を取らされた」
「責任?」
「玉座の間に連れて行かれて、急にばっさりだ……妾にしたがってたからな。騎士として使えなくしたかったんだろう。失敗の責任も負わせられたし、あの男にしては頭を使えた方だ」




周囲の空気がちくちくする感覚がして、ローレルは向かい側を見る。


リンフォードは静かに俯いていたが、ぱりぱり音を立てる青白い光がその身体を覆っていた。