先ほどの教会を後にし、夕暮れが近づくなか、美都は公園のブランコに腰かけていた。
(指輪の示す方へ、って言ってたけど……まさか喋るわけじゃないよね……?)
右手に嵌っている指輪を眺めた。
菫と名乗った女性から預けられたそれは、美都の右手中指で控えめに輝いていた。
何度思い返しても、不思議な空間だったとさえ感じる。
それは時の流れにしても、場所にしても、人物にしても、全てに当てはまる。
───あれは、一体なんだったんだろう。
白昼夢にしてははっきりとしていたし、夢ではない証拠もある。ただ、あの瞬間にこれから何かが変わっていくような気がした。確実なことは何もないが、ふとそう感じたのだ。
そう言えば、聞きそびれたことがある。
菫は、美都の顔を見たときにハッとした表情をした。
以前どこかで会っただろうか、と記憶を手繰ったものの心当たりはない。
自分は憶えていないだけで、菫は憶えていたらと思うと申し訳ない。
(不思議な感じだったけど……綺麗な人だったな、菫さん)
あれだけ雰囲気のある女性ならば、一度会えばそうそう忘れることもないだろう。もちろん最近であればだ。幼少期に出会っていたのならわからないのも仕方ない。
しばらく考えて見たもののやはり思い当らなかった。
(……まあ、ひとまず帰ろっかな)
軽く息を吐いて座っていたブランコから立ち上がった。
ちらっと指輪を確認する。
無機物が喋るわけではないと思いながらも、あの言い方では気になって仕方がない。
指輪に何も変化が無いことを確認して、美都は歩を進めた。
瞬間だった。
────……え?
空気が変わった。否、空間が歪んだのだ。
目眩のような感覚とともに、今までいた場所の音と色が消えた。
彼女の視界には反転した色の景色が映し出される。
公園に設置されている遊具はそのままだ。だが確実に何かが違う。
混乱する最中、状況を理解するより先に美都の目は一つのある物体を捉えた。
「な、に……?」
──あれは……?
思わず声に出た。
彼女の視線の先に映りこんだもの。それは人型をした『人ではない何か』だった。
それが人ではないのが明らかだったのは、全身の色や表情がおよそ人体とかけ離れていたからだ。
直感で、それが良くないものだとわかる。
一歩後ずさった。距離で言えば10mほどあるだろうか。向こうはまだこちらに気づいていない。しばらく様子をみようと息を呑んだ。
だがその瞬間、美都の視界にはそれと別のものも瞬時に捉えた。
人間だった。うつ伏せで倒れているがはっきりとわかる。見覚えのある服装と容姿。あれは──。
「春香っ──!」
考えるよりも先に足が動いていた。倒れている同級生の元へすぐさま駆け寄る。
「……っ……!?」
紛れもなく、つい数時間前言葉を交えた川瀬春香だった。先程と違うことと言えば彼女の顔色だ。美都は駆け寄ってすぐ少女の身体を揺すって仰向けにした。その顔は蒼白としていて呼吸も微弱であった。
「春香! しっかりして!」
何度も少女の名を呼ぶが反応はない。ぐったりとしたその身体には力が入っておらず、生気が感じられなかった。
『───何だ貴様は。どこから入った』
その声に肩をすくめる。倒れていた少女に必死で、その存在を無かったことにしていた。
美都は、恐る恐る顔をあげる。そして目の前にした異形の物に口を噤んだ。
──先程感じた通りだ。これは人ではない。化物だ。
人の形をした、人ならざるもの。なんと形容すればいいのかさえもわからない。
恐怖の中、ふとその手に目が行く。そこには息を呑む程に美しい、宝石のようなものが握られていた。
手の中でも光りを放つそれは、これまで見たこともないような輝きだった。
『まあいい。用は済んだ。これは《鍵》ではない』
「──……っ!」
その言葉にハッとする。どこかで聞いたことのある単語だった。
だが思い出すより先に、目の前に立つ化物が更に言葉を被せた。
『その娘もろとも、お前も始末してやろう』
ニヤリと笑む顔が見えた。瞬間、背筋が凍りつく。
倒れたままの同級生を強く抱きしめる。抱いて逃げようにも身体が強ばって動かない。
──どうしよう。どうすればいい? このままじゃ2人とも…!
その先に待つのは良い展開ではないことは明白だった。美都は混乱しながらも必死に考えたが、身体も思考も思うように働かなかった。
乾いた空気が喉に張り付く。その不快感さえ感じないほど切迫していた。
先程よりも濃紺な影が目の前に出来る。得体のしれない恐怖が美都を襲った。
『──死ね』
研ぎ澄まされた殺意の言葉が美都たちに放たれるのと同時に、目の前の物体が腕を振り上げた。
──っ……ダメだ……!
やられる。思わず、強く目を瞑った。春香を庇うようにして、全身に力をこめる。
しかし、すぐに襲ってくると思っていた鈍い痛みはなかなか現れず、代わりに破裂音のような響きとともに何かの咆哮が耳に刺さった。
「……っ、……?」
美都は、ゆっくりと目を開く。
まず最初に目を開いた先に入ってきたものは、白い布であった。正確には白い衣服を着た人間。
自分がしゃがんでいるからなのか、見上げる視線は高い。
後ろ姿しか見えないが男のようだ。その銀色の髪は襟足より上でひとつに括られている。
『オ、ノ、レ……──!』
例の怪物の声が聞こえる。先程の咆哮はそれのようだった。彼を間に挟んでいるため姿は確認できないが、のたうつような声だ。
その声を聞いても男は微動だにせず、至って冷静に姿勢を構える。
「──……!」
構えた際に、彼の右手に持っているものが見えた。
白い羽織から覗いたもの。
この平和な国では、よほどの事が無い限り実物を見ることさえないものだった。
(銃……!?)
男は躊躇いなく、銃口を怪物に向け引き金を引いた。
乾いた音が1発、再び周りに響く。
聞きなれない音と奇声に、美都はまた肩をすくめ身を屈めた。
同時に男の足元に、怪物が握っていたものが落下した。衝撃で手放したのだろう。
男は瞬時に右手に持っていた銃を左手に持ち替え、空いた右手でそれを掬い上げる。うめき声を上げるのが精一杯なのか、怪物からは反撃が無い。
『ま、さか──……きさま……!』
何かに勘付いたように、その怪物が男に呟く。
最後まで台詞を言う前に、男は既に銃を持ち替えた左手を振り上げていた。
「────天浄清礼っ……!」
男が初めて声を発する。その声色で、だいぶ年若いことがわかった。
先程とは違う音の銃声が鳴る。
金切声があがった。同時に怪物の姿が断末魔とともに消え去っていくのを目の当たりにする。
(なに……今の……)
男が現れてから一瞬の出来事であった。脅威だった怪物は消え、一時の静寂が流れる。
何が起こったのかわけがわからず、ただ男の後ろ姿を見つめた。
革靴の踵の音が一つ響いたのと同時に、彼が振り返る。正面から見た男は青年というよりは若く、少年という表現の方が正しい気がした。
後ろから見ていた銀色の髪には、翠色の瞳がよく映える。
黒のシャツの上に白い羽織を重ねていたようだ。右手には宝石のような輝く物体をのせている。
瞬間、その少年の容姿に目を奪われたが、彼が近づいてきたことでようやくハッとして我に還った。
「あ、あの……」
少年は美都たちの手前で立ち止まった。
美都のことを一瞬不思議そうに見つめたが、すぐに右手にのせていた物体をふわりと美都へ投げた。
見た目とは反して重力に逆らうような軽さのそれを、春香をひざまくらした状態で両手で受け取った。
「戻してやれ」
「え? ど、どういう……こと?」
彼の示唆することがなんなのかさっぱりわからず狼狽える美都を見て、浅い溜め息をついて美都の元へ屈む。
そのまま春香を抱き上げると近くのベンチへ座らせた。美都も後を追って立ち上がり、彼の横まで歩を進める。
追ってきた美都の方へ向いた。
両手で包んでいたものを同じく両手で掬いあげると、春香の胸の前まで持って行き、そっと手放した。
「……!」
それは少女の胸に溶け込むように微かな光を放ち形を消した。
美都はそれを食い入るように見つめる。
「消え、た……?」
「戻ったんだ」
「戻った? ──……! 春香っ!」
目の前で起こった不思議な現象を口に出さずにいられなかった。
彼の呟きにオウム返しに反応すると、それまで微動だにしなかった同級生が小さく呻いた。
少年はそれを確認すると立ち上がり踵を返す。
「待って! あなたは一体……」
慌てて美都が制止する。助けてもらったのに名前も訊いていない。
少年はその声に一瞬振り返り、美都を一瞥すると静かに言った。
「──……空間が戻るぞ」
「えっ……? ──!」
空に細かい亀裂が現れ、まもなく硝子が割れるような音が響き渡った。強い光りが射しこみ、思わず庇うように目を瞑る。
音が消えたのと同時に恐る恐る目を開き、辺りを見渡した。
そこは何の変哲もない、夕暮れの公園であった。どうやら反転された世界から元の場所に戻ったらしい。いつもの風景に心から安堵した。
(さっきのは一体……あっ──!)
ハッとして周りを見たが既に少年の姿はない。
代わりにベンチに座らされていた同級生が唸るようにゆっくりと目を覚ました。
「あ、れ……? 美都?」
目を開き知覚すると、春香は美都の名前を呼んだ。
「春香! 平気? どこも痛くない?」
「え? うん。……あれ、わたし何してたんだっけ? 塾終わって帰ろうとしたらこの公園で美都を見つけて……あれ?」
「──! 憶えて、ないの……?」
「うーん。夢でも見てたのかなあ」
春香の口ぶりからすると、先程いた場所のことは全く記憶にないらしい。白昼夢のようにでも思っているようだ。
顔色も話し方もいつも通り。特に変わったところは見られない。
「そっ……か。──勉強頑張りすぎなんだよ。今日は……ゆっくり休んで」
「ん、そうだね。もう日も落ちたしそろそろ帰ろっか」
春香はもう大丈夫そうだ。おそらく反転世界のことは憶えていないのだろう。
混乱しているのを悟られないよう普段通りを装い、帰宅を促す。
わけがわからないことばかりだ。
あの怪物は一体なんだったのか。
彼女の胸に消えていった輝くもの。
そして、拳銃を携えた銀髪の少年。
(──あれは……夢……?)
夢にしては怪物の叫び声も拳銃の音もリアルだった。
しかし今、これを共有できる人がいない。
心臓が早鐘を打つ。
夢物語のようなこの出来事が、何かの合図のような気がした。