月が、とても綺麗な夜だ。定位置である開け放った窓辺に腰掛け、そう心の中でつぶやく。
冴え冴えとした光は少し明る過ぎるくらいで、部屋の床に僕の月影を描いていた。その影の先に、僕は目を向ける。

そこには一人の少女がいた。白色の寝間着でブランケットを肩に掛けた少女は、しかし難しい顔をして手に持った紙面を眺めている。
彼女の前の机は豪華で大きいくせに、その上には整理されることのない大量の資料が乱雑に置いてあった。
今夜は蝋燭を灯さずとも、月光が部屋を照らしてくれている。故に、彼女の灰白色の髪も、同色の瞳も、太陽の下よりむしろ美しく映えていた。思わず瞳を奪われるほどに。

「…ねぇ姫様、そろそろ休んだ方がいいと思うよ。」

月はすでに天上から傾き始めている。明日の朝は、彼女が第一王女として出席する会議が城であったはずだ。
が、流石に見かねて助言しても、彼女は一拍遅れて「ああ、うん。」と全く話を聞いていない場合の返事をしただけで、視線は机の上の新しい資料を探してさまよっていた。

そんな様子を見て、予想はしていたのだが思わず溜息を吐いた。彼女を主と決めて六年、すでに少女の性格は把握しているものの、一向に改善される気配はない。

「姫様、騎士様にまた怒られるよ。」

「うん……。」

「姫様が今見てるのって、今日僕が持ってきた辺境の貴族の問題だよね。」

「うん。」

「詳しいことは騎士様の報告待ちでしょ。だから今考えられることって限られてるよ。」

「ああ、うん……。」

「というか、僕が今まで見てきた姫様くらいの年齢の人って、肌の調子がどうとかですぐ就寝してたよ。」

「大丈夫まだ二十歳だから。」

「そういう問題じゃないよ。」

ようやく返したと思ったら、顔すら上げていない。
仕方がないのでもう少しだけ待つことにした。ここに騎士様がいたら「お前はどうしてシャリーにそんなに甘いんだ!」とまた怒られるだろう。

僕は視線を窓の外に移した。
ここは城の近くにある森の中。その中心にある古びた屋敷の一室である。屋敷を隠すように鬱蒼と生い茂る木々の合間から、わずかに城壁が見えている。

城からこちらは見えず、逆にこちらからは城の様子をある程度把握できる位置。
完全に隔絶されたような場所。しかし、彼女の目的に酷く最適な場所だった。

僕がここにいる理由は、彼女の護衛だ。
と言っても、僕と彼女で森中に張り巡らしたトラップを抜けられる者はほぼいないだろうから、実際は僕の羽休めの場である。

そして、表立って会えない僕らが唯一周囲を気にせず話せるのが、ここなのだった。


***


灰白の少女の名は、シャーロック・アリストロメリア。この国の王族直系である長女、正統な第一王女だ。
そして隠れた反逆者でもある。

初めて会ったとき、幼馴染の貴族である騎士様を伴って、身分を明かした彼女は言った。「この国に未来はない」、と。
国王の身勝手な統治、腐敗しきった本来なら政務を執り行うべき上級貴族。そんな貴族に媚を売る商人。
そんなことが長年続いた現在、国は傾きかけているのだと言う。

ーーーだから、私が変える。

その声は、凛と響いた。
光のない牢から出て、久しぶりに見た朝日の下。澱んだ湖に石が投げられて波紋と同時に透き通る青が広がったような、耳に残るソプラノは、呆然とする僕に向かって手を差し伸べた。

ーーー私に力を貸して欲しい。その、とても強い力を。

傷ひとつない、白磁のように美しい掌。
爪の先まで磨かれていることがよくわかるそれは、まさしく『お姫様』のものだ。

だが、僕を真っ直ぐに見ていた灰白の瞳は、戦いを知っている色を持っていた。
混ざっていたのは澱む怨みと、悲しみに満ちた怒り。そして、燃えるような強い意志。

僕は名の知れた暗殺者だった、らしい。僕自身は知らなかったが、その世界では有名だったのだと、のちに知った。
先天的に、華奢な体からは考えられないほどの身体能力と、類稀なる暗殺の才能を持っていた僕。
殺して、裏切って、殺して殺して、裏切られて、殺して、裏切られて、そして奴隷商に売られ、彼女に買われた。

たくさんの人を殺してきた僕に、それでもまだ殺せと、まっすぐな瞳で言うのだ。私の為に殺せ、と。

暁にぼやける薄紫の空を背景に、風に舞う灰白の髪。一房ごとに光を透かし、星屑のように輝いていたのをよく覚えている。

当時、齢十歳だった僕よりも大きい、今の十六歳の僕よりは小さい手を、僕は取ることにした。


***



「何か見えるの?」

突然少女から問いかけられて、僕は室内に顔を戻す。少し考え込んでいた。少女の密かな戦争も終わりが徐々に見え始めた現在、僕はよく、彼女との出会いを思い出す。
先ほどまで紙面と睨み合っていた彼女は、優雅な仕草で冷めた紅茶を飲んでいた。

「月が。やっと満足したの?」

質問には端的に答えて逆に問いかけると、少女は肩を竦める。

「現状では判断しかねると思った。わからないことは、わからないで今はいいよ。リチャードの報告を待とう。」

「最初からそうしろって僕は言ったんだけどね…。」

聞いてなかったのだろう。そうだっけ?と悪気のない顔で首を傾げた彼女は、ティーカップを置き僕の近くへ寄ってきた。
窓枠に手をついて、夜空に目を細めている。

「うん、今日は月の光が眩しいね。とても綺麗だ。」

楽しそうに言った彼女に、僕は短く肯定を返した。
少女が纏う灰白は月光でますます輝き、淑やかに濡れているようでもあった。

しばらく、二人で月を見ている。長い沈黙。
けれど、今宵の月下に相応しい穏やかな時間。

「ね、ゼロ。」

少女が僕を呼んだ。始まり、と言う意味で彼女によって名付けられた僕の名を。

「なに、姫様。」

「ゼロはさ、どうして私を選んだ?」

ざぁ、と風が森を撫でる音がした。その延長で、僕らにも風が当たる。掬い上げられた彼女の長い髪を目で追って、だけど少女は穏やかな瞳で月を見たままだった。

答えない沈黙をごまかしていた風が収まり、なおも言葉を発せない僕に、少女は続ける。

「私がゼロを選んだ理由は、それがあの時最善の策だと思ったからだよ。事実、君はとてもよく働いてくれている。」

いつもありがとう、と。
あくまで声は穏やかだった。

「だけど、あの日君が私を選ぶ理由はなかったはずだ。他の生き方を選ぶこともできたはずなのに、どうして君は私を選んだの?」

どうして。
そう問うて、彼女は僕に目を向けた。瞳の奥で月光が鈍く光っている。
その光から逃げ出せなくて、僕は考えた。

人を殺しすぎて手に血の感触が馴染んでいたあの頃、僕は何故、この少女を主にしたのだろうか。

もちろん、今仕えてる理由は、はっきりと言える。
僕は彼女を尊敬しているのである。

王族以外を人と思わぬ国王に育てられてもなお、失われなかった聡明さ。
反逆の固い意思。
計画の為の仕事で死なせた命に払う敬意。
自分の密かな部下の名前を、死者も含めて忘れないこと。
己に対する厳しさと、腹心である僕と騎士様ことリチャードに対する適度な甘さ。

彼女は、命の重みを知っている。
奴隷も、平民も、貴族も、王族も、犯罪者でさえ、結局は平等に人間でしかない、と言う。
ならば、平等な身分でなくても、その命は同じように価値があるのだ、と。

まだ二十歳でしかない華奢な背に有り余る期待と重圧を背負い、尚且つ凛と姿勢良く立つ姿は、酷く誇らしい。

だから、シャーロック・アリストロメリアという少女を、僕は尊敬しているのだ。

とはいえ、これは共に過ごした六年があればこその感情。彼女を主と選んだ理由ではない。

僕は目を閉じて、あの日を思い出す。
暁の薄紫、星屑の銀、まっすぐ語られた夢物語。
彼女が酷く傲慢に、だけど真摯に僕と向き合ってくれた最初の日を。

ーーーああ、そうか。

「……姫様が、綺麗だったから。」

あんなにも沈黙を保ったことが嘘のように、言葉は自然と口を継いで出た。

「……き、れい?」

「うん。僕は、あの日姫様を綺麗だと思ったんだよ。」

最初は興味を持つなと願い、また殺させるのかと恨み、少女の願いを聞いた。
国を変える。それはとても尊い願いだけど、あの日の僕には壮大すぎて実感のある話ではなかったのだ。

それより、その瞳。
色の薄い灰白色をしているくせに、激しい感情が豊かに踊っていた瞳。
そして、瞳と同じ色をしているはずなのに、祝福するように煌めいていた髪。

その正反対の灰白に僕はあの日、惹かれたのだと思う。

僕は姫様を、尊敬し、愛し、この命尽きるまで守ると決めている。
そんな僕の感情の原点は、きっと彼女を綺麗だと思った髪と瞳にあるのだ。

心の中で納得して満足すると、ふと、隣にいるはずの姫様が妙に静かなことに気づいた。
見れば、彼女は呆気に取られた顔で僕を指差している。その口は何かを言いかけて開き、音を発する前に閉じるのを繰り返している。随分と珍しい姿だった。

つい面白くて、立てた膝に頬杖をついてしばらく眺めてみる。

「……ゼロ、」

「ん?なぁに、姫様?」

「ゼロ。」

「はいはい。」

やっと僕の名前を呼んだと思えば、また黙る。けれど、急く気持ちは全くない。むしろ、ゆっくりとこの話をしたいと思った。

姫様が目を伏せて、ポツリと言う。

「……君は、私を綺麗だと思ったのか?」

その言い方はなんだか固くて、何かを警戒するような響きをしていた。
僕はすぐにその原因に思い至る。

「うん、そうだよ。でも姫様が思う方とは、ちょっと違うと思う。」

姫様の顔立ちは、彼女の父親によく似ている。すなわち、姫様の敵、この国の国王に。
髪や瞳の色は祖母からの隔世遺伝らしいが、国王と2人並び立てば親子であることは疑われない程にはよく似ていた。

そしてそんな自分の顔が嫌いなのだと、姫様は昔言っていた。

「もちろん顔立ちも綺麗だと思ったけど、それより瞳と髪の方が綺麗だったよ。意思が強くて、はっきり前を見つめていた瞳と、太陽の下できらきらしてる髪が。そう思ったから、僕は姫様の手を取ったんだ。」

そう言って、僕は落とす場所を見失ったかのように彷徨っていた姫様の手を掴む。
はっとして顔を上げた少女と目が合う。この身を捧げる主の瞳は、月の光が入り込んで泣いているようにも見えた。

「ああ、でも。」

ニッコリと笑って、姫様の手を取った方とは逆の手で、彼女の髪を一房掬う。
その流れるような自然な動作に反応が遅れたのであろうその一瞬を突いて、僕は灰白の髪に唇を寄せた。

ちゅ、と音を鳴らせば、感覚があるわけでもないのに姫様の体はビクリと震える。自然と口角がさらに上がった。

「今は月の下の灰白色の方が、濡れているようで僕は好きかな。」

灰白のたった一房を解放すれば、それはさらりと微かな音を立てて滑り落ちていった。
真っ赤に染まった顔を見て、僕は悪戯が成功したような軽い達成感を覚える。

一方、色々と言いたそうなことを我慢する様に唇を噛んだ姫様は、ドン、と窓枠に拳を叩きつけて叫んだ。

「リチャードの悪い影響受けてる!!」

「いやなんの話?」

騎士様がなんの関係があると言うのだろう。
首を傾げた僕を他所に、彼女は膝から崩れ落ちる。かろうじて窓枠にしがみ付いているような姿勢だった。

「そんな口説き方どこで覚えてきた!?教えた覚えはないんだが!?」

独り言のようにも、僕に言ってるようにも聞こえる叫びだ。穏やかだった雰囲気を壊すそれに、ええ、と僕は顔を顰める。

「口説きって…僕は思ったことを言っただけなんだけど。」

「無自覚なのか…?リチャードの影響でもなく、任務のためでもなく…?嘘だろ…?」

「だから騎士様となんの関係があるのさ…。」

「……グズッ。」

「姫様なんで泣いてるの!?」

びっくりした。すすり泣く声に顔を上げさせようと手を伸ばすが、「泣いてない…。」と手をやんわり避けられた。

「……そうか、もう六年経つのか。ゼロも大人になったんだよな。」

ふと、弱い声でそう言われた。そこには慈愛と、ほんの少しの寂寥が混じっている気がする。先程からくるくると変化する彼女に、僕は苦笑して答えた。

「何を今更。去年は僕の成人を祝ってくれたでしょ、騎士様と2人で。」

「そうなんだけどな。やっぱり実感湧くと違うよ。」

出会った頃はまだ小さかった僕の成長ーー例えば背が伸びたとか声が低くなったとかーーを、共に喜んでくれたのは姫様と騎士様だ。
この国では15歳が成人なので、去年はささやかながら暖かいお祝いを3人でしたりもした。

殺したり、傷つけたり、そんな日々の合間に優しい時間を過ごしていたから、僕は今こんなにも穏やかに話せているのだろう。

そしてきっと、姫様が作りたいのはそんな国だ。

誰もが笑って穏やかに過ごせる国。辛いこともあるだろう、苦しいことも、誰かを傷つけることもあるだろう。それでも人に優しくして、優しくされて、明日を楽しみにできるような、そんな国を。

願いは、きっともうすぐ叶う。

「…ね、私はゼロがいなければここまでやって来れなかったと思うよ。」

姫様は座り込んだまま窓の外を見ていた。ぼんやりと遠くを眺めるような目をしていた。

「そう言ってもらえるなら、僕はもっと役に立てるよ。」

「…ふふ、そっか。」

薄く笑った彼女は、何を見ているのだろう。この国の未来か、別のものか。けれどきっとそれは、姫様が笑うように幸せな世界だと良い。

僕は、そんな世界を作るために生きているのだから。そんな世界を作る、貴女のために。

「ほら、そろそろ寝たほうがいいよ。明日は会議に出るんでしょ?遅れたらまた面倒なこと全部押し付けられるよ。」

「……ん、そうだね。貴族どもの遊びに付き合ってる暇はない。」

立ち上がろうとする姫様に手を差し出す。僕の手を自然に取り背筋を伸ばした彼女は、城の方を睨みつけ、寝室の方へと漸く歩き出した。
この屋敷にいるのはかなり少ない人数なので、僕は此処で引き続き監視だ。

「じゃあ、おやすみ。ゼロ、明日の朝頼むから起こして。」

「勿論。おやすみなさい、姫様。」

朝日が昇る直前に起こす約束をして、寝室へと続く扉の奥に彼女は消えた。流石にもう眠るだろう。
閉じた扉から目を離して、僕はまた月に視線を戻した。

明日はきっと、忙しい日になる。
城で行われる会議は毎回の如く、腐敗し切った貴族が囀るだけの無駄な時間だ。そこではどうしようもないほど傾いた王国の話は行われない。自らの保身しか考えないのだから、すぐ背後に迫った崩壊を見て見ぬ振りするのが上手なのだ。

その話を適当に流しつつ、姫様は貴族の承認が必要な書類にサインを貰ってこなくてはならない。
国が存在する以上、規則には従うべきだ。それを違えたら奴らと何も変わらない。彼女はそう言って、いつも会議で立ち回っている。

出かけていた騎士様も情報を持って帰ってくるので、その整理もしなくてはならない。
騎士団の整備も、まともに動いている文官の書類に目を通して承認することも。そしてその他にも。
この国は最早、第一王女の姫様が動かしてると言っても過言ではないだろう。

明日はきっと、今日と同じく忙しい。
だからせめて夢の中では、貴女が休めていますように。

月が綺麗な夜には、幸福な夢を見るという伝説が王国にある。建国神話に月の女神の話があるからだ。

姫様にとって良い夢が見れるといい。
口に出さずにそう願って、僕はゆっくりと落ちていく月を眺めていた。
その月が白く染まるまで、飽きることなく。