麗らかな春の光が差し込む中庭に、ナタリアは一人箒を持って掃除に励んでいた。黒髪を簡単にまとめて、眼鏡をかけた彼女は手際良く中庭を片付ける。その姿はお世辞にも美しいとは言えないが、ナタリアはその格好が好きであった。
 春の皇宮は何かと忙しい。春の博覧会、春の舞踏会、他国からの春の挨拶。とにかく皇室主催の催し物が多い。今日はそんな忙しい春の中でも、珍しく落ち着いていた。春らしい暖かさをゆっくり楽しめる。
 すうっと息を吸うと花の良い香りが肺いっぱいに染み渡った。庭園に咲き乱れる色とりどりの花は、名前こそわからないがとても綺麗だ。
「まさに春っていう感じね。」
 メイド長に言われてここを掃除することになったが、嫌ではなかった。むしろこの景色を独り占めできる贅沢を噛み締めていた。もちろん仕事はする。だが少しぐらい、この庭園を楽しんでもバチは当たらないだろう。
「お兄様はお元気かしらね…」
 ふと、故郷にいるお兄様を思い出した。
 皇室に働きに来てからもうひと月が経とうとしていた。故郷もこんな風に花が咲いているのだろうか。そう思うと少し寂しく思えた。
「いやいやいや、しっかりしなさいナタリア。貴女はここで家族を守るって決めたじゃない。」
 パンパンと自分の顔を叩き、気合を入れる。私は家族を守るためにここに来ているのだ。寂しがっている場合ではない。しっかりとお勤めしなければならない。
 一通り掃除を終え、使用人の休憩室に向かう。私の仕事は終わってしまったが、まだ何か手伝えることがあるかもしれない。同僚に聞いてみよう。そう思って扉を開けると、何やらざわざわと騒がしい。一枚の貼り紙の前でメイドたちが群れを作り、わいわいと話している。
「あ、ナタリア!お疲れ様!」
 仲の良いメイドが私に気づいて、こちらに寄って来た。
「お疲れ様。何かあったの?」
「何かあったどころじゃないよ!皇太子様がね、一人の専属メイドをつけるそうよ!」
「へー、そうなんだ。」
 なんだ。給料でも上がったのかと思った。大して騒ぐようなことでもなく、落胆する。たかがメイドをつけるだけではないか。そんなに騒ぐようなことでもない。
「『へー、そうなんだ』じゃないわよ!皇太子様付きのメイドになれば大出世よ!すごいことなんだから!」
「でもそういうのって高位貴族の子から選ばれるんでしょ。私みたいな平民は無理ね。」
「それが違うの!これを見て。」
 ぺらりと一枚の紙を渡される。何やら今回のメイドの選考基準が書かれているようだ。
 ゆっくりと文章に目を通す。至って普通の求人に見える。だがある一文に目が止まった。
「皇宮に勤めるメイド全員が皇太子との面談を受けるように…ですって?」
「そうなのよ!上手くいけば殿下に気に入られてそのままお付きのメイドになれるかも。」
「気に入られるって…」
 この国の皇太子、エリク・グランシャリオは政務も剣術もそつなくこなす、まさに文武両道な男性だ。その上顔まで整っているというのだから使用人からも国民からも絶大な人気がある。
 ただ、神様もエリク殿下に全ての才能をあげたわけではなかった。彼は非常に冷酷な人間であった。
 この国が戦争で発展していったからだろうか、彼もまた戦争が好きだった。政治の判断も、慈悲をかけることなく帝国にとって最も良いものを選択する。彼が気に入らない者は例外なく断頭台送りとなる。
 そんな皇太子を恐れる使用人もいるが、やはりそれ以上に人気があり、彼の元で働きたいと願うメイドは数多だ。
 私は前者の考えであり、そんな恐ろしい人間の元で働こうなんて微塵も思わないが。
「ナタリアは興味ないの?」
「ええ。できればこの面談も受けたくないわ。」
「えー!もったいない。折角のチャンスなのに。あのイケメン殿下の顔を毎日拝めるのよ?」
「それでも殺されるよりマシよ。」
「殺されるって…流石の殿下もそんなことはしないんじゃない?まあいいや。じゃあ私が選ばれることを祈っててよ。」
「そうね。そう祈ってるわ。」
「本当?ありがとう!私頑張る!」
 そう言って同僚は走って先程の群れに戻っていった。私はそんな彼女を横目に、次の仕事を探しにいった。


 執務室は質素な作りであるが、帝国の威厳を感じさせるようであった。大きな窓から差し込む光を背景にじっと見つめてくる皇太子、エリク・グランシャリオを見た時、私は生きた心地がしなかった。
「お前がナタリアか。」
「はい。帝国の若き太陽にご挨拶申し上げます。」
 恭しく頭を下げると上から「顔を上げろ。」と声が聞こえた。失礼のないよう、真っ直ぐ顔を彼の方へと向ける。
 切長の瞳は深い青で、夜を思わせる。髪は金色で、光を反射して星のようにきらきらとしていた。すっと伸びた手足はまさにイケメンのそれであった。
 なるほど。これはどんな女性も惚れる。話に聞いたよりはるかに美しい。ほぉと一人で感心してしまった。
「姓は何という。」
「私に姓はございません。平民生まれでございますので。」
「そうか。」
 沈黙が流れる。エリク殿下の口からはそれ以上の言葉はない。私から話しかけるのは失礼に当たるので何も言い出せないし、かと言って退室しようものなら、面談の途中で何をしているんだという話になる。
 気まずい空気をどうにか耐えようと、じっと見つめてくる殿下を見つめ返す。やはり美しい顔だ。中身が良ければ私も惚れていたかもしれない。
「…その容姿はどうした?」
「へ?」
「その髪、服…とても俺に会うようなものに見えない。」
 突拍子もない質問に変な声が出た。たしかに今の私の姿はとてもじゃないが皇宮のメイドには見えない。支給品の服も私には二着しかないため、よく見るとあちこちがぼろぼろだ。普通の皇太子への謁見であればもう少し手を加えていただろう。
 だが今回は違う。皇太子に気に入られてしまえは皇太子付きのメイドとなってしまう。それならばと思い、いつものイモくさい格好をしたのだ。だがこんなところを指摘されるとは思いもしなかった。
「えっと…殿下にお会いする前に少し仕事をしておりまして、少し乱れてしまったようです。」
 嘘ではないが、本当のことでもない。「ただ貴方に選ばれたくないから適当な格好できました」なんて口が裂けても言えない。
「決めた。」
「はい。」
「お前を俺のメイドにする。」
「は…?」
「聞こえなかったのか。お前は明日から俺のメイドだ。明日の朝は俺の部屋に来て準備を手伝え。」
「え、ええええ!」
 ありえないことが殿下の口から飛び出た。あまりの衝撃に殿下の御前であるのも忘れて叫んでしまった。それぐらいありえない。
「あ、有り得ないです!こ、こ、こんな地味な私を選ぶなんて」
「お前、俺の選択が間違っているとでも言いたいのか?」
「いえいえいえ、そういうわけではなくて」
 こんな見窄らしい格好をした女をなぜ選ぶのか。それがわからないから驚いた。皇太子殿下の話に口を挟めば私の首があっという間にとんでしまう。だからと言ってこの決定を飲み込むわけにはいかない。
「ほ、ほら!私はこんな格好ですし、他のメイドと比べて華やかでもなんでもないですし、それに家柄も大したものではございませんので…」
「容姿はたしかにそうかもしれない。しかしメイドに必要なのは華やかさだろうか。家柄は重要か?」
「それは…」
 言葉に詰まった。メイドの世界は家柄も重視容姿も評価に含まれるが、それ以上に実力だった。どれだけ仕事ができるかによって給金も評価も変わる。実力社会なのだ。
 そのまま真っ直ぐ見つめる殿下言葉を続ける。
「お前はこの後も仕事があると言っていたな。この俺を前にしてそんなことを言い出したのはお前だけだ。」
 それはそうだろう。メイドなら誰しも、皇太子殿下との謁見で気に入ってもらうのに必死だから、この後の仕事なんて放置して行ってしまうのかもしれない。
 だが私はこんな謁見どうでもよかった。むしろさっさと終わらせて仕事に戻りたいというのが本音であった。
「俺はお前の仕事に対する姿勢が気に入った。明日の朝はこの部屋にくるように。」
「で、ですが、」
「なんだ。何が不満だ。」
 殿下が私の言葉に顔をしかめる。一介のメイドごときが殿下に意見するなんて馬鹿げているが、それでも私は、死ぬのも嫌だが殿下のメイドになることも避けたかった。
「わ、私はクソ地味眼鏡で、国の顔ともなられる殿下の側に使えるにはあまりにも見窄らしいと思うのです…」
 自分で言ってて情けなくなってきた。だがここで言わなければ本当に決まってしまう。国王陛下を除き、誰も殿下の決定には逆らえない。
 しばらく沈黙が流れる。気まずくなって視線を下に下げる。
「フン…そんなことを気にしていたのか。そんなことであれば問題ない。お前を隣に置いといても、俺の仕事には何の影響もないからな。」
 「では、明日からここにくるように。」そう言われて執務室を追い出された。一連の流れがあっという間で抗議する暇もなかった。
 あまりの唐突な決定で扉の前でへたり込む。身体中から脂汗が湧き出たのを感じた。
「ど、どうしよ、父様、兄様…!」
 そこで改めてあの冷徹皇太子の専属メイドになることを実感し、故郷に残してきた家族を思った。