会議室から社長室に移動中、社長が指示を出す。移動中でさえ、打ち合わせをしている。世間話などもってのほか。「辞めてやる」と宣言したけど、社長の顔を見ると、辞める気などなくなってしまう。
夜の考えごとは、判断を間違う危険がある。夜は何も考えずに寝た方がいい。

「今夜の創立記念パーティーだが……」
「はい」

経済団体で懇意にしている会社の創立記念パーティーがこのほど開催される。社長はそれに招待されていた。
社長はいつものように、タキシードで参加、私は会社役員と一緒に同伴する秘書たちと、別室で待機することになっている。

「ホテルには社用車で、帰りはタクシーで帰宅する。そのように手配を頼む」
「タクシーですか……?」

滅多にない、いや初めてだと思うタクシーの要請。思わず聞き返してしまった。

「ああ、斎藤さん に急用ができたとかで、夕方に退社したいと申し出があった。車の手配を頼む」

社長に対して要望がある時は、秘書の私を通すのが通例だけれど、社長の性格を知り尽くしている斎藤さんは、直接報告した方がいいと判断したのだろう。

五代社長以外の社長はどうなのか知らないけれど、五代社長は偉ぶったりしないところも魅力的。高圧的に見えるのは商談や会食をしている時だけ、それも相手と駆け引きが必要な時だけだ。自分を演出するのが抜群にうまい。
こうして斎藤さんの私的な都合なども受け入れる、寛容な心を持ち合わせてもいる。

「畏まりました、手配をいたします」
「よろしく」
「はい」

パーティーが始まるのは、夕方六時からだ。終わりの時間が決まっていても、すぐに引き上げるのは難しい。結局、残業だ。
しかし、考えようによっては秘書たちや役員が集まるパーティーに行くのだから、いい男が見つかる可能性がある。そう考えれば、窮屈なパーティーも楽しみになる。
この間弥生と食事をしていた時、どんな所にもチャンスは転がっている。アンテナを張り巡らせておくようにとアドバイスを受けたばかりだから、その言葉を胸に今日も頑張る。
いけない、昨日仕事を極める、女一人で生きていくと誓ったばかりだ。弥生に言う通りになってたまるか。アンテナを張り巡らせ、私の女としての潤いを満たすだけの男を見つけるだけだ。
そう、私は男を都合のいいように使って捨てることが出来る、極上の女になるのだ。流されてしまわないように、しっかりしなくちゃ。

「はい……では、そのようにお願いします」

ハイヤーの手配を済ませ、夕方まで通常通りの業務をこなす。

「持っていく物をチェックしないとね」

デスクに持参する物と、参加者の名簿を置く。名簿は大切な物だ。
社長は参加者全員の名前を憶えて行くので、私が知らないなんてありえない。単語を暗記するように、ぶつぶつと名前を連呼して覚えた。

「憶えるには甘いものが必要……どれにしようかな」

デスクの引き出しを開けると、お菓子がいっぱい入っている。夜ご飯を食べずに残業をするからいつの間にか、引き出しは沢山のお菓子があるようになってしまった。自分の家の縮図のようにごちゃごちゃした引き出しの中を、かき混ぜながらお目当てのお菓子を探す。

「あった」

最近お気に入りのピーナツチョコ。秘書課にいたら周りの子達にもおすそ分けをして楽しく食べるのに。

「社長にどうぞ。なんて言えない……」

一緒にチョコレートを食べるところを想像してにやける。

「ばか、憶えなさいよ」

気を取り直して暗記を始める。
社長に同行するのは、パーティーが始まるまでの挨拶回りまで。そのあとは控室に待機することになっている。
デスクの置き時計を見ると、パーティーに出発する時間になっていた。

「社長、ご出発のお時間です」

電話のスピーカー機能を使って社長に伝えると、すぐに分かったと返事があった。

「着替えは済んでいるかしらね」

冠婚葬祭にいつでも対応できるように、社長室にはクローゼットがあり、タキシードもかけてある。着用したあとは私がクリーニングに出している。

「ネクタイ結びたい……」

もはや異常者。
社長が彼氏という設定の妄想歴は長く、そのなかでも大好きなシチュエーションが、ネクタイ結び。少し背伸びをして首からネクタイを掛けるとき、社長との顔の距離が最短になる。社長は堪らず私の唇を奪い離さない。

「うふふふ……」

本当にやめなさい。救いようがなくなるから。
社長室から出てきた社長は、きっちりと髪もセットしていた。鏡を見ながら髪をセットする姿を想像して、涎がでそう。

「出よう」
「畏まりました」

私の前を通り過ぎるとき、ほんのりと香る香水の匂い。夕方からのパーティーにあわせて、オリエンタル系の香水をつけている。セクシーな男を演出するのにはもってこいの香り。私を酔わせてどうするつもりなの?

「どうかしたのか?」
「え?」
「歯でも痛いのか?」
「歯?」
「頬に手を当てている」

頬に手を当てて悶絶していた。ご安心下さい、健康優良児です。

「あ、いえ、なんでもございません」
「ならいいが」

とうとう変態染みた行動を起こすようになってしまった。本当にまずい。