「古い時代の詩歌ですから、読み方も少し……今とは異なっているのかもしれません。でも、なんだか恋の歌というには違和感があって……」
「そうだ。古い文献にそれを証明する解釈が記されているのだが、私が読んだところでは――」
そして、話し合いは白熱した。
思っていたよりも、ヨハネス陛下は書物に対して造詣が深い。
むしろ愛書家と呼んで差し支えないほどの読書量と、細かいところまでをしっかりと分析しているところを見るに、気に入った本は何度も読みこむタイプらしい。
なにより、彼と本の話をするのは楽しかった。
この一年間、ろくに夫婦らしい会話をしたことがなかったのが、まるで嘘みたいだ。
自分からはまず出てこないような解釈をいくつも聞いて、確かにわたしは興奮していた。
そして、気付いたら――
「――あの、陛下」
「どうした、皇妃よ」
「朝、ですね……」
「朝だな」
気付いたら、夜を明かしていた。
椅子の上で本を開き、気付いたら窓から朝日が差し込んでいる。
――清々しい、朝だ。
「……も、申し訳ありません……! つい、その……陛下と本についてお話ができるとは思わなくて!」
「いや、いい。お前が謝ることではないし、申し訳ないはこちらの台詞だ。……完全に、羽目を外しすぎた。たまにジグムントともやるのだが、書評をしていると時が経つのを忘れてしまう」
夜が明けるまで語りつくしてしまったため、体にはじんわりと疲労感がのしかかる。
いや、わたしはまだいい。ヨハネス様はこれから執務を行わなければならないのに、一睡もしていないのはかなり不味いのではないだろうか。
そんなわたしの心配をよそに、彼は軽く首を振った。
「人払いをしておくから、気が済むまで眠っているといい。疲れただろう」
「いえ、わたしなど……陛下の方が、これから執務もありますのに」
「男の私と女のお前では、体力に差があるだろう。三日寝ずに進軍を続けたこともあるからな。これくらいならば容易い」
あっけらかんと答えるヨハネス様の表情は、確かに疲労を感じられない。
一方でわたしは、朝が来たとわかった瞬間に体がずっしりと重たくなったような気がした。
それまで意識していなかった睡魔が、突如として襲い掛かってくる。
「そろそろルネも目が覚めただろう。私から話しておくから、お前は休め」
「し、しかし――」
「いいから。それと、夜に言った話を忘れるな。……三日後、再び私はこの部屋を訪れる」
ヨハネス様の指先が、机に置かれた小さな本を撫でた。
長い指――わたしのものとは違う、節ばった男の人の指先だ。
「今度は夜を明かさぬ程度に語り合おう。……楽しかったぞ、皇妃よ」
そうして、確かにヨハネス様は微笑んだ。
見間違いでも、気のせいでもない。わたしはこの時、初めて彼の笑顔をしっかりと目の当たりにしたのだ。
「……お、お待ちしております……」
呆然としたままなにも言えないわたしにひらりと手を振って、ヨハネス陛下はそのまま部屋を出て行ってしまった。
「あっという間、だったなぁ」
一夜、明けたとは思えないくらいに。
彼と語らった時間はとても楽しくて、ほんの一刻しか一緒にいなかったような気さえする。
いや、実際皇妃として放置された時間を考えれば、一刻程度のものだったのかもしれないけれど。
「三日後かぁ」
多忙な彼が、それなりに量のある物語を三日で読んでくれるという。
執務を邪魔したくないと思える反面、わたしが綴った物語にそれほどの時間を割いてくれるというのが、素直にうれしい。
「……いや、違うか」
――と、そこまで考えて首を振った。
彼が時間を割いているのは、わたしの物語じゃない。ビビアンが書いた物語だ。
正体を隠している以上はそれを貫き通さなければならない。
「……あっ、そうだ。昨日教えてもらったこと、後でちゃんと整理しないと」
机の上に散らばった原稿をしっかりと引き出しにしまい込んで、寝台に腰かける。
すると、そのタイミングで控えめに扉をノックする音が聞こえてきた。
「リ、リリア様? ……ルネです。中に入ってもよろしいですか?」
「えぇ、大丈夫よ。おはよう、ル――ルネ?」
扉からひょっこりと顔を出したルネの様子は、どことなく挙動不審だった。
いや、それだけではない。なんというか……様子がおかしい。
「お体の具合は大丈夫でしょうか?」
「体? えぇ、平気だけれど」
「あ、あれ? えぇと――お部屋のお片づけをと思ったのです、が……」
眠いは眠いのだが、それ以外はいたって健康体だ。
夜通し話して若干興奮気味というのもあるけれど、ルネから見てそんなに具合が悪そうに見えるのだろうか。
「どうしたの?」
「陛下が先ほど、私を呼び留められました。その――リリア様に無理をさせたので、休ませて差し上げるようにと……つ、つまりそういうことかと……」
「え……」
わたしとルネの間に、なんとも言い難い沈黙が流れた。
いや、確かにそうか。皇帝陛下がわざわざ妃の寝室を尋ね、夜を明かしたともなればそういう話が出てもおかしくはないと思う。
いや、それでも。それにしたって。
「……陛下、お言葉が足りなさすぎます……」
ぽつりと呟いたその言葉は、ついぞ本人には届かないまま霧散してしまうのだった。
「そうだ。古い文献にそれを証明する解釈が記されているのだが、私が読んだところでは――」
そして、話し合いは白熱した。
思っていたよりも、ヨハネス陛下は書物に対して造詣が深い。
むしろ愛書家と呼んで差し支えないほどの読書量と、細かいところまでをしっかりと分析しているところを見るに、気に入った本は何度も読みこむタイプらしい。
なにより、彼と本の話をするのは楽しかった。
この一年間、ろくに夫婦らしい会話をしたことがなかったのが、まるで嘘みたいだ。
自分からはまず出てこないような解釈をいくつも聞いて、確かにわたしは興奮していた。
そして、気付いたら――
「――あの、陛下」
「どうした、皇妃よ」
「朝、ですね……」
「朝だな」
気付いたら、夜を明かしていた。
椅子の上で本を開き、気付いたら窓から朝日が差し込んでいる。
――清々しい、朝だ。
「……も、申し訳ありません……! つい、その……陛下と本についてお話ができるとは思わなくて!」
「いや、いい。お前が謝ることではないし、申し訳ないはこちらの台詞だ。……完全に、羽目を外しすぎた。たまにジグムントともやるのだが、書評をしていると時が経つのを忘れてしまう」
夜が明けるまで語りつくしてしまったため、体にはじんわりと疲労感がのしかかる。
いや、わたしはまだいい。ヨハネス様はこれから執務を行わなければならないのに、一睡もしていないのはかなり不味いのではないだろうか。
そんなわたしの心配をよそに、彼は軽く首を振った。
「人払いをしておくから、気が済むまで眠っているといい。疲れただろう」
「いえ、わたしなど……陛下の方が、これから執務もありますのに」
「男の私と女のお前では、体力に差があるだろう。三日寝ずに進軍を続けたこともあるからな。これくらいならば容易い」
あっけらかんと答えるヨハネス様の表情は、確かに疲労を感じられない。
一方でわたしは、朝が来たとわかった瞬間に体がずっしりと重たくなったような気がした。
それまで意識していなかった睡魔が、突如として襲い掛かってくる。
「そろそろルネも目が覚めただろう。私から話しておくから、お前は休め」
「し、しかし――」
「いいから。それと、夜に言った話を忘れるな。……三日後、再び私はこの部屋を訪れる」
ヨハネス様の指先が、机に置かれた小さな本を撫でた。
長い指――わたしのものとは違う、節ばった男の人の指先だ。
「今度は夜を明かさぬ程度に語り合おう。……楽しかったぞ、皇妃よ」
そうして、確かにヨハネス様は微笑んだ。
見間違いでも、気のせいでもない。わたしはこの時、初めて彼の笑顔をしっかりと目の当たりにしたのだ。
「……お、お待ちしております……」
呆然としたままなにも言えないわたしにひらりと手を振って、ヨハネス陛下はそのまま部屋を出て行ってしまった。
「あっという間、だったなぁ」
一夜、明けたとは思えないくらいに。
彼と語らった時間はとても楽しくて、ほんの一刻しか一緒にいなかったような気さえする。
いや、実際皇妃として放置された時間を考えれば、一刻程度のものだったのかもしれないけれど。
「三日後かぁ」
多忙な彼が、それなりに量のある物語を三日で読んでくれるという。
執務を邪魔したくないと思える反面、わたしが綴った物語にそれほどの時間を割いてくれるというのが、素直にうれしい。
「……いや、違うか」
――と、そこまで考えて首を振った。
彼が時間を割いているのは、わたしの物語じゃない。ビビアンが書いた物語だ。
正体を隠している以上はそれを貫き通さなければならない。
「……あっ、そうだ。昨日教えてもらったこと、後でちゃんと整理しないと」
机の上に散らばった原稿をしっかりと引き出しにしまい込んで、寝台に腰かける。
すると、そのタイミングで控えめに扉をノックする音が聞こえてきた。
「リ、リリア様? ……ルネです。中に入ってもよろしいですか?」
「えぇ、大丈夫よ。おはよう、ル――ルネ?」
扉からひょっこりと顔を出したルネの様子は、どことなく挙動不審だった。
いや、それだけではない。なんというか……様子がおかしい。
「お体の具合は大丈夫でしょうか?」
「体? えぇ、平気だけれど」
「あ、あれ? えぇと――お部屋のお片づけをと思ったのです、が……」
眠いは眠いのだが、それ以外はいたって健康体だ。
夜通し話して若干興奮気味というのもあるけれど、ルネから見てそんなに具合が悪そうに見えるのだろうか。
「どうしたの?」
「陛下が先ほど、私を呼び留められました。その――リリア様に無理をさせたので、休ませて差し上げるようにと……つ、つまりそういうことかと……」
「え……」
わたしとルネの間に、なんとも言い難い沈黙が流れた。
いや、確かにそうか。皇帝陛下がわざわざ妃の寝室を尋ね、夜を明かしたともなればそういう話が出てもおかしくはないと思う。
いや、それでも。それにしたって。
「……陛下、お言葉が足りなさすぎます……」
ぽつりと呟いたその言葉は、ついぞ本人には届かないまま霧散してしまうのだった。
