ターゲットは旦那様

「・・・・・」
「出かけるわよ」
 時刻は夜10時。こんな時間だというのに千草はグレーのサマーニットに白いパンツをはき、化粧を済ませていた。夕食も食べ終わり、お風呂も入り終わっていつものようにぐったりと星柄のブランケットを被ってうずくまっている直春を見下ろして、千草は朝9時にいうような言い方でそう言った。
「・・・行ってきなよ」
「行くって言ってんのよ」
 千草はもう出かける準備を済ませていた。動かない直春の腕を掴んで引きずり、車のキーを持って外に出た。
 そして、直春を助手席に放り込むと、勝手に直春の車のキーを使って車を発進させた。
「どこに連れて行くんだ」
「奥飛騨」
 直春は少しはっとした様子を見せたが、それは一瞬でまたすぐ目を細めた。
「何をしに?」
「さあね、寝ててもいいわよ」
 初夏とは言えど、夜は涼しい。直春は、ブランケットを体に巻き付けながら暗闇を進んでいく千草を横目に助手席に座っていた。
「ついたわよ」
 ついた場所を見て、直春は目を見開いた。奥飛騨、一度だけ直春は、裕子と来たことがあった。お金がなかった渡辺家。誕生日プレゼントもまともに買ってあげられなかった裕子が、直春の誕生日の夜、
「出かけるで!直春!」
 そういって車で出かけていったのは奥飛騨の奥地。温泉宿が一件あるくらいで、後は何もない秘境の場所。そこで、温泉宿に泊まるわけではなくずっと山の中を登っていき原っぱのようなところで車を停めた裕子は、言ったのだ。
「星を見ましょう、直春」
 千草にそう言われて、直春は固まった。裕子と全く同じ声がしたような気がしたからだ。
「どうしてここに?」
「裕子さんから聞いたのよ」
 助手席の扉を開けた千草は、直春を引っ張りだした。誰もいない山の上。千草はブルーシートをひいて直春を引っ張ってきた。
「ほら、ここ」
 千草は、自分の隣に座るように肩を押した。無理やり座らされた直春は、されるがまま座った。
「いいところね」
 空には、宝石をちりばめたような涙がでるくらい美しい星空が広がっていた。外は暗く、山を登ってきたから光がないことに加え、しんと静かで涼しかった。星を見るには最高のロケーションだ。
「あぁ」
 直春は、星を見ながら息を吐くように答えた。しばらくお互い黙って星を眺めていたが、ようやく直春が口を開いた。
「俺の家は、父親がろくでなしでさ、借金作って逃げてから母ちゃんが苦労しながら俺をたった一人で育ててくれたんだ」
「そう」
「東京にいたって聞いたけど、俺も東京にいたことがあるよ。東京に行けば、もっとお金が稼げるんじゃないかって思って。でも、東京に行ったら信じていた仲間に裏切られて、全てを失って田舎に逃げ帰ってきた」
 千草は、直春が東京にいたことを知って少し驚いたが、黙って話を聞いていた。
「それから、働くの怖くなってさ、だからずっと無職だった。こんな俺だけど、母ちゃんはいつも心配してくれた。見栄っ張りは母親譲りなのかもしれない、俺はずっと母ちゃんに嘘をつき続けてきた」
 直春は、星に手を伸ばした。
「でも、千草さんと恋人のフリをする嘘だけは、ついてよかったかもしれない。母ちゃん嬉しそうだった。ありがとう」
 伸ばした手を目を隠すように目の上に被せた直春に、千草はふっと微笑んだ。
「何よ、急に」
「別に」
 しばらくの沈黙の後、千草も口を開いた。
「私も、父親がろくでなしだったわ。お酒を飲んでいつも暴力を振るってきて。小学6年生になるまで、父親がいなければどれだけいいかってずっと考えてきたっけ」
「小学6年生の時何があったんだ?」
 千草は少し間をおいて答えた。
「父が行方不明になったのよ、私はそれで不登校になった。それからは、お母さんと2
人、支えあって生きてきたわ。仕送りを送る為に東京に上京したの」
「そっか」
 直春は、千草を見つめた。千草は、直春をあえて見ようとせず膝に顔をうずめた。
「千草さんは、家族思いだな」
 直春は、そういって自分のブランケットを千草の背中にふわりとかけた。
「生温かくて不快だわ」
「酷いなあ」
 その夜、寝室に向かおうとした千草の仕事用の携帯にメッセージが届いていた。上司の飯塚からだった。
【仕事はどうだ?】
 千草は、その文面を見て一瞬で表情を変えた。
「人を殺そうとしているような目をしてるぞ」
 千草の肩がびくりと震えた。トイレの前で直春が千草を見ていた。腕を組んで立っている直春を見て、千草は息を吐いた。