「何をしているんですか?」
 背後から声がした。
「せ、せせ、先生っ」
 椅子を蹴り倒しそうになりながら、私は慌てて立ち上がる。
 振り返れば、そこにはさっきまで目の前にあったのと同じ男性の顔。と言うより、本物。
「えーと、その、絵に汚れが、付いてまして」
「それはいけないですね。どこですか」
 そう言って、美術部顧問の先生は、もう一歩前に出てカンバスに描かれた自分の顔を覗き込む。
「作品展も近いと言うのに、貴方以外は間に合いそうもないですからね。せめて一作品くらいは仕上がってもらわないと」
 つい、と伸ばされた指先が、私が口付けようとしていた絵の中の唇を軽くなぞる。男性らしく節の立ったその手が、私の描いた肖像に触れていく。
 虚像と実像が交じり合って、熱を伝える。
「どこが汚れているんです?」
 振り返った目が、眼鏡の向こうから私を見た。
「も……もう取れましたっ」
 ダメだ、もう無理もう限界。
 これ以上は私の心臓が持ちません。
 絵の中の先生でもあの様なのに、本物の先生とこの距離は、今の私には刺激が強すぎです。
「手、洗ってきます!」
 叫ぶように言い捨てて、私は一目散にその場を駆け去った。


×  ×  ×


 日暮れ前の美術室の窓辺で、残された若い美術教師は少女の去った扉を眺めて目を細めた。
「初心な反応で実に愛らしいですが、男心が分かっていないのでマイナス二十点」
 誰に言うでもなく呟いて、唇が柔らかく緩む。
 学校中の誰もが見たことのない、男の甘い微笑み。
 破顔と呼ぶにふさわしいその表情を、カンバスに描かれた彼自身の肖像だけが見ていた。

【了】