あの日溺れた海は、


 
「失礼しまーす…」
 
 
真っ暗な廊下の中にポツンと一つ明かりがついている教室のドアを開けながらそう呟くように言った。

教室内にいた藤堂先生はこちらを一瞥すると、キーボードを打つ手を止めて「どうも」と返事をした。
 

「すみません、あの、こんな遅くまで…」
 

申し訳なさで眉を下げてそう言う。チラリと見た時計は20:30を指していた。
他の生徒はとっくに帰ってる時間だ。

そんなわたしを見てクスリと笑って「あまりにもよく寝てたから起こすのも憚られて。」と冗談っぽくそう言った。

先生の笑った顔にジリジリと胸を焦がしながらなんでもない顔をしてジャケットを手渡した。
 

「ジャケットまで、すみません。」
 
「ん。風邪ひかれても困りますから。」
 
 
先程とは打って変わって事務的にそう言う先生に今度は胸が締め付けられた。そんなことなど知らない先生はそのまま続ける。
 

「寝不足、ですか?そういう時って免疫力下がってるし、いつも以上に体に気をつけてください。」
 
 
 …そういう細かいところに気づいて、気遣ってくれる優しさがズルい。ボっと熱くなる心に温かい気持ちで溢れた。先生はわたしの心臓に飴と鞭を与えるのがうまい。
 
 
「ちょっと、行き詰まってて。でも大丈夫です。」
 
 
 先生にこれ以上心配かけたくなくて精一杯の強がりを言った。でもそんなことはお見通しとは言わんばかりに小さくため息をついた。
 
 
「無理して書くものじゃないですからね。」
 
 
 先生が真剣な眼差しでわたしを見つめながらそう言った。一瞬視線がぶつかって、でもすぐに逸らしてしまう。
 
「今の井上さんには書けない物語ってあるだろうし、逆に今の井上にしか書けない物語ってあると思うか…くっしゅん!」
 
 
唐突に響くくしゃみにしーんと室内が静まり返った。「ええーと、つまり」気まずそうに鼻を啜りながらそう言う先生の姿についつい笑いが溢れてしまった。
 
 
「くしゃみしたくらいで、なんなんですか。」
 
 
 少しむすっとした様子で受け取ったジャケットを羽織りながらそう言う先生が新鮮で笑いが止まらなかった。