ピチャン、と音を立てて肩に雫が垂れた。
閉ざしていた瞳を開け、ゆっくり顔を上げる。そこには変わり映えしない頑丈そうな鉄格子が闇に紛れてなお、鈍く立っていた。
手を伸ばそうとしてみても両手首には手枷が嵌っていて、中途半端な位置で鎖が邪魔をする。

少しだけ夢を見ていた。内容は覚えていないが、その世界は今より多少幸福だった気がする。もしくは、それもただの願望なのか。
肺に溜まった息をため息として吐き出してみるが、鬱屈とした気分は燻ったまま硬く冷たい石畳に落ちる。

この奴隷市場の牢に来てから何日、何週間経っただろう。
明るくなり暗くなる空を高い位置にある小さな隙間から見るのは遠に飽きて、惰性にうつらうつら過ごしているだけの日々。

今は夜。わずかに水の匂いがするから、小雨が降っているのだろう。
なんの明かりもない暗さと淀んだ空気は、決して心地いいものではない。少し肌寒くて、先ほどまでの眠気はどこかへ行ってしまった。

ふと、牢の中の風向きが変わったことに気づく。牢への扉が開かれたのだ。

常人より鋭敏な五感で気づいた変化を、僕は目を閉じて更に深く探る。
聴覚を研ぎ澄ませてみれば、扉があったはずの方向から誰かの話し声と足音が聞こえてきた。

大人二人、そして一つ小さな子供の足音だ。
重なるように、ランプの揺れる音、一振りの剣の金属音も聞こえる。

大人の内の一人は聞き覚えがある。ここの管理人、すなわち奴隷商人だろう。
媚びるような甲高い声で、誰かに向かって話しかけていた。

「ーー……様に、わざわざ出向いて頂けるとは、光栄にございます。」

「用があるのは俺じゃないけどな。で、価値は確かなのか?その”商品”は。」

「それは勿論にございます!常人以上の五感と並外れた身体能力、さらには美しい容姿を兼ね備えた最高傑作。まさにキリングドールと呼ぶに相応しいでしょう!」

「へぇ。そいつは楽しみだ。」

答えているのは、妙に間延びした緊張感の感じられない男性の声。しかし、彼の足音に無駄な響きは一切ない。
比較対象が多い訳ではないけど、相当な手練れなのだろうか。だとしたら、剣の持ち主は彼だろう。

そして、気になる単語があった。
"キリングドール"。

僕が以前いた場所で呼ばれていた名だ。劣悪な強制労働場の監視官から、畏怖と軽蔑を込めて。

つまり、こいつらは僕の力が目当てなのだろう。また、また僕は殺さなくてはならないのか。

寒さが、体を支配していくみたいだった。
背中を石畳の壁に預けて、膝の間に顔を埋める。

無意識に辿る声が、少しずつ近づいてきた。

「たった一ヵ月半前に仕入れた商品ですので、まだ躾が始まっていません。そこが敢えて言うのであれば、不安要素かと思いますが…。」

「まぁ、ココはそこそこ大きい店だからなぁ。手が回らなかった、ってとこか?」

「おかげ様で繁盛しております。いえ、お恥ずかしながら、かの猛獣に手を出す勇気ある者がおりませんで。」

「なるほどな。ってことだけど、どうすんだ?」

「……さほど大きな問題ではないよ。」

凛、と空気が澄んだ気がした。
澱んだ湖に石が投げられて、波紋と同時に透き通る青が広がったみたいな。
そんな無視できない響きを、小さく残るソプラノは持っていた。

耳に穏やかな少女の声が、鈴の音のように言葉を紡いでいく。

「私は、私の目的が達成できる人なら誰でもいい。その可能性が最も高いのがその殺戮人形だというなら、全力で使うだけさ。」

この国では珍しい、女が使う男口調。
対して咎める様子もない間延びした男の声は、苦笑気味に返していた。

「はいはい、程々にしておけよ。」

「……ふふ、約束はし難いな。」

「おい……。お前、何考えている?」

「さて、なんだろうね。」

楽しそうに少女の声が笑った。と、同時に三人分の足音が止まって、鉄格子の隙間から橙の光が差し込む。
頼り無いランプの揺らぎに合わせ、壁に映し出された影が揺れていた。
僕は顔を伏せ、わずかに届くランプの光から逃げる。頼むから、興味を失って欲しい。そう願った。

「こちらが、殺戮人形でございます。」

空気の切る音で、奴隷商人が僕を指差したのがわかった。
僕が顔を見せないのが不満なのか、彼は苛立たしげに鉄格子を蹴り飛ばす。

「おい!顔を上げろ!……チッ。すみません、躾がなってないものでして。」

諦めたのか、奴隷商人は舌を打つと、一瞬前とは打って変わって猫撫で声で側にいる誰かに媚を売った。
間延びした男の声が、なんでもないような、つまり興味なさげな口調で言う。

「いや、俺は良いんだが…。で、どうすんだよ。コイツがお望みの奴らしいが?」

「……ふむ、そうだね。牢を開けてくれないか?」

「……えー、っと?冗談か?笑えないが。」

「曇り一点もなく本気だ。」

「だからお前は本当にもう……。」

その先は言葉にならないようで、深い溜息が聞こえた。しかし、最終的には全ての要求を飲み込んで、男は言った。

「鍵を開けてくれ。」

「え、あの、ほ、本当によろしいので?」

「よろしくはないが、従うさ。主の命令は絶対だからな。」

たとえそれが、どんな結果を生むとしても。
そんなことを言葉尻に込めていた気がした。もっとも、気のせいなのか誰も空気を動かさなかったけれど。

しばらく男と奴隷商人がごちゃごちゃと言い合っていたが、男が「彼女に危害を加えようとしたら、ためらいなく剣を使う。その結果商品が傷ついたとしても、十分な賠償金は支払う。」と具体的な金額を提示して説得すると、奴隷商人はようやく鍵を取り出した。

ガチャン。

硬い音を立てて、牢の鍵が外れた。久方ぶりに聞いた音に、だけど特に感慨は湧かない。それよりも、興味を持たれてしまったことの方が恐ろしかった。
重ねるようにして聞こえたのは、剣の鞘を掴む音だ。約束を違えることなく、少女を守るつもりの男のもの。

(逃げる……のは無理か。鎖を千切れないだろうし、男の実力は未知数だ。)

もちろん僕とて、武器と充分な体力があれば大丈夫だっただろうが。無いものは無いのだ、仕方ない。
せめて少女に噛み付くことなく、黙っていよう。

ふ、と目の前に誰かが立つ気配がした。

「……やあ。顔を上げてくれないか?」

しとやかに、語りかけられる。澄んだ響きのソプラノは、遠慮がちに僕に聞いた。
ぎゅっと頑なに顔を膝に埋めて、僕は少女を拒絶した。何かを喚こうとする奴隷商人を、男が制した音が聞こえる。

しばらく、沈黙が場を支配した。
僕の行動を待っている少女と、無視し続ける僕、警戒している男、そして怒鳴り散らしそうな奴隷商人。
それぞれがそれぞれの意思を持って、結果動けないままでいる。

最初に沈黙を破ったのは、天井からまた落ちてきた雫だった。
ピチャン、と。
それを合図にしたかのように、少女はまた語りかけてくる。

「私は、君を買おうと思ってるんだ。」

穏やかで平坦な声は、よく通っていた。

「ここはその為の店だから、当然だけどね。君に拒否権を与えるつもりはない。でも一応聞いておこうと思って。」

僕は、沈黙を破らなかった。

次は水が跳ねる音がする前に、少女が立ち上がる気配がする。
そして、彼女の視線が僕から外れた。

「リチャード。」

「……は。」

少女が硬質な声で誰かの名を呼ぶ。命令することに慣れた響きがした。応えたのは、命令されることに慣れた響きの、剣を持つ男の声だ。

「彼にする。契約しよう。」

「承知しました。……と、いうわけだ。こいつを買い取るから準備しろ。」

交わされる言葉は少なく、けれど充分伝わったのだろう。話があっという間にまとまったことについていけなかった奴隷商人が、困惑しているのが分かる。
しかし、リチャードと呼ばれた男が低い声で再度催促すると、一目散に駆け出していった。

僕は思う。
また殺さなくてはならないのか、と。どこかひやりとした感覚が心臓を撫でる。

顔も名も分からぬ少女を、その時僕は確かに恨んでいた。
気づけば、もう雨の音はしなかった。