指輪のこと、教会でのことに加え、更に不思議な出来事を目の当たりにした美都は、頭の中で思考をフルに巡らせながら自宅に帰ってきた。
あの怪物は何なのか。少年は一体どこに。春香の胸に溶けた宝石のような物体は?
全てがこれまで目にしたことのない情報で、頭はいっぱいだった。
「ただいまー……」
いつもよりも遅いスピードで歩いていたため、既に日が傾いた後だ。
この時間であれば円佳(まどか)が夕食の準備をしているはずだと思ったが返答が無い。
不思議に思って玄関を上がりリビングへ向かうと話声が聞こえた。
『えぇ──……。そうね……』
扉越しに耳を立てると円佳の相槌しか聞こえないため恐らく電話でもしているのだろう。
そっと扉を開けると推測通り電話中の円佳と目があった。口パクでただいまと伝える。ひとまず頭を冷やそうとガラスのコップを取りにキッチンへ向かう。
美都が帰ってきたことに気付くと口早に電話を切った。
「それじゃあ、……よろしくね。───美都」
コップに水を注いでいると、電話を終えたばかりの円佳が美都の名を呼んだ。
聞いてはいけない内容だったのかとひやひやしながら振り向く。
「話があるわ。こっちに来て座んなさい」
いつになく真剣なトーンの声で呼ぶ円佳に、少しだけ胸騒ぎを覚える。
コップにはまだ口をつけていない。乾いた喉が一層焦燥感を掻き立てた。注いだままのコップをその場に置き、身構えながら円佳が座っているダイニングテーブルの真向かいに腰を据えた。
円佳は難しい顔をしながら右手にペンを持ち、メモ帳に何かを書いている。
「──円佳さん?」
「……これから話すことは、私の本意じゃ無いとだけ伝えておくわ」
美都が彼女の名を呼ぶと眉間にしわを寄せて深い溜め息を吐いた。そのものものしい雰囲気に更に不安な気持ちが大きくなる。
不思議そうに円佳を見つめると、先程書いていたメモを切り取って美都に渡した。
「明日、ここへ行きなさい」
円佳から渡されたメモにはどこかの住所と思しき文字の羅列と人の名前が書いてあった。そのどちらにも見覚えはない。
わけがわからず首を傾げると、美都の反応を見た円佳が口を開いた。
「菫さんに会ったわね」
「──……! 円佳さん、何か知ってるの!?」
その名前を思い出すのに一瞬反応が遅くなったものの、すぐに先程会った人物だということがわかった。だがなぜ円佳からその名前が出てくるのか。円佳の知り合いであるのなら、自分のことを知っていても不思議ではない。
しかし彼女は美都の質問には答えず、尚も渋い顔のままだ。意地悪で応えないのではなく、考えていることを何か別の言葉に変換しようと探しているようだった。
「美都。何度も言うけどこれは私の本意じゃない」
「……? うん」
「けど、鍵の(ことわり)に異を唱えることはできないわ」
円佳は話し始めるときに前置きのように言った言葉を重ねると、美都の右手にはまった指輪を見ながら伏し目がちで呟く。
「鍵のことわり……?」
そう言えば、と菫との会話を思い出す。彼女がそんな単語を口にしていた。耳馴染みの無い言葉が並んでいたためその場ではほとんど理解が追い付かなかったのだ。しかしなぜ円佳がそんなことまで知っているのだろうか。
円佳は何度も小さく溜息を吐く。
「その指輪が持つ意味は軽くないわ。だからこそ私はあんたを行かせたくない」
「──……どういうこと?」
「菫さんに言われたでしょ。『指輪の示す方へ』って。それはここじゃないわ」
いきなりズシンと重力がかかったかのように、円佳の言葉が重くなった。その言い方はまるで今後のことを示唆するようだ。
「ここじゃないって……? じゃあ──」
「詳しくは明日訊きなさい。私がそれに関して出来ることは何もないわ」
美都は言葉の意味をうまく飲み込むことができず、ただ円佳を見つめた。
これ以上は訊いても無駄だと言わんばかりに、後に続けようとした言葉を遮断された。
円佳は事態を把握しているようだ。胸騒ぎが止まらない。
「……そんな顔しないの。これでも一番動揺してるのは私なのよ」
「でも──……」
不安の色が顔に表れていたのか、美都の表情を見るなり円佳は苦笑した。
円佳は立ち上がって美都の傍に寄る。美都も彼女に合わせて身体の向きを変え見上げた。
「────やっぱりそうなるのね」
何かを考えているような目で美都を見つめる。それは美都を通して何かを見ているようにも感じた。
円佳は美都の頭を優しく触った。
「円佳さん……?」
「いってらっしゃい。何かあったら連絡しなさい」
そう言うと円佳はその手を二回反復させた。





(……ここ、だよね)
美都はスマートフォンを片手に、辿りついたマンションを見上げた。その画面には昨日円佳から渡された住所を検索した結果の経路が記されている。
自宅とは学校を挟んで真逆の位置にある、都内では良くみかけるオートロック式のマンションだ。繁雑とした駅前からは離れているため周りは住宅街が広がっている。マンションの目の前には遊具が設置された公園があり、園内で遊ぶ子どもの声が響いていた。
その光景を横目に美都はマンションの入り口のオートロックの前まで歩く。
一息ついてポケットからメモ用紙を取り出す。それにはこのマンションの住所ととある人物の名前が書かれていた。
(……円佳さん、なんか変だったな)
美都はふいに昨日の円佳との会話を思い出した。あのあと何事もなかったかのようにいつも通り過ごしたがやはりいつもとは違う態度が気になった。だが、今朝起きたときには既に家人は外出しており話をすることが出来なかったのだ。
ひとまず一通りの支度を終えた後、こうして書かれていた住所の元へと向かった次第である。
(──……きれいなところだな)
オートロックのマンション。エントランスから自動ドア越しに見えるロビーは開放感がある広さだ。
数字の書かれた横の文字盤に使い方が書いてあり、それを見ながら部屋番号の数字をメモで確認する。
果たして向こうは自分のことを知っているのだろうか、という考えが過ったもののこういう場面での思い切りのよさは自他共に定評がある。
迷わず部屋番号を押すとありきたりなコール音が響いた。
『────はい』
応答したのは女性だった。声から判断するにまだ若い。若干動揺しつつも用件を述べる。
「あっ、わたし月代と言う者ですが」
『どうぞ』
名字を名乗ると声の主はすぐに承諾し、間髪いれずにドアが開いた。カメラに会釈をし扉の向こうへ進む。予想通りのロビーに感嘆しつつそのままエレベーターまで歩いた。
開けるのに何の躊躇いも無いということは、やはり声の主は自分のことを知っているのだろう。あるいは事前に訊いているかだ。昨日帰った際に円佳が夕飯を作りながら誰かと電話していたことを思い出した。もしかしたら電話の相手はその人かもしれないと考えながらエレベーターに乗る。
ひとまず円佳の指示通り訊ねにやってきたが、果たしてどのような人物なのだろうか。昨日から予期せぬことの連続で、様々な事で思考を巡らせている。
まもなくエレベーターが指定の階で止まった。
すれ違う人に挨拶して降りるときょろきょろと辺りの部屋番号を確認する。通路も綺麗に整備がされているようで歩いていて心地よい。いくつもの黒いドアを横目に通過すると、該当の部屋番号を発見した。表札には桜のイラストが描かれている他は名前は見当たらない。面白い表現方法だなあと感心してしまう。
(──……よし!)
一旦深呼吸して姿勢を整えた後、その下に設置してあったインターフォンを押した。ドア越しに軽快な足音が響いてくる。一気に緊張感が強くなり、心臓の音が高鳴る。
どんな人なんだろうと考えているとまもなくドアノブが廻り、扉が開いた。
だが意に反して目線の先に人影がなかった。すると思ったより下の方から声が聞こえる。
「はあーい?」
(……えっ!?)
声のする方に目線を落とすと、まだ小学校入学前くらいの少女が美都のことを微かに開いた扉から見上げていた。さらさらの茶色の髪の毛とくるくるとした大きな目が印象的だ。
確かに声の主は若かったと感じたがここまでとは思わなかったので驚きながらもその少女の目線の高さまで腰を落とした。
「ええっと……」
「こんにちはっ!」
「あ、こんにちは。えっと……あなたが──」
戸惑いつつも元気よく挨拶をしてくれた少女に同じように返す。ニコニコとした笑顔が眩しい。
この少女が何か知っているのだろうかと混乱していると、少女の奥の方から更に声が響いてきた。
「こら、那茅(なち)!」
先程インターフォン越しに聞いた声と同じだ。
自分の名前を呼ばれた少女は「あ! おかあさん!」と無邪気にその声の方へと走っていく。少女がその場から離れたことで閉まりかけたドアを慌てて支えた。
やはり声の主は少女ではなかったらしい。扉を支えながらゆっくりと立ち上がり少女の駆けていった方を向く。
視線を上げた先には、一人の女性が立っていた。その佇まいに思わず息を呑んだ。
少女と同じ色で少しウェーブのかかった髪は胸のあたりまで綺麗に伸ばされている。
年齢はまだ30に届いていないくらいだろう。少女に似ているせいか相当若く感じる。
言葉を失う程綺麗な女性だ。瞳から目を逸らせずにいると女性が呟いた。
「──月代……美都ちゃん……?」
透明感のある声が心地よい。その声にハッとして、慌てて自分の名を名乗った。
「あっ、は、初めまして……! 月代美都です!」
同時に思いきり会釈をした。
自分が男であったなら恐らく一目ぼれしていたであろうと思う。不躾にじろじろと見てしまったため気分を害していたらどうしようかと心配になった。
おそるおそる顔を上げると、その女性は美都を見つめてはにかんだ笑顔を見せた。
「こんにちは。櫻弥生(さくらやよい)です。よろしくね」
「さくらなちです! 4さいです! よろしくおねがいします!」
女性が名乗ると、足元にいた少女も続けて自己紹介をした。にこりと微笑む笑顔はとても柔らかく、こちらも顔が綻ぶようだ。
「よろしく……おねがいします」
初めて会ったはずなのに不思議ととても心地よい感じがする。それは彼女が纏っている雰囲気に現れているからなのだろうか。
春の陽だまりのように穏やかな笑顔だ。名が体を表している。
「話は聞いてるわ。あがって」
「お、おじゃまします」
弥生は、美都が切り出す前に訪問の意図を汲んだようで手際よく家に招いた。
先程挨拶を交わしたとはいえ初対面の人間の家にあがるのは少しだけ気が引けたものの、彼女の話を聞かねば何もわからなかったため遠慮がちに歩を進めた。
靴を揃えて居間にあがり弥生の後をついて行くと、太陽光が穏やかに差し込む開けたリビングダイニングに案内された。
その光景に思わず感嘆とした息を漏らす。
「そこに座ってね。那茅、案内してあげて」
「はあい!」
弥生はいつの間にかカウンター越しのキッチンで手際よくお茶を淹れる準備を始めていた。
返事をした方に視線を向けると那茅が「こっちだよ」と言って手を引いて誘導してくれた。
小さな那茅の身長に合わせて前屈みに歩く。自分の身体よりも一回り大きいダイニングテーブルの椅子を力いっぱいに引き、美都を促した。
「どうぞ!」
「ありがとう」
ひとつひとつの仕種が愛らしくて顔が綻ぶ。「どういたしまして!」と飛び切りの笑顔で応えるとそのまま弥生の元へ駆けて行った。作業中の彼女はその様子を見て幼子を褒める。
案内してくれた椅子へ座ると、まもなく弥生がトレーを持って目の前までやってきた。
「はい。紅茶で大丈夫だった?」
「は、はい。ありがとうございます」
緊張からか肩を縮める美都の前に、洒落たティーカップが運ばれてきた。アールグレイの良い香りが目の前で漂う。
弥生は同じカップを美都の対面に置くと自らそこに座る。そして軽く微笑んで「冷めないうちに飲んでね」と促してくれた。
尚も元気に駆けまわる那茅に、危ないでしょうと言って聞かせる様を見ると恐らく親子なのだろうと思う。
柔らかい雰囲気を纏った人だ。近くで見てもやはり若く感じ、到底4歳の子供がいるとは思えない。
添えられていたスティックシュガーを入れティースプーンをくるくる回しながら何から説明するべきか考えていたところ、弥生から話を切り出した。
「菫さんに会ったのね?」
「! ……はい、あの……?」
「──鍵の守護者」
「!」
弥生の口から、次から次へと昨日耳にした言葉が流れ出てくる。驚いて、手が止まった。それを見ながら弥生はまたふっと微笑み言葉を続ける。
「まずはわたしの自己紹介からよね」
そう言うと弥生は後ろ髪をあげ胸元にあったネックレスを外し、手のひらの上に置いて美都に見せる。それは美都の右手の中指にはめられているモノによく似ていた。
「これ──……!」
「あなたの指にはまっているものとほぼ同じものよ」
美都は目を見開いたまま視線を指輪から弥生へ移す。弥生も美都と目を合わせると推し量ったように頷いて言った。
「わたしも鍵の守護者だったの」
「──! ……だった? 今は違うんですか……?」
なるほど、と合点がいったもののすぐに弥生の言葉の中に疑問を感じた。彼女が過去形で話したからだ。
「えぇ。あなたがそれを持っているということは、私の役目もそろそろ終わりね」
弥生が感慨深そうに指輪をみつめた。彼女の言葉から察するに守護者は引き継がれるものなのだろう。
「あの……!」
訊きたい事が山ほどある。順番を考えるより先に、思いついたことから口に出していく。
「鍵ってなんなんでしょうか。鍵の守護者っていったい……」
菫にも訊いた質問だったが、その答えは得られないままでいた。しかし、弥生が何か知っているのだと把握した美都は堪えきれなくなったのか彼女に同じ疑問をぶつける。
弥生もそれを把握したように応えた。
「わたしのわかる範囲でひとつずつ説明していくわね。まずは鍵について。菫さんはなにか言ってた?」
「えっと……『鍵は世界を司るもの』だって……。世界って……?」
「私たちが今生きているこの世界のことよ」
その言葉に息を止めた。いきなりスケールが大きくなった気がしたからだ。
まだ混乱したままの頭で必死に整理する。美都のその様子を見ながら弥生は話を続けた。
「この世界は『鍵』によって均衡が保たれているそうなの。『鍵』には強い力が秘められている。守護者は文字通り、鍵を守る者のこと」
「守る、って……具体的には何をすればいいんですか?」
美都の疑問に、弥生は少しだけ目を伏せる。
「その強い力を良くないことに使おうとする者がいるの。守護者はそれらの脅威から鍵を守らなきゃいけない」
一旦黙り込んで言葉を整理する。つまり『鍵』は世界を保つために強い力を秘めていてその力を欲しがる者がいる、ということか。
菫にはあのとき具体的な説明をされなかったためようやく少しだけ理解できた。
鍵という単語をひたすら耳にして、ふと昨日の公園での出来事を思い出した。
「そう言えば……あの怪物も『鍵』がなんとかって言って──」
「──! 宿り魔に遭遇したの……!?」
「やどりま──……?」
耳に新しい言葉に思わずそのまま訊き返す。弥生は頷いて説明を始める。
「無機物に(たね)を植え付けて、それを憑代(よりしろ)に人に近い等身を(かたど)るの。物に宿る魔物。だから私たちは宿り魔って呼んでる。それを見たのね?」
「! ……はい、そうです」
怪物の名称を知って、納得したように美都は頷く。
禍々しい気を放った人型の化け物だった。
「急に景色が変わって、気が付いたらその宿り魔の近くで友だちが倒れてて……」
昨夕の出来事を思い出しながら呟く。
昨日はずっと夢見心地であったが一晩経ってようやく冷静に事態を思い返すことが出来るようになってきた。
帰ろうとした瞬間切り替わった景色の先にいたのが宿り魔だった。そしてその足元に春香が倒れていたのだ。無我夢中で春香の元に駆け付けたとき、彼女はまるで生気を帯びていないような顔色だった。
「……その子はたぶん、心のカケラを奪われたのね。鍵は心のカケラにあると言われているから」
弥生は美都の呟きを聞きながらその時の状況を理解したらしい。そう言うと彼女は美都が疑問を口にする前に「少し難しい話になるけれど」と前置きをして自分の胸に手を当てた。
「心のカケラは私たちの中に必ずあるものよ。心臓が肉体を動かすものだとしたら、心のカケラは精神を働かせるもの。でも心臓と決定的に違うのは、普段はそれを知覚できないということ」
前置きがあったものの、突然難しい話になって美都の頭上にははてなマークが浮かんでいるようだ。
弥生もそれに関しては自覚があったようで、横にあったペンとメモ帳を使い図を書き記しながらひとつひとつ噛み砕いていく。
「心臓は私たちの左胸にあるでしょう? でも心のカケラはどこにあるかわからない。それは本来、その存在が絶対不可侵なものだからよ。だから心のカケラは人間を動かす核のようなものだと言われているの」
「核……? 心臓よりも重要なもの、ですか?」
「比較するのは難しいけれど、同じくらいね。心のカケラを奪われた者は仮死状態になるから。おそらく美都ちゃんの友達もその状態だったはずよ」
「──……!」
確かに倒れていた春香を揺さぶったとき、呼吸も微弱で蒼白とした顔をしていた。いくら名前を呼んでも反応がなかったのは仮死状態であったからなのかと理解した。
それと同時に新たな疑問も生まれ、それを弥生に訊く。
「──でも……知覚できないものなのに、どうやったら奪えるんですか?」
先程心のカケラはどこにあるかわからないものだという説明を受けた。なのにそれがまるで物体であるような言い方に矛盾を覚える。
美都の鋭い疑問に弥生はペンを走らせた。
「それを結晶化させるのが宿り魔なの。不可侵を破って無理矢理取り出す。結晶化された心のカケラは、宝石のような輝きを放つわ」
「! あれが、心のカケラ──……」
宝石という言葉に反応して、昨日の宿り魔の手中で光を放っていた物体を思い出した。
弥生の言うとおり、思わず息を呑むほどの輝きで宝石のような形を模していた。
「でも彼らが欲しているのは、あくまで心のカケラにあるとされている『鍵』よ。私もどんなものなのかは知らないの。私のときはとうとう所有者がわからなかったから」
「その……鍵の所有者は自分で名乗り出たりはしないんですか? 守ってもらわなきゃいけないんですよね?」
「たとえ自分の中に鍵があっても、自分が鍵の所有者であることはわからないのよ。だから宿り魔たちは探索行為に及ぶの。鍵が見つかるまではその探索の対象者となった子を守ることが守護者の役目ね」
改めて守護者の役割の説明を受けて、美都は神妙な面持ちになった。つまりは昨日遭遇した宿り魔と呼ばれる怪物と相対するということだ。
一気に不安な気持ちが大きくなった。なぜならば昨夕は──……。
「──でもわたし……昨日は何もできなかったんです。怖くて、友達を抱えるので精いっぱいで……」
得体の知れない物体との遭遇に、声を上げることも出来なかった。完全に気圧されてしまったのだ。果たして自分がこれから宿り魔に立ち向かうことが出来るのだろうか。
昨日の状況を思い出しながら美都は目を伏せた。
「そうよね……いきなりそんなこと言われても戸惑うだけよね」
弥生は美都の気持ちを汲み、声をかける。
「弥生さんは……怖くなかったんですか……?」
目の前で微笑む女性は華奢でとてもあんな怪物と戦ってきたなんて想像できない。
弥生はティーカップの中で揺れるオレンジ色の表面を見ながら、当時を思い出すように応える。
「私のときは引継ぎがなかったの。だから怖いって気持ちよりも先に、『戦わなきゃ』って」
「そう……だったんですか」
「────その指輪は」
美都の右手にはまる指輪を見つめて弥生は呟く。彼女の視線に気づいて、美都もティーカップから手を離し己の指で光っているそれを見た。
「それは、恐怖心よりも『守りたい』という気持ちが強く働いたときに力を発動するわ。今はまだわからないかもしれない……怖いという気持ちは簡単には拭えないもの。それでもあなたが守護者である限り、そういう場面に直面するかもしれないということだけは憶えておいて」
「────……はい」
その言葉を耳にしながら左手で指輪に触れる。なるべく怖がらせないようにしながらも、しっかりと意図を伝えようとする弥生の言動が沁みた。
あのときは何が起こったかわからずただ動揺するだけであったが、次はしっかり受け止めなければならない。それが、この指輪を手にした者の役割なのだろう。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。守護者は一人じゃないもの」
「え?」
思いがけない弥生の言葉にただただ疑問符が口から飛び出た。
その疑問に応えるべく弥生は話を続ける。
「守護者は二人一組なの。あなたの他にもう一人、同じ力を受け継いだ子がいるわ」
また新しい情報だ。それをもとに再度頭の中で仕組みを構築する。
つまり、鍵の持ち主に対し守護者2人で守るということなのだろう。一人で戦うわけではないことに安心し、「そうなんですね」と息を漏らす。
なんとなくだが概要が分かってきた。美都は残り少なくなった手元の紅茶に口をつけながら整理する。
鍵は世界を司る物でそれは人の心のカケラに封じられている。自分は鍵の守護者として、昨日の怪物──宿り魔から鍵の持ち主を守ること。ざっくりと状況をまとめるとこんな感じだろう。
それにしても現実離れしている。まるで物語に出てくる正義の味方のようだ。実際それと大差ないのだろうとは思うがいまいち実感が湧かないのはまだ自分に何の力も無いからだ。守る為の力を宿しているという指輪は何の変哲もない鋼の塊だ。昨日一瞬赤い溝に光が現れたかと思ったがあれは気のせいだったのだろうか。
「大丈夫? 一気に情報が増えたから混乱しちゃうわよね」
「あ、はい……いえ。その……まあ……」
肯定やら否定やらどっちつかずの相槌を返す。弥生の言葉通りなのだが、それをどう伝えてよいのかわからない。
するとリビングで遊んでいた那茅がぬいぐるみを小脇に抱えて、駆け寄ってきた。
「みとちゃんおはなしおわった? あそぼー!」
「こら那茅。まだお話し中よ」
「えー。まだあ?」
初めての来訪者にそわそわしながら、話が終わるのを待ちわびていたようだ。だが弥生が窘めると那茅は子どもらしくふくれっ面になった。
その様子が微笑ましくて目まぐるしく回転していた頭も一時停止する。
そういえばと確認しそびれていたことを思い出した。
「那茅ちゃん……と、弥生さんは親子……ですよね?」
「えぇ、そうよ。ちなみに私は今26歳。夫も同い年なの。今日は仕事で遅くなるって言ってたからまた近いうちに紹介するわね」
思った通り、弥生の年齢を聞いてその若さに驚いた。もちろん自分が言えたことではないが。ということは自分と弥生は一回り程違うということになる。
那茅は一人で遊ぶことに飽きたのか、いつの間にか弥生の膝の上に収まっていた。年齢の割に雰囲気が落ち着いていてついつい見惚れてしまう。
「それとよかったら『弥生さん』じゃなくて『弥生ちゃん』って呼んでくれる? 敬語も外してくれると嬉しいわ」
「え、でも──」
「あまり堅苦しいのが好きじゃないの。ね? お願い」
「なちも! なっちゃんってよんで!」
弥生からの突然の申し出に一瞬戸惑ったが、目上の人間からお願いをされてしまっては断ることはできない。それに断る理由もない。那茅も彼女に倣って懇願する。
「じゃあ……なっちゃんと……弥生、ちゃん……?」
飲み干したカップをソーサーに置き、たどたどしく彼女達の名前を呼ぶ。最後に疑問符が付いたが弥生はおおむね満足そうに微笑んだ。
「これからよろしくね、美都ちゃん」
「は……、──うん。よろしく……です」
敬語になるのを抑えながら改めて弥生と視線を交わす。何の前情報も無く訪れたが優しい人で安心した。
春の陽気と相まって、リビングには穏やかな空気が流れる。
ちょうど弥生のカップからも飲み物が無くなったようで食器が重なり合う軽い音が響いた。
「それじゃあ話を続けるわね。たぶんこれが一番重要だと思うんだけど──」
「? 重要なこと……?」
美都は首を傾げた。先程まで聞いていた話もかなり重要なことだと思っていたがそれ以上にまだ何かあるのだろうか。
鍵について確かにまだわからないことは山ほどあるが一旦区切りはついたと思った。
おそらく弥生もそう考えているはずだ。だとしたら鍵とは関係ないことなのだろうか。だが疑問は早目に解消しておいた方が良い。昨日今日で充分感じたことだ。
そう考えて話を聞く姿勢に入った。
────そして、後に続く弥生の説明を一通り聞いた美都はきょとんと目を瞬かせた。
「え────?」
何度目かの春一番が、窓の外で暴れるように吹き荒れていた。