「ねぇ」

「んー?どした?」

独り言のように呟いたそれに優しい声が返事した。

「あ、いや、、なんでもない。」

沈黙が苦しくて思わず口にした声だったが、思いがけない声色に、怖気づいてしまった。
咄嗟に誤魔化す言葉に、自己嫌悪が募る。

「えー?なんでよ」

再び届く、優しくて甘い声に、耳が溶けてしまいそうだ。
彼から背を背けていた私に、彼が後ろから触れる。
肩に手を置かれ、不意にドキリとした。

「呼びたかっただけ」
「はは」と笑いながらとぼけてみせた。

上手く笑えているだろうか。
緊張は伝わっていないよね?

「もー素直じゃないなぁ。」

拗ねたような声で笑う彼。
後ろからする声はとても明るい。
今、どんな顔しているの?
正面から話せば良いのだろうが、どうしても目が合うと表情筋が言うことを聞かない。
この面倒くさい感情がバレてしまえば私は、、彼の前から消える覚悟をしてもいいだろう。

「────ねーぇっ」
突然呼ばれた自分の名前に、仕方なく振り向こうと思うが
彼の腕が、私の首元に回されたため、断念。
そのままぎゅっと密着した体に、私の心拍数は再び上がる。

「っ、ん?」
戸惑いながらも、辛うじて返事をするけど
彼は何も答えない。
少し強くなる腕に、そっと手を添えた。
こつん、と肩に乗っかる頭。

「どした?」
突然、後ろから抱きつかれるなんて、、びっくり。
いや、嬉しいに決まっている。できるなら正面から私も腕を回したい。
そんな欲を感じたけど、「ううん、いけないな」と諦め、溢れかけた思いを押し込めた。
そもそも強く抱きしめられて動けたものじゃなかった。
きゅぅっ、と心が音を立てるのが分かる。
あぁ、好きなんだ。もう。
ずっと認めたくなかった、だけれど。
無理なんだろう、好き。彼が。
意識する度、どうしようもない気持ちが湧き水のように溢れ出す。

「んーー、すき。」

びくっ
すりすりと猫のように私に擦り寄りながら言葉にする彼。
私がこんなに我慢していることを、彼は卒なくこなすんだから、本当にずるい。
弱くなった私の心を諦めきれなくするんだ。

「うん、」
「すきだよ?」
「知ってるよ?」

テンプレになったこの会話。
私がどれだけ心を痛めているか、知らないのよね。

「そっちは?僕のこと好き?」

猫なで声の甘えた声が頭に優しく痺れる。
好きだよ。大好き。

「んー、、」
本音とは裏腹に少し悩むふりをしてみる。

「ひみつ」
好きだって言っても本気にされないでしょう?
お願いだから、私の事だけ見ててよ。

「えー!なーんでっ」
このままの関係じゃ嫌なのに。
私がなにか動かないといけないのに。
悪化することが嫌で彽徊する日々が、重く苦しい。
押したり引いたりなんて、駆け引きは苦手だから上手にできるわけないから。
下手なことするより、隠している方が楽だと思った。


「あれ、どこ行くの。」
「お手洗いだよ」
「いってらっしゃい〜」

そう言って立ち上がった私は、足早に個室へ入った。
一緒にいられて幸せなはずなのに、突然息が重くて詰まって、不安になる。

「ふぅーーー、、、すぅーーー、、」
そっと深呼吸。
気を抜いたら押し殺している言葉が浮かんでしまいそうでこわい。
落ち着いて。
帰ったら、いつもどおり。
私ならできる。
そう言い聞かせて。


「あっ!おかえり。」
「うん」
「こっちきて、」
「ん?」

隠した。
今、確かに隠した。
帰ってきた時、彼が見つめていたのはスマホだった。
私がドアを開けた時、ササッと裏返して机に戻したけど。
曇る心を胸に、彼の隣を数十センチ開けて座る。

「なんで?」
「なにが?」
「すきま。」

そんな言葉を放ったと思いきや、視点が回った。
彼は私を押し倒し、上から見下ろしていた。

「もー、なにか別のこと考えてるでしょ」
拗ねた顔で言う彼は、傍から見れば彼女が大好きな彼氏に見えるのだろうか。
、、私たちは付き合っていないのだけれど。
あ、そんな顔も好き、なんて馬鹿なことを考えながら顔に手を伸ばす。
分かってないな、今この瞬間にもずっと君のこと考えているのに。

「考えてないよ」
スリ、、と頬をなぞると、私の手を掴んで唇に近づける。
ちゅ、と軽く触れる柔らかな唇に、思わず体が跳ねた。

「ねぇ、すき」

あ、いやだそれ。
その見透かされるような目。
私のことが好きだって勘違いするから。

「、、うん知ってるよ」
「わかってる?」
「んん?」
「わかってないじゃん!」

わかってるよ、と返そうとした時、開けた口に彼の唇が触れた。

「んっ?!」

なんでなの。
分かっていないのは君のほうなのに。
こんなに、好きで好きでそばにいたいって思っているのに。
私の事好きじゃない癖に。
どうしてそんなに優しく触れるの。
甘く漏れる息を感じて、頭が溶けてしまいそうだ。

「ば、かっ」
悪態を着くと、にやりと笑った顔をした彼が、私の服の中に手を入れた。
あぁ、また流されてしまう。
私は、分かっているんだよ、君が想っていること。
本当は、私じゃない子のところにいたいんでしょう?
だけど、寂しいからそれを埋めるように、都合のいい私をつくった。
好きだと言うのに付き合いもしないのは、本命がいるからで。
だから─────

ピロリンッ
「んん、つう、ち」
「いいから。」
ピロリンッ
「なってる、」
「こっち、集中して?」

本当に?さっき、あんなに気にしていたのに。
ブーッ、ブーッ、ブーッ
今度は電話だ。
震えるスマホを彼は横目見た。

「ね、え」
「、、はぁ、まってて」
なぜだか怒っている様子でスマホを手に取る彼。

「もしもし、、なに?、、うん」
誰と話ししているんだろう、私が聞いてていいのだろうか。
確信は無いけど、相手に心当たりはある。

「、、はぁ?いま?」

きっと、本命ちゃん。
そう思うと、また心が痛む。
ズキズキと。
このまま、彼女のところに行くんだろうか。
嫌だな。
彼の裾を、ちょっぴり引っ張る。
こんなささやかな抵抗、意味なんてないだろうけど。

「わかった、じゃあ。」
トッ、と画面に触れた彼は、ゆっくり私を見た。

「ごめん、そのさ」
「行っておいで。」

動揺が伝わらないよう、余裕の笑みで笑ってみせる。
にしては、彼の裾を掴むという矛盾が生じているが。
いい女でしょ、なんて。

「っ、、ごめん。」
苦虫を噛み潰したような顔をして、彼が言う。
いいんだ、今くらい。
またどうせ、私のところに帰ってくるから。
私の掴んだ腕をそっと解こうとするから、自ら力を緩めた。
背を向けた彼は、その後1度も私を見ることなく、部屋を後にした。
変な、感じ。
都合のいい女が、今から都合のいいようにされる男の背中を押すなんて。
ねぇ、どうなの?
私じゃだめなのは知っているけど、私の方がもっと。

「ははっ…」

我ながら最高にダサくて笑ってしまう。
恋で人はこんなに狂えてしまうのか。
なんだか面白い。
この気持ちは絶対に伝えない。
伝えたらきっと、こんな関係なくなってしまうだろうから。
明日また、彼の前で笑っていられるように。
自分を押し殺して、彼の望む私へ。

「ねぇ」

彼がいなくなった部屋で、最初に言いかけた言葉を呟いた。
「すき」
それはとても掠れた声で、今にも消えそうだった。