頭の中が沸騰しておかしくなる。理性などとうに手放してしまって、そんなもの最初からあったかどうかすらわからない。抗えない吸血欲求に体が支配される。今はただ目の前で"俺のものになりたい"と懇願してくる美琴を俺のものにしたい。全部だ。骨の髄まで全て、俺のものだ。

「竜生くん、ずっと一緒にいたい」

 美琴の柔肌に傷をつけようとした時だ。美琴が熱に浮かされた声音で、だがしかしはっきりとそう口にした。
 その言葉に所在がわからなくなっていた理性が形を取り戻し、俺の頭を再び支配する。ずっと一緒にいられるはずなどないのだ。自分自身の行為に恐怖し、嫌悪したのは俺自身だ。責任の取り方も知らないくせに、今何をしようとした?
 なんとか手放した繋がりを性懲りも無く手繰り寄せようとして。そうまでして俺は美琴じゃないとダメなのか?美琴は俺ではいけないのだ。

「……ごめん。俺は一緒にいられない」

 その言葉に美琴が傷ついた顔を見せた。そりゃそうだ。ああまでしておいて、あれほど強く求めておいて、今さら手放すだなんて。

「どうして?竜生くんはなにを抱えているの?」

 美琴の包み込んでくれるような優しい声が俺を抱きしめた。言ってしまえば楽になるだろうか。だけど美琴は「それでいい」と自分の体が吸血鬼になることを受け入れてしまうだろう。良いわけない。そんなことは明白なのに、美琴のことを強く拒絶できない。
 いつまでも女々しく縋り付いているのは紛れもなく俺だ。美琴はすでに腹を括った顔をしている。受け入れてほしい。俺と一緒にいるために体ごと作り替えてしまうことを。奥底に沈めていた傲慢で、受け入れ難い願望が首をもたげた。




 一通り俺たちの間に起こりうることを説明すると、美琴は珍しく眉間に皺を寄せ考え始めた。と思ったら、「やっとわかったー!」と明るく声を上げたのだ。

「去年からやたら傷の治りが早いなぁ、とか、体が軽いなぁ、って思ってたんだけど、勘違いじゃなかったんだ!」

 そんな晴れやかな顔で言うことではないと思うけど……。しかし予想通りの反応に嬉しいやら切ないやらだ。

「まぁ、そういうことだな。だから一緒にはいられない」
「……そっかぁ。わかった!」

 "わかった"。その返事に安心したようで、どこか寂しく思っている俺自身には気づきたくない。
俺は「じゃあ、帰ろうか」と別れの挨拶を早々にして早くこの空間から解放されたかった。

「なにも不安に思うことなんてないじゃん!」

 美琴はあっけらかんとそう告げて、屈託のない笑顔を見せた。なにも不安なんてない。俺たちは大丈夫だ、となんの根拠もなく思えてしまいそうなほどの笑顔に肩の力が抜ける。というか、美琴はなにが分かったと言うのだ。俺からすればなにもわかっちゃいない。

「いや、そんなことないでしょ。俺は怖くて仕方がないよ」
「うーん。なにがそんなに怖いの?」
「好きな人が俺のせいで吸血鬼になるんだよ!?それのどこが怖くないの?!」

 事の重大さを全くと言っていいほど理解していない美琴に、俺は驚きを隠さず声を上げた。だけど美琴は先ほどよりも笑みを深くするのだ。「なんでそんな嬉しそうなんだよ」とため息を吐けば、「私のこと好きって言った」と幸せそうに頬を緩めるのだから、初めから俺なんかが敵うはずなんてなかった。

「はい、そうです。好きですよ、俺は美琴が好きだよ」

 観念した俺は決して口にしてこなかった想いを吐露する。もうこうなればヤケだ。

「うふふ。嬉しい。でも、やだ。もっとちゃんと言って」

 どうやら俺のお姫様は、投げやりな言い方ではお気に召さないようだ。抗議を表すように膨らんだ頬に唇を落とした。

「好きだ。俺は美琴のことが好きだよ」
「……うん、私も好き」
「ごめん。俺のために吸血鬼になって」

 ごめん、だなんて謝って済む問題ではない。この決断は美琴の人生をがらりと変えてしまうものだ。しかし彼女はなんて言ったと思う?

「はい!よろこんで!」





 俺は手袋を見つめながら思い出し笑いをした。

「で、これがプレゼントしてもらった手袋?」
「そうだよ。その年のクリスマスにね」
「だからそんなに古いんだね」

 今から25年も前の話だ。大切に使っていた手袋も随分と昔にお役御免になり、クローゼットの奥で大事にしまわれていた。
 それを今になって引っ張り出してきたのは、目の前にいる俺の可愛い可愛いお姫様に大事なことを伝えている最中に話が出たからだった。

「……うん。まぁ、つまりね。その体をハンデだなんて思わず、心からこの人だと思える人と出会ってほしい」

 「きみは俺の大切な大切な宝物なんだから」と続けると「それ、何回も聞いたから!」と照れ隠しにそっぽを向いた。何回でも言いたくなるのだ。この先も何度も言わせてほしい。それほどに大切なのだから。
 俺たちが楽しげに会話を交わしていると「なんの話してるのー?」と洗濯物を取り込んでいた美琴が顔を覗かせた。

「お父さんがお母さんのこと大好きだよ、って話」
「何それ!?私も聞きたーい」

 美琴は瞳をキラキラと輝かせ、俺たちの輪の中に入ってきた。2人が話しているところを聞いていると、どちらが母親でどちらが娘かがわからなくなる。

「ひかりも16歳になる年だからな。そろそろ話しておこうと思って」
「そうだね。16歳かぁ……私たちが出会った年だね」

 懐かしそうに2人で目を細めていると、ひかりが「部屋に戻る」とリビングから出て行った。気を効かしてくれた可能性もあるが、親のイチャイチャを見たくなかったのだろう。自分自身もそうだったからよく分かる。美琴はそんなこと気にもせずに昔話に花を咲かせている。

「そういえば、ヨリを戻した日に美琴が俺に言ってくれたことを覚えてる?」

 美琴の体は当たり前に吸血鬼へと変貌を遂げていた。それでも、今も俺の隣で幸せだと笑う。

「ん?あぁ、あれね。覚えてるよ。やっと竜生くんの罪悪感をほんの少し軽くできたかな、って思ったんだ」




 「はい、よろこんで」それはプロポーズの返事のような喜びで満ち溢れていた。やっとやっと竜生くんの気持ちを知れた。これからは隣にいられるんだ。
 自然と重なった唇からも愛がこぼれ落ちた。

「みこと、好きだ……」

 竜生くんがうわ言のように呟く言葉を、私は一つたりとも聞き逃すまいと神経を集中させていた。

「ごめん、美琴、ごめん……」

 好きだと呟いたその口で、次は苦しくなるほどの切なげな声で私に謝罪を繰り返すのだ。もう謝らなくていい。竜生くんが悪いわけではない。
 ただ私たちが宿命の相手だっただけだ。ただその人を愛してしまっただけだ。

「ねぇ、竜生くん。私のこと、見つけてくれてありがとう」

 人と人とが出会う確率、そしてお互いが好きになる確率。いったいどれほどの奇跡なのだろうか。
 だけど私たちは宿命だった。運命だなんてそんな優しいものではない。惹かれ合うことを避けるなどできないのだ。

「俺の方だ、ありがとうは俺の方だよ」

 竜生くんは心底幸せそうに笑った。もうそれだけでいい。それだけでなんだって乗り越えられる。

「ねぇ、私の血を飲んで」

 竜生くんの真っ赤な唇から覗く白い歯が、私の肌を突き刺す。
 それは吸血鬼の心臓を貫く杭のようであった。