昨日会ったばかりの人間に携帯を渡して持ち逃げされたり、個人情報を盗まれたりするって思わないのかしら。
あまりにも不用心。
でもまあ、おとなしく言うことを聞く私もどうかしているけれど。


「|Thank you for waiting《おまたせしました》」
奇麗な発音で差し出された小さなカップ。

Thank you(ありがとう)

私は言われた通りホテルのラウンジでコピを注文した。
カップについた小さなスプーンで底に沈殿したミルクをゆっくりと混ぜる。
これがシンガポールのコーヒースタイル。
甘くてほろ苦くて、嫌いな味じゃない。

「私、何で逃げないんだろう」

携帯をゴミ箱に放り込めば、今すぐ逃げ出せる。
全てなかったことにできるのに、私にはできない。
優柔不断で、押しが弱くて、流されやすい都合の良い女。
だからこそ、私は今ここにいるんだろうと思う。