13時になろうかという頃、私は学校の駐輪場に到着した。いつもは隙間なく自転車が並ぶ駐輪場だが、今日は運動部の分しかないようでだいぶと余裕があった。
 私は時間を気にしながら、いつもの場所に駐輪する。入学時、出席番号順に指定された場所は学年が変わるまではこのままである。ということは、私の横に止まっているのは洗井くんの自転車なわけだ。
 私は洗井くんの自転車のサドルにそっと触れる。本当は頬をくっつけたかったのだが、それはあまりにも変態っぽいので、やめた。理性の勝利である。
 
 いつもなら駐輪場近くの出入り口から校内に入るのだが、夏休み中は正面玄関しか開放されていない。私は校舎に沿うように舗装された通路を歩き、運動場を通過して正面玄関を目指した。
 昼食を食べ終えたであろう運動部の生徒が、それぞれの部で固まって活動をしている。普段は授業が終わればさっさと学校を後にするので、どのように部活動をしているのか見たことがなかった。
 体操服で部活してるんじゃないんだ、と野球部の練習着や、サッカー部、陸上部のTシャツを見て思う。洗井くんのバスケしてるところ、絶対にかっこいいだろうな。
 結局なにを見ても、私の思考は洗井くんに帰結するのだ。

 正面玄関から校内に入れば、辺りは一気に静まり返った。本当に遠くの方で、運動場の掛け声が聞こえてくるだけだ。
 洗井くんのいる図書室は南館の4階にある。私は階段を一気に駆け上がり、たい気持ちはあるのだが、体力的に無理なので。息が切れない程度に、だけど急足で向かった。
 
 いくら気をつけても、ガラガラ、という古い扉特有の音はしてしまうものなのか。その音は静かな校舎によく響いた。
 中の様子を窺うように、そっと足を踏み入れれば「いらっしゃい」という声と共に、洗井くんがカウンターから顔を出した。しかも笑顔つき。
 夏休みの図書室はどこよりも静寂に包まれている気がする。図書室、という特性上、普段の騒がしい校内の中でも静かな場所なのだが、今日は夏休み。図書室を利用する生徒の人数は格段に少なくなっていた。というか、今に限ってはゼロだ。この空間には私と洗井くんの2人しか存在していない。

「あれ、図書当番って洗井くん一人なの?」

 私がキョロキョロと辺りを見回しながら尋ねると、「あぁ、帰ってもらった」とカウンターから出てきた洗井くんが無邪気に笑う。悪戯を楽しそうに話す子供みたいだ。また知らなかった洗井くんを発見できた。

「え、大丈夫なの?」
「だいじょーぶ。俺が、一人でしとくんで、って言えば嬉しそうに帰って行ったから」

 本当に大丈夫なのだろうか。洗井くんは真面目なのに意外と大胆なことをするなぁ、と思ったが、思わぬところから2人っきりになれて、私は最高に幸せな気分だ。

「ね、何読んでたの?」
「ん?恋愛ものの小説」
「知らなかった!洗井くんも恋愛もの読むんだ!」
「いや、読まないよ。読まないんだけど、勉強しようと思って」

 ……なんの?まさか恋愛の?それって私の、というか私たちのために?
 一瞬で赤くなった私の顔を見て、洗井くんは「そんな顔されたら、俺が照れる」と耳まで真っ赤にした。なに、かわいい、愛しい、好き。好き。
 私の心が愛しいと泣いている。

「なんでそんな泣きそうなの」
「わ、わかんない。好きだな、って、洗井くんのこと好きだなって思ったの」

 誰もいない図書室。洗井くんの真っ直ぐな瞳が私を見つめている。

「明石さん、血を吸わせて」

 切羽詰まった洗井くんの声が耳に届く。
 今、ここで?と一瞬躊躇したが、洗井くんの情欲を含んだ瞳が私の背中を押す。
 私が頷いたのが早かったか、それとも洗井くんが腰を折って首筋に唇を押し当てたのが早かったか。既に熱に浮かされた私の頭では判断がつかなかった。
 首筋に当たる洗井くんの髪の毛の柔らかさだけが、私を現実に必死に繋ぎ止めている。やっぱり思った通り猫っ毛だったぁ……。

「んっ、」

 執拗な首筋へのキスに、思わず鼻にかかった声が出てしまう。咄嗟に手の甲で口を押さえ、さらに強く目をつぶった。

「痛かったらごめん」

 荒い息と共に気遣いの言葉を投げかけられたが、生憎私は返事をする余裕などないのだ。一度大きく頷き、大丈夫だと伝える。もう一思いにやってください。
 ぴり、とした微かな痛みの後に、腰が重くなり、足から力が抜ける。それに気づいた洗井くんが、肩に置いていた手を素早く腰に回し、支えてくれた。
 はぁはぁ、と2人の息遣いだけが図書室に響く。首筋から唇を離した洗井くんが「大丈夫?」と言いながら、呼吸を整えさせるように背中をさすってくれたが、その刺激にさえ身体がびくりと反応してしまう。
 
「だ、大丈夫……」

 やっとのことでそれだけを言って、私はへたりと床にしゃがみ込んだ。
 先程まで唇を押し当てられ、歯を立てられ、血を吸われた首筋がまだ熱い。私はそっとそこに触れた。ぬめり、とした感触に、「血、出てる?」と洗井くんに聞けば、「傷口は塞がってるよ」と信じられないような答えが返ってきた。
 確認するように手のひらを見れば、確かに血はついていなかった。先程の濡れたような感触は、洗井くんの唾液だったことがわかり、羞恥に悶える。

「軽い傷ぐらいなら治せるって言わなかったっけ?」

 聞いたような気もするが、それは洗井くんの身体に限ってだと思っていた。「俺の体液が治す力を待ってるんだよ」と爽やかに言われたが、なんだかすごいワードを聞いた気がして、また頭がくらくらする。

「立てる?」

 しゃがみ込んだ私に目線を合わせるように、洗井くんも床に座った。「た、たてない……」と私が情けない声をあげれば、洗井くんも「俺も。なんか頭いてぇ」と同じぐらい情けない声をあげるもんだから、2人して笑ってしまう。

「ありがとな。体調崩したりしたらすぐに教えて。大丈夫だと思うけど、初めて吸血したから念のため」

 落ち着いた後、優しい笑顔で真剣にそう言われて、私は幸せな気分。傷口も残らないし、たったこれだけで洗井くんに感謝されて、いろんなことができるなんて、最高でしかない。

「帰りにコンビニ寄って、鉄分が入ったジュース飲もうな。おごらせて」
「それも念のため?」
「そう、念のため」

 2人の笑い声が図書室にこだまする。平和で幸せな夏休みの幕開けを象徴していた。