「この前掃除したばっかだから、そんな汚くはないと思うんだけど」

 竜生くんは少し申し訳なさそうに私を部室に通した。「平気平気。全然気にならないよ」と返したのは本心で、男子バスケ部の部室は想像していたよりもずっと清潔感があった。
 「ここに座って」と促されたベンチに腰を下ろし、早速おにぎりを頬張る。竜生くんもお弁当を広げた。

「あと、リレーだっけ?」
「だな。400も走るからなぁ」

竜生くんはスウェーデンリレーのアンカーなので、一番長い距離を走ることになっている。

「玉入れも応援合戦もあるし、頑張ろうね!」
「うん。頑張ろうな!」

 モグモグと口を動かしながら、くぐもった声を出す竜生くんの尊さよ……!

 「ごちそうさまでした」と言ったのはほぼ同時であった。お弁当を片した竜生くんが部室に掛けてある時計をチラリと見る。そして時間を確認すると、私の方に向き直った。なにをされるかわかっているのに、体に緊張が走る。いや、なにをされるかわかっているからこそか。ゴクリと喉が鳴って、お茶飲めばよかった、と頭の片隅で思った。

 ちゅっと可愛らしいリップ音に似合わないほどの熱のこもったキスが唇に落とされる。やっぱりお茶飲むべきだったー、という思考が頭を支配する。おにぎりの中に入っていた唐揚げ味のキスなんて嫌だ……!

「なに考えてんの」

 といつもより低くなった声が私の鼓膜を揺する。唐揚げ味のキスのことです、なんて口が裂けても言えない。部室でのキス、なんていう青春ドラマ王道のシチュエーションが崩壊してしまいそうだ。

 後々考えると「え?なんのこと?」ととぼけたのがいけなかったのだ、とわかる。だけどこの時の私はそうする選択肢しかなかったのだ。
 とぼけた私から竜生くんがすっと視線を逸らす。あ、怒らせたかも、と思ったその直後、鋭い視線で私を見つめた。ドキドキしてる場合じゃないのに、その眼差しに心臓がうるさくなる。なんて言おう、そう考えていた私の唇が再度塞がれた。
 いつもなら触れ合った直後に離れていくのだ。なのにいつまで経っても触れ合ったままの唇。それどころか、ぎゅっと力が入った私の唇を解すように、竜生くんの舌がペロリと私のそれをゆっくりとなぞったのだ。
 微塵も想像していなかった事態に思わず「あっ、」と声が漏れる。それを待ち構えていたかのように、僅かに開いた唇の隙間からにゅるりと竜生くんの舌が差し込まれた。

 息、息っていつしたらいいの。私が「んんっ、」と苦しげな声を上げると、竜生くんが舌を抜いて唇を離した。

「……はっ、苦し、っ」
「息しなよ」
「いつしたらいいのかわからないんだもん」
「鼻ですんだよ」

 少し機嫌を持ち直したのだろうか。意地悪そうに片方の口角を上げた笑みが私に向けられた。
 こくんと私が頷いたことが始まりの合図になり、再び深く口づけられる。竜生くんの舌が奥に引っ込んでしまった私の舌を絡めとった。上顎や歯列をなぞられて、身体が震える。今までしていたキスってなんだったんだろう、と思えてしまうほどに激しいキスに頭からつま先までが痺れた。
 「舌出して」と吐息混じりに囁かれる。舌、舌出すってなに、と頭は混乱しているのに、考えるより早く、身体が従順に舌を出した。
 ちりっ、と痛みを感じたのは素直に突き出した舌先を噛まれたからだ。舌を吸われているのか、血をすわれているのか、もうわからない。縋り付くように、竜生くんの二の腕を掴んだ。

 はぁはぁ、と2人の荒い息遣いが狭い部室に充満している。あ、ダメだ、止まらない、と交わった視線に確信した。

『中間発表を行います。中間発表を行います』

 ギラギラと獲物を狙うような竜生くんの瞳に吸い寄せられ、また唇を合わそうとしたときだった。放送が流れ、2人で現実に引き戻される。

「やばい!今何時?」
「っわ、始まるまであと10分だ」

 部室から教室に一度帰らなくてはいけない。すごく切羽詰まったわけではないが、かなりギリギリの残り時間だ。
 私たちは弾かれたように立ち上がり、急いで部室の施錠をして教室に駆け足で向かった。
 なんで競技でもないところでこんなに走ってるんだろう、と思わなくもないが自業自得。身から出た錆である。


 部室棟から裏口まで続く通路は舗装されていない砂利道だ。私たちの教室まではその通路が近道だった。ここ転けそうだなぁ、と気をつけながら走ってはいたのだ。だけど、そこで転けてしまうのがさすが私である。拍手はいらない。

「大丈夫っ!?」
「だ、だいじょーぶ」

 並走してくれていた竜生くんが驚きに立ち止まり、私の手を取って立たせてくれた。ズキンと膝に痛みが走る。
 「わ、結構血が出てるな」と竜生くんが心配そうに患部を見つめながら、ポケットからハンカチ出した。

「いいいい、大丈夫だから!私このまま保健室行くから、竜生くんは先に教室行っといて!」
「いや、でも、」
「ほんとーに!大丈夫!この後応援合戦じゃん。さすがに竜生くん居ないのはまずいよ」

 センターで踊る主役がいないのは絶対に避けなければいけない。竜生くんもそれは理解しているのだろう。後ろ髪を引かれつつも、私の言葉に従って教室に向かってくれた。


 保健室の扉をノックすると「はーい」と先生の声が返ってきた。
 「怪我しちゃいました」と言いながら僅かに足を上げ、膝を先生に向ける。「あらあらー、結構血が出てるね」と先生の前に用意された椅子に座らされ、傷口をきれいに洗ってもらった。

「あら、思ったより傷口が小さいわね」

 血で隠れていた傷口を見た先生が驚きの声を上げる。私も先生に倣い、どれどれ、と傷口を確認する。
 ふむ、たしかに。それは砂利道で擦りむいた割には些細な傷であった。血の量とも比例していない気がする。ま、なんにせよラッキーだ。
 「絆創膏も要らなそうね」と言う先生に消毒だけしてもらい、私は運動場へ向かった。
 教室に寄る時間などもちろんなかったからだ。