さくらは車から出る事に躊躇していた。
この先へ一歩踏み出したら、混乱と欲望の世界が待っている事を理解しているみたいに。
俺は何も気にしていないふりをして、さくらの手を優しく握った。
深夜の地下駐車場は異様なくらいに静かで不気味さが漂っている。
そんな場所に長居はしたくないし、その感覚はさくらも一緒だった。
さくらは、小さく息を吐き、俯く仕草を止めた。
そして、伸ばした俺の右手の上にそっと左手を乗せる。
もう、心は決まっているみたいに。
十一階にある俺の部屋まで行くのに、二人は黙ったままだ。
京都に戻ってきて、実家に住む事を拒んだ俺の唯一の癒し場所がこのマンションだった。
祖先が敷いた強固なレールの上から逃げ出す事はできない。
旅館運営の事とか、リーダーとしての資質とか、たくさんの人達の期待や失望もそう。
世襲企業の御曹司として生まれ落ちてしまったゆえのストレスは半端ないものだった。
そんな中、ここに居る時だけは俺自身を保っていられる。
重たい鎧を全部取っ払える場所だった。
「どうぞ」



