あの日溺れた海は、


 

 
「はい」
 
 ドアを叩くといつもの抑揚のない声が聞こえた。思わずごくりと唾を飲み込むと「井上です、今いいですか?」と答えた。あ、井上なんてありふれた苗字…確か2組にもいたよな…ていうか、今いいですかってよくなかったかな??やだ!!もう一回やり直しさせて!とパニックになっていると、目の前のドアが開いた。
 
 
「どうぞ、って言ったけど。聞こえなかったですか?」
 
 
 脳内会議をしていたせいで聞こえなかったです、とは言えず「あ、はは」と適当に笑いを浮かべて答えにもなってない返事をした。
 
 
 そのまま促されるままに中に入り隣に座ると、「どうしたんです?」とこちらに向き直った先生が言った。
 
 何をどう言ったらいいのか、どう言えば誤解されずに済むのか、考えながら「ええっと、あの、その」と言葉を紡いでいたが、ええい。ここまで来たら後には引けない!と一度深呼吸をすると口を開いた。
 
 
 
「先生って、今までどういう恋愛をしてきたんですか?」
 
 
「はあ?」
 
 2人きりの教室内に素っ頓狂な先生の声が響く。質問の意図がわからないと言わんばかりに眉を顰めてこちらを凝視する先生に慌てて言葉を続けた。
 
 
「えっと、いや、この間おじ…近藤先生と話していた恋愛小説のコンテストに出品しようかなと思ってたんですけど、わたし、恋愛経験なくて!いろんな人に聞いて回ってるんですけど!先生なら大人だし沢山あるかな…って思って!…あ、近藤先生にも聞けって言われたし〜…?」
 
 
 色んな人に聞いてまわってると言っても文芸部の子だけだし、近藤先生が言ってたという件についてはまるっきり嘘だ。でもなるべく先生に怪訝に思われないようにと咄嗟に出た言葉だった。

べ、別にただの副担任に恋愛事情を聞くことはそんなにやましいことでも、不埒な事でもないのに!と心の中で言い訳しながらおずおずと先生の様子を伺った。
 
 先生は眉をより一層深めて溜息を吐くのではないかと予想していたが、それは見事に外れ、フッ短く笑うとコーヒーカップを手に取って啜った。
 
 
「私も大した恋愛してないですけどねえ。それでも良ければ。」
 
 
 カップを置くと先生は再びわたしの方視線を向けた。意外な言葉に数秒呆然としたがすぐに嬉しさが込み上げてきて「ありがとうございます!」と勢いよく返事をした。
 
 
 
  それから何かを思い出すように無言で一点を見つめる先生をチラリと横目を向けながら次の言葉を待った。