「 じゃ、やっぱり再婚するんだ 」
 受付横の談話室。
 里美は、淑恵に言った。
「 うん…… ちょっと悩んだけどね。 この子にも、父親は必要だと思ってさ 」
 備え付けの樹脂製ベンチに腰を掛ける、淑恵。
 その横で、両足をプラプラさせながらベンチに座り、買ってもらったジュースを、ご機嫌そうに飲んでいる、明日香。
 淑恵は、明日香の頭を撫でつつ、そう答えた。
 小声で尋ねる、里美。
「 …明日香ちゃん… なつきそう? 」
 淑恵は、笑いながら答えた。
「 全ぇ~ん然、大丈夫! この子、あたしに似て、誰とでも喋るから。 ヘンな人に、付いて行かないか、心配だわ 」
 淑恵の言葉を聞き、明日香が、淑恵に尋ねる。
「 ヘンなヒトって、誰? 隣のオジイさん? 」
「 こら! そんなコト、言わないの。 オジイさんは、ちょっとボケちゃってるだけよ? 」
「 ボケって、ナニ? 」
「 …う~ん… 歳をとってね… 頭の回転が、ゆっくりになっちゃってるってゆ~か…… 」
「 頭って、クルクル回るの? 明日香、ヨコにしか向かないよ? 」
「 じゃなくてね… あ~ん、何て言ったらイイの? …もうイイから、それ飲んでなさい 」
「 は~い♪ 」
 明日香と淑恵の会話を聞いていて、プッと吹き出した、里美。
「 大変ね、淑恵 」
「 毎日、コレよぉ~? 今日は、ダンナが面倒見てるハズだったんだけど、免許の書き換えに行ってるの。 誕生日、明日だったのよ~ 慌てて、代休を取ってさ~、もったいない取り方、しちゃってるわ~ 」
 忙しそうだが、幸せそうだ。 これで良いのだろう……
 淑恵が、里美に尋ねた。
「 カティ・サーク、行くの? 」
「 うん。 直帰の届け、してあるから 」
「 あたし、今日は、午後も担当の会員さん、来るし… 行けないなぁ~ 保科さんに、宜しくね 」
「 うん、またね 」
 淑恵は、大丈夫だ。
 無邪気な、明日香もいる事だし… 持ち前の明るさで、新しい生活をスタートさせているに違いない。
 里美は、淑恵の新生活の幸せを祈りつつ、カティ・サークへと向かった。

 梅雨とは言え、夕立のような大粒の雨が降っている。
 フロントガラスを叩く雨粒は、夏の到来を予感させているようだ。
 雨音で、カーラジオの音も聞き取り難い。
 道の所々、車の轍の跡に、細長く溜まった雨水が、走る車のタイヤに弾かれ、
 放水のようにガードレールを超えて、海へと落ちて行く。
( この雨じゃ… 今日は、あのテラスで、くつろげないわね )
 やがて、滝のようにフロントガラスに流れる雨水を通し、カティ・サークの
 灯りが見えて来た。

 シケの航海を続けて来て、やっと見つけた港の明かり……
 里美に、そんな経験は勿論ないが、そんな感じであろうか。
 ポツリ、ポツリと映る室内の灯りは、そんな雰囲気を、かもし出していた。

 岬に一番近い、奥の駐車場に車を停めると、真正面に海が見える。
 鉛色の海と、暗いグレーの空…… 境目の見えない水平線……
 里美の心に、隼人の姿が浮かんだ。

( どこからが、未来で… どこからが、今なのかしら…… )

 水平線を見て、ふと、そんな事を思った、里美。
 顔を、ぶるぶるっ、と横に振り、エンジンを止める。
 ドアを開け、土砂降りの車外へ勢い良く、飛び出した。

「 こんにちは、吉村さん。 よく振りますね 」
 保科は、店内から、里美の車を確認していたのであろうか。
 入り口を開け、里美を迎え入れながら、言った。
「 こんにちは、保科さん。 …ひゃ~、あっという間に、濡れちゃった。 コレ、もう梅雨じゃないですよね? 」
 濡れた肩や、腕を払いながら答える、里美。
 保科は、用意していたらしいタオルを、里美に渡しながら、答えた。
「 予報では、午後からは、晴れて来ると言っていましたが… どうですかね? 雲は、途切れて来ているみたいですよ 」
「 あ、すみません… そうですか。 あたし… いつになったら、ここからの夕陽、見れるのかな 」
 受け取ったタオルで肩を拭きながら、里美は言った。
「 ははは。 そのうち、いつでも見れるようになりますよ 」
 微笑みながら答える、保科。
 里美は、いつもの奥のテーブルに座った。
「 ブルーマウンテンを… 」
 おしぼりと、水の入ったグラスを置く保科に、里美は言った。
「 かしこまりました 」
 にっこり笑って、保科は、カウンターの中へと入って行った。

 大きなガラス窓から、不安そうな灰色の海と、空が見える。
 ウッドデッキのテラスも、さすがに今日は、雨が振り込んでいるようだ。
 五線譜に音符を書き込んでいた隼人の姿が、現在のテラスの風景に、シンクロする……
( 隼人…… )
 里美は、心の中で呟いた。
 呼び捨てにしたのは、心の中でも初めてだ。

 …何だか、気恥ずかしい。

 だが、呼び捨てにした方が、彼にはしっくり来る。
( 自分としては、『 さん 』付けが似合う恋愛を、してみたかったのよね…… )
 そう… 保科のような雰囲気を持った男性と……

 だが最近、里美には、隼人と過ごす時間が、とても有意義に感じるものになって来ていた。
 ある程度、自分の心の中では、決定した方向性が確立されているような気がする。
 あとは、気構えだ。
 今日も、保科に会うのが目的ではなく、このカティ・サークで、ゆったりした時間を過ごすのが目的であった。
 …勿論、保科に会うのも、楽しみである事に、違いは無いが……

 あのマイセンと共に、保科が、里美のテーブルにやって来た。
「 お待たせ致しました 」
 香り高い、褐色のコーヒーを注ぐ、保科。

 立ち上る湯気……

「 いい香り……! この香りを楽しむ為に、ここまで来たと言っても、過言じゃないです 」
 保科は、にっこりと微笑み、言った。
「 ごゆっくり、どうぞ 」
 カウンターへ戻る、保科の背中。
 哀愁を漂わす、男の背中とは、保科のような背中を指すのかもしれない。

 誠実さと、深い愛情を秘め、人を包み込むような魅力と優しさが伝わって来る……

 里美は、そんな雰囲気に惹かれたのだろう。
 カップに視線を落とし、細く、真っ直ぐに立ち上る湯気を眺めながら、里美は呟いた。

「 ……隼人…… 」

 彼にも、優しさはある。
 保科を、尊敬もしているのだ。 同じニオイ・雰囲気を感じる。
( 若さ… かな……? カレからは、背中じゃなくて… 真正面からの魅力を感じるわ…… )
 カップを持ち、コーヒーを飲む、里美。
 今日のコーヒーは、苦味が少なく思える……

 時として、恋愛は、カタチを変える。
 自分では、理想の相手像・シチュエーション・未来……
 色々と想像し、ビジョンを構想する。
 だが、全く違う相手に恋をし、想像すらしなかった現実を歩み始める事も、
 往々にあるのだ。

 自分の考えていた未来、恋人、恋愛生活……
 言葉を悪くすれば、妄想に近い理想を想い描いていたとしても、自分の中で
 受け入れられるキャパがあれば、全く想像と違う現実でも、歩んで行ける。
 それを、自らの変化と見るか、自身の成長と見るか……
 その判断は、後の生活に、心の差となって出よう。
 どちらの受け取り方が良いのかの結論は、『 時 』が下すのだ。
 『 とりあえず 』や、『 まあ、いいか 』など、妥協してはいけない。
 恋愛は、自身に『 納得 』して受け入れないと、後々、後悔する事になる……

「 カップを、お下げします 」

 聞き慣れない声。
 当然、保科の声を予想していた里美は、顔を上げた。
 保科と同じような格好・背丈ではあるが、若い男性だ。
 アルバイトでも、雇ったのだろうか。 面影・声質は、保科に似ているような気がする。
「 …あ、はい。 有難う…… 」
 保科が、彼の傍らに立っている。
「 保科さん…… 」
 里美の戸惑いを感じたのか、微笑みながら、保科は言った。
「 私の息子です 」

 ……息子……

 道理で、面影があるはずである。
 保科のような、ヒゲこそ無いが、優しそうな目元などは、そっくりだ。
 身長も、高い保科よりも、まだ少し高い。

 彼は、里美に挨拶した。
「 洋志と申します 」
「 ひろし… さん 」
 保科を、そのまま、若くしたような顔つきである。
 里美の胸が、トクン、と鳴った。
 保科が言った。
「 東京の大学に行っておりまして… 卒業して、そのまま、あちらに就職しましてね。 5年ほど、商社に勤めておりましたが、先月、退職して戻って参りました。 店を継ぐと言っておりますが、どこまで本気なのか…… 」
 苦笑いしつつも、嬉しそうな保科。
 洋志は、里美に尋ねた。
「 お味の方は、いかがでした? 」
「 …え? 」
 保科が、言う。
「 先ほどのコーヒーは、息子が炒れたものです。 お試しするような事をして、申し訳ありません。 お客様に、いつもと変わらぬお味を、お出ししたいと思いまして…… 」
 苦味の変化は、炒れた者が違っていたからであろう。
 だが、今日の味は、満足だった。
 里美は答えた。
「 あ… 美味しかったですよ? ちょっと、苦味がマイルドだったけど、私は好きです 」
 ホッとしたような表情の、洋志。
 カップを大切そうにトレイに乗せると、言った。
「 このカップを、お使い頂く吉村様は… 特別な、お客様です。 わざわざ、こんな天気の日に、ご来店頂きましたし…… 良かった…! 心地良い苦味だけは、中々、出すのが難しいのです。 精進しますので、宜しくお願い致します 」
 キチンと一礼する、洋志。
「 …あ、こちらこそ…! 」
 イスから、少し腰を浮かせ、慌てて挨拶を返す、里美。
 保科が、追伸した。
「 今日の御代は、頂きません。 息子の味を、評価して頂いたお礼です 」
「 え… でも… 」
 戸惑う里美に、ウインクしながら、保科は言った。
「 この次からは、息子の炒れたものにも、お金を払ってやって下さい 」
「 それは… 勿論ですけど…… 」

 いつしか、外の雨は、やんでいた。