舞花のために貯めた貯金を使おうと言い出したのは、僕だった。

 それは、「18歳」という、舞花の命の期限を知らされた日の夜のことだった。

 舞花のために貯めた500万円。

 舞花の将来のために貯めたお金。

 それなのに、舞花に残された時間はわずかだった。

 将来を夢見るほど、残っていなかった。

 そんなお金を残したってしょうがないと思った。

 だから僕は、使い切ってしまいたいと思った。

 だって舞花がいないのに、こんな大金だけ残っても、ただ虚しいだけじゃないか。 
 
 使ってほしい人はもういなくなるというのに、そのお金を、どこに回せばいいというんだ。

 自分たちの老後? 

 舞花のいない老後なんて、楽しいのだろか?

 生きている意味はあるのだろうか?

 何に生きがいを感じたらいいのだろうか?

 それならいっそ、500万円なんてなかったことにしてしまった方が良い。


 そう淡々と説明した僕に対して、「何言ってるの?」と歩美の冷たい声がぽつりと放たれた。


「舞花は、これからも生きるのよ」


 震える小さな歩美の声が、少しずつ大きくなっていく。


「舞花は生きるんだから。そのために貯めたお金なんだから。

 あれは舞花の将来のために貯めたお金よ。

 舞花が元気になったら使うんだから。

 舞花はこれからも生きて、中学も高校も大学も卒業して、仕事もして結婚もして、子どもも生んで。

 その時のために、何不自由しないように貯めてきたお金でしょ?

 それにこれから病院にかかる費用だってあるのよ。治療法だって……」


 そこで歩美の言葉が詰まった。


 舞花の病気は進行性のもので、治療法は見つかっていないというのが医者からの説明だった。

 その言葉を振り払うように、歩美は強く言葉をつづけた。


「治療法だって……これから見つかるかもしれない。

 そしたら大きな手術になるかもしれないし、もしかしたら海外に渡らなきゃいけないかもしれない。

 それまでに、舞花の体調を安定させたり、様子を見たり。

 それだけでも通院費や入院費がかかるのよ。

 私はこんなに考えてるのに、あなたはもう諦めてるの?

 舞花の病気が治って、これからも生きてほしいと思わないの?

 どうして何もしてないのに諦められるの?

 これからも、お金はいくらだって必要になるのよ。

 だって舞花は生きるんだから」
 

 すごい剣幕でまくしたてるように話す歩美を、僕は止めようとも思わなかった。

 ただその言葉と声を、今にも倒れそうな体で受け止めていた。


 僕だって諦めたくなかった。

 舞花を失いたくなかった。

 子どものために、できることをすべてやってやりたいと思うのが親だろう。

 だけど僕は、そこまで強くなかった。

 舞花の余命を告げられた僕は、完全に打ちのめされていた。

 だから、頭でわかっていても、心がついていかなかった。
 
 だから僕は思ってしまったんだ。



__もしそんな日が、来なかったら……?



 目を腫らすまで泣きながらも、今後のことを考えられる歩美の強さを、僕は持っていなかった。

 だから僕は、歩美に言葉で押されたまま、それ以上何も言おうとは思わなかった。

「そうだよな」、なんて心の中で自分の弱さを笑いながら。

 親なら、歩美のように思って当然なのに。

 絶望の中に希望を探してやるのが、親なのに。

 だから、もう何も言わなかった。

 ただただ、いつもと何も変わらない生活をしようと努めた。

 だって舞花は、今までと何も変わらなかったから。

 はた目から見たら、健康そのものの小学六年生だったから。

 そんな舞花の体の中で起こっている目には見えない変化。

 それを思うと、怖くてたまらないから、僕は日常生活に専念し、仕事に没頭した。

 今まで以上に。
 
 だけどそれからほんの数日のうちに、歩美は僕の意見に賛成してきた。
 
 その時の歩美の顔は、僕の知っている才色兼備、良妻賢母なんて言われた女性の顔ではなかった。
 
 美しく整った歩美の顔はやつれ、目は腫れあがっていた。

 髪の艶もすっかりなくなり、自慢の黒髪にはところどころ白髪が混じっていた。

 青白い顔で、生気はどこにも感じられなかった。   



「使っちゃおうか。あのお金」



 虫の音を聞くような声は掠れていて、そこからは、希望なんて感じられなかった。

 だけど、諦めもなかった。
 
 ただ、「無」だった。