あの日溺れた海は、


 
「…のう、さ、いのうえさん。」
 
 
 名前を呼ぶ声にハッとしてパチリと目を開けるとそこには眉を顰める藤堂先生の顔があった。

いつの間にか寝てしまっていたわたしは慌てて立ち上がって「す、すにません!」と言うと先生はフッと吹き出した。
 
 
「そんなに慌てるなら、寝なきゃ良いのに。」
 
 
呆れたような笑みを浮かべる先生にわたしは一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐに「先生が待たせるからですよっ」と頬を膨らましてそういった。
 

「それはすみませんね。はい。」
 

そう言ってわたしの目の前にプリントの束を差し出すと恥ずかしさで一刻も早くこの場を離れたかったわたしは奪うようにして教科室を後にした。


また笑った。

あの張り付いた偽物の笑顔じゃなくて、

本当の笑顔。
 

先生は3種類くらいしか表情のレパートリーがないのではないかと疑うくらいいつも同じ顔をしていた。


真顔。顰めっ面。作り笑い。


そんな先生が見せてくれた笑顔。優しい眼差し。わたしを悪夢から引き戻してくれた時の少し焦った顔。
 


何か特別なものを感じずにはいられなかったけど、そうしてまた先生の気まぐれに勝手に期待して勝手に失望して、1人で傷つくのが怖くて。



全部胸の奥へしまっておこうと心に決めた。



全部見なかったことにしようと。