雨の上がった、テラスに出てみる。

 軒先からは、銀色の雫がまだ落ちていた。
 所々、濃い雨雲があるが、全体に空は明るい。
 水平線の彼方の空は白く、グレーに見える海と、その境を隔てて映る。

 むっとした湿気を含んだ、重い潮風が里美を包む。
 だが、公園で隼人から告白された日と同じく、不快ではない。 むしろ、来る夏の予感を、彷彿とさせるような雰囲気だ。 何か… 潮騒の音も、ざわざわと、人がたくさん群れているような音に聞こえる。
( 蒸し暑さ、と言うより… まとわり付いて来る、無邪気な子供に接している気分…… )
 うまく表現出来ないが、雨のやんだテラスに佇み、里美は、そう感じた。
 生まれたての景色…… そんな気もした。

 振り込んだ雨に濡れた、テラスの床。
 雫の掛かった、軒柱……
 空が明るくなった分、芝の青さが、一層に映える。
 ふと、西の空に目をやると、薄くなった雲を通し、日の明るさが、
 ベージュ色に透けていた。

 ……すう~っと、風がなびく……

 里美は、湿った大気を、胸一杯に吸い込んだ。
( …気持ちイイ……! )
 濡れたアスファルトのような雨の匂いに混じり、潮の香りがする。
( まるで… 空気に、色が付いているみたい…… )
 淡い、琥珀色……
 里美は、そう感じた。 トパーズのような、優しい色だ……
 軒柱に、そっと寄り掛かかる里美。
 段々と明るくなって行く海や空の景色を、しばらく眺めていた。

「 吉村様 」

 声を掛けられ、振り向く。
「 雨、上がりましたね 」
 洋志だった。
 また、里美の胸が、トクン、と鳴る。
「 …ええ。 これで… 梅雨も終わりかしら 」
 緩やかな潮風に吹かれ、頬に掛かった髪を右手でかき上げながら、里美は、微笑しつつ、答えた。
「 まだ、降るかもしれませんが、もう、そろそろ梅雨も終わりでしょう 」
 洋志は、雨で濡れたガーデンチェアーやテーブルを、持って来たタオルで拭きながら、言った。
 里美は、テラスの入り口に立て掛けられた、モップに気が付いた。 おそらく、テラスの床を拭く為に、洋志が持って来たのだろう。
「 あたし、床、拭くね! 」
 そう言いながら、モップを手にする、里美。
 洋志が、慌てて言った。
「 いけません、そんな事…! お客様に、そのような事…! 」
「 やらせて下さい。 拭きたいんです、あたし 」
「 でも…… 」
 お構い無しに、濡れた床をモップで拭き始める、里美。
 モップを手に、床拭きなど、中学以来だ。
 木造の床が、珍しくなった事もあろう。 自宅のフローリングは、よく掃除するが、乾拭きであって、モップ拭きはしない。 事務所の床は、カーペットだし、掃除機を掛ける事はあっても、モップ拭きはしないのが常だ。

 ……妙に、楽しい。

 拭き上げられたテラスの床は、水分を吸い込み、木造特有の濃い色となった。 いかにも掃除した後のようで、見た目にも綺麗だ。
「 すみません… 吉村様は、綺麗好きなのですね 」
 洋志が言った。
 笑いながら答える、里美。
「 別に、そんなんじゃないですよ? ただ、何となく拭いてみたくなって… いつも、お世話になっているテラスだもの 」
 テラス脇で、タオルを絞りながら、洋志は言った。
「 父から… あのカップを、お譲りしたお客様がいらっしゃる、と聞きまして…… 内心、どんな方なのだろうか、と思っておりました 」
 粗方、拭き終わった里美は、モップを持ったまま、足元のテラスの床を見つめながら言った。
「 …今でも、あのカップを使わせて頂くのは、分不相応だと思っています 」
「 とんでもない…! 僕には、想像以上の方でした。 あのカップを託した父の気持ちが、良く分かります 」
「 そんな… 」
 気恥ずかしくなって、下を向いたまま、顔を赤らめる里美。
 洋志は、里美に歩み寄り、里美が手にしていたモップを受け取ると、言った。
「 吉村様には、確かに、母の面影があります… 父も… 最初は、母の記憶を、吉村様に重ねたのだと思います。 だけど、父に言われました。 そんな事で、あのカップを人に譲る事は無い… と 」
「 …… 」
 洋志は、続けた。
「 今も、このテラスを拭いて下さいました… 父は、そんな吉村様のお人柄を、見定めたのだと思います。 この店を、本当に愛して下さる、お客様だと…… 」
「 洋志さん…… 」
「 今日も、こんな天気の中、ご来店頂けました。 僕も… 吉村様こそ、あのカップを使って頂きたい、お人だと思います 」
「 …… 」
 何も言えなくなって来てしまった、里美。
 胸が熱くなり、目が潤んで来た。
「 …有難うございます、洋志さん……! これからも、足げく通わせて頂きます…… 」
 かすれたような声で答える、里美。
 里美の、泣きそうな表情に困ったのか、声の調子を上げて、洋志は言った。
「 新しく、スパークリング・ジュースを始めました! リンゴ果汁の炭酸割りなど、いかがです? モップ掛けの御代として、サービス致します! 」
「 …夏らしくて、いいですね…! 頂きます 」
 目を指先で拭いながら、里美が答える。
「 しばらく、お待ち下さいね 」
 洋志は、嬉しそうに微笑むと、タオルとモップを持って店内に入って行った。

 段々と、明るくなる、西の空。
 どこからか、カモメたちが飛来し、洋上を鳴きながら舞っている。
 暗い色だった海にも、青さが戻って来た。
 景色は、一気に、表情を変えようとしている。
 テラスから見える駐車場には、里美が乗って来た車が、ワイパーを途中で止めた
 状態のまま、雨に濡れて黒くなったアスファルトの上に、取り残されたように
 ポツンと駐車している・・・

( 何を見ても美しい… どんな時だって、安らげる… ここは、別天地だわ )
 テラスのイスに座り、里美は、そう思った。

 ……ここだったら、何のわだかまりも無く、暮らして行ける……

 里美の脳裏に、そんな考えが過ぎった。
 あの洋志と結婚する女性は、この桃源郷のようなカティ・サークで、暮らして
 いけるのだ。
 2人で、このテラスを掃除し、美味しいコーヒーを炒れ、店を経営する…
 天気の良い日などは、このテラスで、好きな詩集などを読み、カモメたちの
 舞う姿をキャンバスに描き、時折り休憩する保科と、人生を談義し…

 里美は、顔を振った。
( ナニ考えてるの、あたし…! 今… 隼人との生活を、秤に掛けてた…!
 最っっ低…! )
「 いかがされました? 」
 声に、ドキッとし、振り向く里美。
 洋志が、細いグラスに注いだドリンクをトレイに乗せ、立っていた。
「 …あ、何でもないです 」
 胸の鼓動を押さえつつ、答える、里美。
「 業務用の、濃縮還元ジュースではありませんよ? リンゴを絞った果汁の、炭酸割りです。 ちょっと、酸っぱいかも… 」
 グラスを、里美の前のテーブルに置きながら、洋志は言った。
 リンゴの、甘酸っぱい香りがする。
「 …美味しそう…! 」
 ストローを挿し、早速に飲む、里美。
「 ……いかがです? 」
 トレイを小脇に挟み、里美を、のぞき込むようにして、洋志は聞いた。
「 美味しい…! 炭酸の刺激も、丁度良いわ 」
「 良かった……! 」
 ホッとした表情の、洋志。
 甘酸っぱい味に、ピリッと舌に残る、炭酸の刺激……
 洋志は、言った。
「 お客様に、お出しするのは、初めてです。 コーヒー同様、ソフトドリンクも、手間を掛けたものを、お出ししたくて… 」
 若い、洋志ならではの考えなのだろう。 ゆったりと落ち着ける、カティ・サークだからこそ似合う、ラインナップかもしれない。 グラスも、ボトム側に、パステル調の淡いブルーが、グラデーションで入り、洒落ている。
 里美は言った。
「 素敵ですね。 果汁も、すっきりした味で、美味しいです。 ここのテラスで頂くから、尚更、雰囲気もあって、いいですね 」
 里美の評価に、洋志も満足のようだ。
「 ごゆっくり、どうぞ…… 」
 里美に微笑み、トレイを小脇に抱えると、洋志は店内へ戻って行った。

 …恋の味…
 そんな表現が、似合いそうだ。

 隼人を想いつつも、里美の心の中には、確実に、洋志の存在があった。
 里美の、一方的な、淡い片思い。
 保科には届かなかった、いや… 届かせてはいけない、恋心……
 だが、洋志に対しては、別である。
 選択による未来も、可能性もある……
( あたしって、不埒な女なのかしら… )
 実際の所、隼人から洋志に乗り換える事など、基本的に真面目な里美には、有り得ない行動であった。
 …ただ、あれから、隼人から連絡の来ない事実が、里美の心を揺らせていた。