ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。
 とにかく何か食べさせなければと思った。薄汚れ、膝下がぬれた作業着姿の男を家に上げるのは勇気がいったが、見殺しにする訳にはいかなかった。正人を食卓に座らせ、すぐに出来そうで消化の良いものをと考えを巡らせる。和風だしに朝食の残りの白米とちりめんじゃこを入れ、一煮立ちさせた。器に盛り付け、白髪ネギを乗せ、ごま油を回しかけ、レンゲを添えて正人の前に差し出したのだ。
 雑炊が入った白地にピンク色の小花模様の丼を見た途端、こみ上げてきたよだれを飲み込んだようだった。
 待てをされている犬のような顔をしつつも、両手をしっかりと合わせ、深々と頭を下げた。
 「いただきます。」
 静かにそう言った後、おもむろに白いレンゲを手に取り、山盛りの雑炊をすくい、口に入れた。
 「熱いから気を……。」
 つけて、という間もなく雑炊は正人の口に収まってしまった。大量の熱い雑炊が口の中を焼いたのだろう。正人はのけぞったりうずくまったりしてもだえ、口をすぼめてすーすーと空気を口の中に送り込んだりし、何とか口の中のものを飲み込んだ。美葉が慌てて入れた冷たい麦茶を一気に飲み干す。
 「熱いから、フーフーして食べた方がいいですよ。それに、空きっ腹に急にものを入れたら胃がびっくりすると思うから、よく噛んだ方がいいです。」
 美葉の言葉に正人は一つ頷いて、レンゲで雑炊を掬うと、勢いよくフーフーフーと息を吹きかけ、口に放り込み、ものすごい早さで咀嚼して飲み込んだ。
 雑炊を掬って息を吹きかけ、ものすごい早さで咀嚼して飲み込む。
 機械のように一連の動作を繰り返し、あっという間に丼を空にすると、正人は初めて息をしたかのようにふうっと大きく息をついた。
 そしてしっかりと両手を合わせ、深々と頭を下げた。
 「ごちそうさまでした。」
 そして、身体ごと美葉に向き直り、テーブルに頭がつくほど上半身を折り曲げた。
 「本当にありがとうございました。」
 「いえ、そんな、別に…。」
 美葉は驚いて正人の後頭部に目を落とした。
 焦げ茶色の髪。伸び放題に伸びているし、風呂にもしばらく入っていないのか、べたついているけれど、まっすぐできれいな髪だと思った。
 そう思って後頭部を見ていると突然正人は顔を上げた。
 「すごく、おいしかったです!」
 にっこりと微笑む。顔半分を覆う前髪と無精ひげで人相はほとんど分からないが、無邪気な子供のような微笑みであることは分かった。
 とりあえず、悪い人ではなさそう。
 美葉はふっと肩の力を抜いた。かなりの変人そうではあるが、悪人よりは変人の方がましである。
 「いつ引っ越してきたんですか?」
 空になったグラスに麦茶を注ぎながら美葉は聞いた。とりあえず、どんな人物なのか情報が欲しかった。
 「あれは、たしか三月五日でした。すごい雪の日でしたね。前が見えないくらいの吹雪でした。親切な方が車に乗せてくださって。そうでなければ、遭難していたかもしれません。町役場で聞いた道はとてもシンプルだったので迷いはしないと思ったのですが、吹雪って、まっすぐ歩いているかどうかも分からなくなるんですね。」
 「この辺りは畑や田んぼばかりだから、風が強いとすぐ吹雪きます。吹雪の日は一メートル先も分からなくなるし、全てが真っ白なので方向感覚が狂ってしまって危険なんです。絶対歩いてはだめです。」
 町役場からこの辺までは歩くと一時間はかかる。吹雪の中、椅子を抱えて一時間も歩いていたのかと呆れた。しかし批判はせず新たに中身を満たした麦茶のグラスを差し出すと、ありがとうございます、と正人は受け取り口をつけた。
 「驚きました。本当に。もっと驚いたのは翌日です。入り口の引き戸の隙間に入り込んだ雪が凍って開かなくなったんです。引き戸の玄関は危険だということが分かりました。結局解けるまで十日以上かかりました。やっと気温が上がってドアが開いたときには雪が腰まで積もっていました。除雪道具がなかったので、さらに十日ほど外に出ることが出来ませんでした。引っ越しの日に非常用にと二㎏の米をいただいたのですが、本当にこれで命拾いをしました。非常食がとても重要だということを学びました。宿直室は幸いライフラインが通っていたので、暖かく過ごすことが出来ました。ただ、風呂がないと知りませんでした。湯を沸かして体を拭いたり髪を洗ったりしていましたが、石けんの類いは無く、さっぱりしません。初対面の方にこんな薄汚い姿をさらすこととなり、大変心苦しいです。」
 ぽりぽりと、正人は頭をかく。
 よく生きていたな。
 美葉は、呆れかえり、正人を改めてまじまじと見た。
 ひょろひょろとした体は栄養失調のためだけでなく、元々細身なのだろう。顔半分を覆う前髪も、一ヶ月やそこらでこうなるはずもなく、元々伸び放題だったのではないだろうか。紺色の作業着は薄汚れている。洗濯はしていたのだろうか?公園にいたら間違いなくホームレスだと思われる風貌だが、どことなく品があり、言葉遣いは丁寧で礼節も保たれている。
 美葉は、もっとも不思議だと思っていることを聞いてみることにした。
 「なぜ、体育館に住むことになったのですか?」
 正人は、「よくぞ聞いてくれた」といわんばかりに膝をたたいた。
 「手作り家具の工房を開いたんですよ。」
 「家具、工房?」
 「そうです。フルオーダーの家具を作っています。ただ…、雪で入り口が塞がれていたせいか今のところまだ一人のお客様も見えていなくて、収入はまだ無いんですけど…。」
 恥ずかしそうに、頬の辺りを掻く。
 「へぇ、インターネットショップなんですか?」
 「いえ、インターネットでの受付はしていません。ご来店いただいたお客様のライフスタイルや要望をしっかりと伺ってその方に合ったこの世でたった一つの家具を提供するのが売りですから。」
 正人は胸を張って答える。正人の自信を感じ取るほど、不安が募るのはなぜなのだろう。
 「集客は、どうやっているんですか?」
 嫌な予感がするが、思い切って聞いてみる。
 「集客、とは?」
 「チラシを配るとか、どこかの企業に売り込むとか、宣伝のようなものです。」
 なるほど、と正人は手を叩いた。
 「宣伝すれば、お客さんが来るかもしれませんね。」
 「宣伝しないと、来ませんよね。大体隣にいても家具工房が出来たって分からないのに、通りかかった人が『家具工房がある、行ってみよう!』って思います?まず看板とか登りとか、何かで家具工房やってますってアピールする必要があるでしょう?」
 「なるほど…。」
 正人は深く二回頷いた。
 「美葉さんは商才がおありですね。素晴らしいアドバイスをありがとうございます。」
 心からの笑顔を正人は美葉に向ける。前髪の下の瞳はきっと喜びと感動でキラキラと光っているのだろう。美葉はため息をついて天井を見上げた。

 関わらなければ良かったと思いながら、洗い直した食器を拭く。
 食事が終わった後、そのままでいいという美葉の言葉を頑なに断り、正人はきれいに食器を洗った。正直、爪が伸びた薄汚れた手で食器を洗ってもらっても困ると思った。少なくとも一ヶ月はまともに風呂に入っていない男に、失礼かもしれないと思いつつ風呂に入っていかないかと聞いてみた。
 「いいんですか!?」
 正人はうれしそうに応じた。
 そして今、正人は風呂に入っている。風呂場から、正人の鼻歌が聞こえる。音程は確かで声も悪くないが、歌詞があまりにもでたらめだ。
 食事を与え、風呂で汚れた体を清める。
 まるで捨てられた犬を拾ったみたいだ。
 とても変な人。悪い人間ではないが、あまりにも生きていくための能力に欠けている。このまま放っておいたら、いずれ死体で発見される可能性が高い。全く知らない間柄であれば、「お気の毒」とさらりと思い、「何も隣で死ななくてもいいのに」とちょっと非難めいた気持ちを抱き、体育館を見るたびに嫌な思いをする、くらいで済むだろう。だが、こうして会話をし、食事を提供し、生活能力が無いということを知ってしまったら、遺体として発見されたことに責任を感じてしまうことだろう。
 「だからって、ずっと面倒見てあげるわけにも行かないし。」
 美葉が一つため息をついたときだった。
 風呂場から、けたたましい悲鳴が聞こえた。美葉は驚いてレンゲを床に落としてしまう。
 落としたレンゲを拾うのは後にし、風呂場に駆けつける。
 「どうしたの?」
 恐る恐る木のドアに声をかける。
 木のドアが少し開き、正人のぬれた前髪が覗いた。
 「すいません。自分の顔に、びっくりして。」
 正人の前髪から、しずくが落ちる。
 「は?」
 美葉は眉をしかめた。
 「鏡をしばらく見ていなかったから、こんなに髪や髭が伸びていると思っていなくて。鏡に映った自分の姿を見て不審者だと思ったんです。」
 へへ、と照れくさそうに正人は笑った。
 「髭、そこにあるT字カミソリ使って剃っていいですよ。」
 美葉は投げやりにいって立ち去ろうとする。
 「ああ、待ってください。これも、借りていいですか?」
 ドアの隙間から、正人はバリカンを差し出した。

 三十分後、裏庭に並べた椅子に、正人と和夫が並んで座っていた。
 二人とも、頭が通るように穴を開けたゴミ袋を被っている。その背後に、美葉がバリカンを持って立っていた。
 バリカンを使うのかまわないが、脱衣所や風呂場で使われると後片付けがやっかいだ。それに、バリカンを使ったことはないという。
 ならば、ちょうど和夫の髪が伸び放題になっていたのでまとめて刈ってしまおうということになったのだ。
 和夫の髪は、母が毎月刈りそろえていた。刈ってくれる人がいなくなると、自分から理髪店に向かうことをせず、伸び放題になる。あまりにも見苦しくなると、美葉が半ば無理矢理刈ることになる。頻繁に刈るのが面倒なのでかなり短く刈り込むのが和夫は気に入らないようだ。だったら自分で何とかしろと思う。
 和夫は先にゴミ袋を被って座っている正人を見て、
「誰?」
と聞いた。
 正人は立ち上がって直立し、
 「ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。先月隣に引っ越してきました木全正人と申します。」
 と深々と頭を下げる。
 「はぁ、どうも。谷口です。」
 和夫はちょこんと頭を下げ、どっこらしょと椅子に座る。
 体育館に引っ越してきた隣人が、初対面で自分のスエットの上下を着て(何ならパンツも自分のだけど)ゴミ袋を被って座っているというシチュエーションに、このリアクションの薄さはないだろう、と美葉は思う。力任せにバリカンにアタッチメントを取り付ける。
 「六ミリにしてくれ。」
 和夫は振り返らずに言う。
 「どうせ、三ヶ月もしたら六ミリの長さになるでしょ。」
 美葉は素っ気なく言い返し、一ミリのアタッチメントで頭をそり始めた。
 ああ、と和夫の口からため息がこぼれる。
 二人の様子を眺めながら、正人がふふ、と笑みをこぼした。
 襟足から、頭頂部に向かってバリカンを走らせる。この感触は嫌いではない。小さい頃は面白がって母にせがんで刈らせてもらった。必ず虎刈りになるので、母は一番長いアタッチメントをつけたバリカンを持たせていた。上手になった頃には、父親の頭に好んで触ろうと思う年は過ぎてしまった。久しぶりにバリカンを持ったのは、去年の暮れだったと思う。
 和夫の髪は、あっという間に刈り上がった。
 美葉はアタッチメントを12ミリに変えた。正人の髪質は柔らかくて癖がない。長めに刈っても変に張り出したりはしないだろう。長髪から突然丸坊主もかわいそうだし、まだ年も若そうなのでおしゃれ坊主にしてあげようと思ったのだ。
 「沢山、木を植えているんですね。」
 バリカンを入れたところで、正人が、ぽつりとそう言った。
 物干し竿の向こうに、一坪ほどの庭があり、取り囲むように低木が植えられている。低木の向こうには、背の高い木が何種類か、低木や庭を守るように立っている。どの木もまだ冬囲いが外されていない。
 「正面が蝦夷山桜。奥のがブンゲンストウヒ、その隣が、蝦夷赤松。手前のはみんな紫陽花です。」
 和夫が力ない口調で答える。
 「へぇ、山桜は立派な枝振りですね!」
 正人が身を乗り出そうとするので、動かないで!と美葉がゴミ袋を引っ張った。
 「山桜は、結婚の記念に植えました。ブンゲンストウヒは美葉が生まれた記念樹です。蝦夷赤松は景観のために町から無料で配られたものです。紫陽花は、毎年母の日に新しい品種の鉢植えを買って、秋に庭に下ろして育てていたんです。…家内がね。」
 「奥さん、紫陽花がお好きなんですね。見事だろうな、この紫陽花の庭は。」
 「…。」
 和夫は無言で立ち上がり、ゴミ袋を頭から外して椅子の上に置き、立ち去ってしまった。
 「あ…。」
 後ろ姿を追うように動かした頭を、美葉がぐい、と押さえた。
 「気にしないで。」
 バリカンを動かしながら美葉は素っ気なく言った。
 「お母さんが死んでからずっとああなの。」
 はっ、と正人が息をのむのを感じたが、美葉は手元に集中した。心を動かさないようにするためだ。
 「悲しんでいたって、時間は流れるのにね。」
 バリカンの長いアタッチメントでは、きれいに長さをそろえるのが難しい。それでも一通り刈り終えたので、正人から体を離し、長さがそろっているかどうかを確認する。
 「いいんじゃないかな。」
 小さくつぶやいてから、
 「できたよ。」
 と正人に告げた。
 正人は自分の頭を左手で触る。感触を確かめているようだ。
 「ありがとうございます。」
 正人は笑顔で美葉を振り返った。
 美葉ははっと息をのんだ。
 美術室にあるギリシャ人の胸像のような、彫りの深い顔立ち。柔らかく細められた切れ長の目。形の良い唇が優しく微笑みかけている。
 現実離れした美青年がそこにいた。
 うわぁ!、と心の中で叫ぶ。
 お父さんのパンツはいてよれよれのスエット着て頭からゴミ袋被ってるけど、すごいイケメン!
 「こんなに短くしたの、久しぶりです。頭、涼しくなりました。」
 正人が立ち上がると、ゴミ袋にたまっていた薄茶色の髪の毛がぱらりと、雪解けでやっと顔を見せたばかりの芝生に落ちる。
 正人は膝に頭がつくのではないかと思うくらい深々と頭を下げる。
 「食事をさせてもらい、風呂に入れてもらい、髪まで切ってもらい、本当に何から何までありがとうございます。おかげさまで、生き返った心地です。」
 そう言ったとたんに、正人の腹が大きくなった。
 正人は自分の腹を抱え、赤面する。恥ずかしそうに固く閉じたまぶたを、長いまつげが縁取っている。
 イケメンでも、変な人は変な人だ。
 美葉は苦笑して言った。
 「晩ご飯も、食べていく?」

 照り焼きにしようと思っていたもも肉を大きめの一口大に切り、白菜と長葱、人参、椎茸を土鍋に入れ、味噌と豆乳で煮立てる。砂糖と醤油で味を調え、多めのすりごまを入れた。冷蔵庫に入っているのはいつも二人分の食材なので、飢餓状態を満たすには物足りないかもしれない。冷凍庫を確認したら、うどんがあった。美葉は一つ頷く。うどんでしめれば腹は満たされるだろう。
 食卓には正人が見るからにわくわくしながら待っている。和夫は、ぼんやりとテレビ番組を見ていた。
 「コンロ、用意して。」
 美葉に声をかけられ、大儀そうに和夫は立ち上がり、冷蔵庫の上から卓上コンロを出した。ガスボンベを取り出し、軽く振って中身があるのを確かめてからコンロに取り付ける。そこへ、土鍋を抱えた美葉がやってくる。コンロの上に土鍋が置かれ、弱火にかけられる。
 美葉が土鍋の蓋を開けると、もわっと白い湯気が立った。
 乳白色のだしが、小さくふつふつと沸いており、出汁を含んで柔らかくなった白菜に人参が色を添えている。
 正人は、口を半開きにし、目を見開いて鍋を凝視している。まるで感動的な映画に見入っているようだ。美葉が黒いとんすいに一通りの具材をとりわけ、目の前に置くと、息をのむ気配が聞こえた。うやうやしく両手で包み、匂いを嗅ぐ。そして、微かに震える手をしっかりと合わせ、深々と頭を下げた。
 「い…。」
 「あ、熱いからね。」
 美葉は慌てて声をかける。はっと正人は顔を上げ、上目遣いに美葉を見てから至極真面目な顔で大きく頷く。そして、改めて深く頭を下げた。
 「いただきます。」
 正人は箸で白菜をつまみ出すと、フーフーと強く息を吹きかけた。口に入れ、しっかりとかみしめる。時間をかけて咀嚼し、飲み込んだ正人の目から、大粒の涙がこぼれた。
 「え!?」
 美葉は絶句する。
 正人はまたとんすいの中身に箸をつける。昼間の雑炊の時とは違い、一箸ごとにじっくりと味わっているようだ。咀嚼する頬に涙が幾筋も伝う。美葉も和夫もぽかんとその様子を見ていた。
 スープを飲み干し、正人は深い息をゆっくりとついた。
 「生きていて、良かった。」
 深い息とともに、正人のつぶやきが漏れ聞こえた。
 息をついたところで、やっと美葉と和夫の視線に気づいたようである。両手で涙を拭き取り、恥ずかしそうに笑った。
 「すいません。驚かせてしまいました。お鍋を囲む、という行為があまりにも久しぶりだった上に、あまりにも美味しくて、感動的で…。今生きて、この時を迎えられていることが本当に心から良かったと思うと、涙が止まらなくなってしまいました。」
 「まぁ、今日出会わなければ、本当に餓死してたかもしれないしね。」
 美葉が肩をすくめる。心に黒いもやがかかって、言葉にとげが混じってしまった。
 美葉の心にもやを作ったのは、「生きていて良かった。」という言葉だった。言葉にならない不愉快さを感じたが、表に出してこの男の純粋な感激に水を差すつもりもなく、美葉も箸を動かし始めた。
 和夫が立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。無言で片方を正人に差し出す。
 正人はえ、と驚いた顔を和夫に向けながら缶ビールを受け取った。しばらく包むように両手で持ってから、身体から遠ざけるようにテーブルに置いた。
 「ありがとうございます。」
 深々と頭を下げてから、眉尻を下げた。
 「でも、これはいただけません。」
 「酒は苦手かい?」
 和夫が問う。正人は大きく首を横に振った。
 「いえ、苦手と言うことはありません。しかし、今日はいただくわけにはいきません。お酒は、一日の労をねぎらうためにあるのだと思っています。今日、僕は身になる働きを何一つしなかった。それだけでなく、こうやって美葉さんに窮地を救っていただき、食事をいただき、風呂に入らせていただき、身なりを整えていただきました。労働をせず与えていただいてばかりの一日でしたから、お酒をいただくには値しません。」
 「はぁ。」
 和夫はぽかんとして間抜けな声を返す。
 「堂々と胸を張ってお酒が飲める日が来るといいね。」
 美葉はそう言いながら空になった正人のとんすいに二敗目の鍋を取り分ける。美葉が放ったのは皮肉だった。実態のない家具屋に、客が来る日などないだろうと思ったのだ。そんな美葉に正人は純粋な笑みを返す。
 「はい、頑張ります。」
 力強い握りこぶしを作ってみせる。美葉はため息をつき、とんすいを正人に手渡した。


 今日は、予定外の事が多すぎた。
 美葉は机に向かい、参考書をにらみ、数学の問題を解いていく。数学は今年の内に一通り理解しておくつもりだ。学校の授業に合わせていてはとても間に合わない。入学の時点で進学校に行った者と大きなハンデを負っている。そこを詰めていかなければならない。
 シャープペンシルを握る指先に力がこもる。
 大きく息を吸う。
 息が、しにくい。
 呼吸はしている。でも、苦しい。喉の奥に大きな塊が閊えている。その塊のせいで、息を吸っても、吸っても、本当に必要なものが入っていかないような気がする。
この塊は、いつの頃からか常に美葉の喉の奥にある。日々の日課をこなすことに集中していれば、忘れていられる。でも、しんとした空気の中にいると息苦しさが増してどうしようもなくなる。
 首を上げて天井を仰ぎ、大きく息を吸う。
 負けてしまうわけにはいかない。
 目を閉じて、奥歯をかみしめる。ぎりり、と嫌な音が鳴った。
 目を開ける。窓の外の暗闇が目に映る。街灯も何もない田園地帯は、夜になると真の闇に包まれる。
 美葉はもう一度大きく息を吸い、再び参考書に視線を移した。
 そのとき、まぶたの上に光を感じた。視線を挙げると、オレンジ色の光が闇の中にぽうっと浮んでいる。体育館の窓に明かりがともったのだ。
 いただきます。そう言って丁寧に両手を合わせた正人の姿が目に浮んだ。久しぶりの食事を急いでかきこみたいのに、美葉の言葉を忠実に守って雑炊を必死で冷まし、ものすごい早さで咀嚼する姿。濡れた前髪からしずくを垂らして恥じ入る姿。
 「おかしな人だったな。」
 オレンジ色の光を眺めながら、ふう、吐息をはく。肩から力が、ほんの少し抜けた気がする。正人は何をしているのだろう、と身を乗り出して窓の光をのぞき込むが、人影は見えない。目をこらした先に、微笑みかける端正な顔が浮び、頬が熱くなるのを感じた。
 美葉は小さく頭を振り、両手で自分の頬を軽く叩いた。
 「集中しなくちゃ。」
 参考書に目を移す。不思議と息苦しさが和らいで、数式を解くことに意識が吸い込まれていった。