相変わらずカツカツと音を立てるヒールに気を使いながら病室を出ると、ちょうど向こうから一人の看護師がこちらに向かってやってくるところであった。

あかりのヒールの音などかき消すような、ガラガラという包交車の音を病棟中に響かせている。看護師はこちらに気が付くと、ぱっと花が綻ぶような笑みを見せて近寄ってきた。

「あらぁ、こんにちは里田さん」

あかりも小さく挨拶をしながら、ぺこりと頭を下げる。

西山真由美というこの看護師は、いつもあかりを見かけるとこうして声をかけてくる。ワンピースタイプのユニフォームから伸びるすらりとした手足が印象的な彼女は、最初に芳江が入院した時に担当の看護師であると挨拶されてから、芳江だけではなく孫のあかりのことも気にかけてくれているようであった。

なんでも今年の四月から看護師として働き始めた新人らしく、あかりとも年齢が近い。そんな西山に、あかりも姉のような気さくさを感じている。

「毎日里田さんが面会に来てくれるから、芳江さん、最近すごく調子が良さそうなのよ」

自慢の孫娘なんですって、と西山が笑いかける。

「自慢だなんで……でも、確かに最近、祖母は調子が良さそうなんです。西山さんのおかげです」

再びぺこりと頭を下げると、西山は切れ長の瞳を細めてはにかんだ様に微笑んだ。そして再びガラガラと包交車を押しながら、処置室の扉に手をかける。

本当はこんな風に雑談をしているほど、彼女は暇ではないのだ。

「気を付けて帰ってね。また明日……かな?」

「はい、また明日」

短く返事をしてお互い背を向けた。

あかりは再びステーションの前を通り、会釈をしながら通り過ぎる。時刻は既に日勤と夜勤が勤務交代を終えた頃合い。

病棟はいち早く残務を終えようと走り回る日勤者と、これから忙しくなる時間に向けて一つでも仕事を終わらせようとする夜勤者がいて、それぞれのスタッフが足早に動き回っていた。あの中で一体、どれほどの人間があかりの会釈に気が付いたのだろう。






そんなことをちらりと頭の片隅で考えながら、あかりは再びエレベーターホールへ足を向けた。聞き慣れたベルの音を合図にエレベーターに乗り込む。

別の患者の面会者だろうか、あかりの後ろからも一人の女性が乗りこんできた。

この病棟でも他の面会者に会うことがちらほらとあるが、ほとんどは決まったメンバーばかりでこの女性の顔は初めて見かけた気がする。

もしかしたらもう先の長くない患者がいて、会いに来たのかもしれない。そんなことを考えながら、あかりは後ろの壁へともたれかかった。



「ああっ! 間違えて上行きに乗っちゃったぁ!!」



そんな女性の高い声にはっとなって、あかりは壁から身を起こした。

明るいベージュのショートヘアをした快活そうな女性は、その綺麗に整えられた髪をくしゃくしゃとするように頭を抱えていた。

「……」

別に間違えたところで、何食わぬ顔をして途中で降りればなんの問題もないだろう。

素直に悲鳴を上げている女性の姿に、むしろそっちの方が恥ずかしいだろう、と心中で呟く。かく言うあかりも、間違えて乗ってしまった一人であるわけだが────。

「ごめんなさいね、うるさくって。ああ、もう、間違えちゃったぁ〜恥ずかしいわぁ」

「あ……いえ……別に大丈夫ですけど……」

女性はばっとあかりの方に振り向くと、一言謝ってからまた自分の世界に入りだした。まだ間違えたことにショックを受けているようだ。

赤の他人と会話する機会も希薄な時世に変わった女の人だな、とは思うものの、特段不快な感情は湧かなかった。挙動が幼いせいで実年齢は判断しかねるが、小さな子どもがいても不思議ではないくらいの歳であるとは思う。

「あーあ、結局屋上まで来ちゃったわ。あれ、あなたも何故か一緒にいるけど、途中で降りなくて良かったの?」

最上階への扉が開くと階段があり、その先のドアにくり抜かれた窓から空が見えていた。女性がきょとんとした顔をしてこちらを振り向く。そこであかりもはっとし、苦笑いを浮かべるしかなかった。

「実は、私も下行きと間違えて乗っちゃって」

女性のことをとやかく言える立場ではないな、と思い、あかりはすみませんと謝る。女性は最初不思議そうな顔をしていたが、やがてぷっと吹き出したかと思うと声を上げて大笑いしていた。

薄化粧でも生えるくりっとした目元に涙を浮かべ、身体を震わせている。

「っ……あははは!! さっすがだわぁ女子高生! あ、女子高生でもこういううっかりってあるのね!? おばさんだけじゃなくてこれってもうあるあるネタなのよね!? 良かったわぁ〜」

逆にそこまであからさまに笑われると恥ずかしさも吹っ飛ぶ。何がさすがなのか良く分からないが、女性の快活な雰囲気にあかりも口元が緩んだ。

それを見て、女性は先程までとは違うふわりとした優しい笑みを浮かべた。

「ね、せっかくだから屋上でちょっとお喋りしましょうよ」

お願い、と女性は胸の前で掌を合わせる。特別断る理由もなく、人の良さそうな笑みにつられあかりは一言肯定の返事を返した。

「よっし! ありがとー、女子高生!」

その途端、花が綻ぶように綺麗な笑みを浮かべ頬にえくぼを作ると、女性は屋上への階段を駆け上がった。





 屋上には、夏独特の閃光を孕んだ空がまだずいぶん遠くにあった────。




「うわー、西日まぶしいわー」

女性は真ん中にぽつんと置かれた塗装の剥げたベンチに腰かけた。そして目を細めながらも、橙が今まさに霞み始めた青を飲み込もうと白波を立てる空を見つめていた。

「なんだか、こうやって高いところに立つと空が近く見えるわよねー。手が届きそうって言うか?」

「そうですか? 私には、まだまだ空が遠く感じますけど……」

あかりは、今まさに思ったままのことを素直に述べる。人間はこの高さから地上に落下すれば命を落とすと言うのに、地上までの距離より空までの距離はずっとずっと遠い。


 どこかの星の重力で、空に落ちていけたら良いのに────。


西日を遮るふりをしてそっと空に手を伸ばしてみるが、あかりが掴んだのは薄汚れた地上の空気と何ら変わらなかった。

「あたしね、今日はお母さんのお見舞いに来たの。久々に会っちゃったんだけどね、もうすっかりよぼよぼでさ、こりゃ長くないわって、医者でもないあたしすら分かるくらいだわ」

女性は相変わらず空を見つめたまま、そう語りだした。

「母親って、あたしが子どもの頃はさ。背はでかいし、怒れば怖いし、でもいざって時あたしを守ってくれる、絶対的存在だったのにさぁ、今じゃこっちが色々世話焼いてやらなきゃって気分になるものなのよね。ほら、命ってよく蝋燭に例えられるじゃない? まぁ蝋燭の長さを戻すことは出来ないんだけどね、せめて風が吹いても命の灯火が消えないように、見張ってることしか出来ないんだけど。まぁ一言で言えば、もどかしい……って言うのかしら?」

「何となく分かります」

「辿り着く運命はとっくに決まっているって言うのに、それを少しでも先延ばしにしようと悪あがきするって言うか……。おかしいよね、実際には自分にはどうすることもできないのに。あ、夏の夕暮れも少し似たような気分に浸るかな?」

一日一日、季節が過ぎていく。抗えないことは分かっているのに、夕焼け空などを眺めたりして、妙に時間が過ぎ去るのを見届けようとする。青はさらに霞んでいき、もうほとんど橙に飲み込まれていた。

「……あたしねぇ、娘がいたの。その子が身体も心も成長して、いつかこうやって二人で女同士の会話するの、夢だったなぁ」

女性がより一層、独り言のように呟いた。その声は小さいのに、どこか遠くに届けるような声だった。

「亡くなったんですか……?」

「うん……そうね、残念なことだけれど。寿命、だったんだよね」

女性は笑みを絶やさない。けれどその笑みには、いくつもの感情が見えた。

「病気だったのよ。気付いた時にはもう遅くてね……痛みを薬で騙しながら死ぬのを待つしかなかった。……親より先に、逝っちゃった」

「……」

あかりは何も言えなかった。他人事ではないと思ったが、そう思ったことすら今は認めたくなかった。

「あのね、娘は言ったの。“ママと会えなくなるのは嫌”って。娘はまだ“死ぬ”って概念も分からないような年だったけれど、それでももうあたしと会えなくなるってことは分かったみたいなのよね」

生温い風が、二人の隙間を通り抜けていった。

「これはあたしなりの解釈なんだけれど、『死ぬ方は何も分からなくなるから残された方が辛い』って本当かしら? あなたはどう思う?」

「え……?」

突然難題を吹きかけられ、あかりは押し黙った。あかりはいつも残されてきた側の人間であり、残していく側の気持ちが分からなかった。

否、それを考えつくほど大人ではなかった。

「辛さなんて比べられないのよ。残していく方だってとてつもなく怖いんだなって、娘を見ていて思ったわ。だって死ぬ方からしたら、自分がどこかへ行くわけじゃないんだもの。そこに力尽きた自分をただ一人置いて、みんなが遠く手の届かないところへ行ってしまうんだもの。未来へ行ってしまうんだもの」

「未来……」

確かに女性の言うことは一理あると思った。生きている者は未来へ向かう。それはその者の意志とは関係なく、未来という『波』が襲ってきて遠い時空の先へと生者を押し流してしまうのだ。

この空のように途方もなく遠くの未来へ────。

「まぁ、あたしも自分の立場でしか意見を述べられないから、やっぱり永遠に答えの出ない議題よね」

女性はひと時も空から目を離してはいなかった。

「考えたのよ。少しでも気を紛らわすおまじない。あなたはここに来ても空が遠く感じると言ったわ。でも、これ以上近づけないのだったらそこは一番『近い』のよ。だからあたしはここに来れば、『空が近く感じる』のだと思うことにするの。故人を偲ぶのも一緒よ。遠くにいても、近づくことはできるわ」

あかりはいつの間にか灰色の地面を見つめながら唇を噛んでいた。何なんだろう、この人は。突然近づいてきて、突然難しい話をしてきて、あかりの中で疑問すら象れないうちに答えだけ無造作に投げつけてきた。本当に────。

「……意味、分からないです……」

本当に、意味が分からない。でも。

「でも……ありがとうございました……」

何となく、救われた気がした。礼と同時に顔を上げ真っ直ぐ女性を見つめたあかりに対し、女性はきょとんとした顔のあとに再びえくぼを作った。

何だかそのえくぼが、とてつもなく印象的で、何故か泣きたくなった。

「ふふふっ。なーんかしんみりさせちゃったわね。ごめんなさい。でも、あなたと話せて夢が叶ったわよ、女子高生! 今あたし、大きくなった娘と話す夢、叶っちゃったわ」

そう言って、女性は出会った時と同じように声を上げて笑っていた。そしてはっとして、左手首に付けた華奢な腕時計に目をやる。

「やっば! もうこんな時間! 楽しすぎてずいぶん長居しちゃったわ。今日はありがとうね、女子高生! 機会があったらまた話ましょ!」

女性はひょいとベンチから立ち上がると、白いパンプスの爪先をとん、と地面にノックさせたあと、軽い足取りで屋内に通じる鉄扉へ向かっていった。そして少々錆ついて重さの増している鉄扉を来た時と同じように開け、扉の向こうへと消えて行った。

「『そこが一番近い』か……」

女性の気配が完全に消えた後、あかりはベンチに座って再び正面を見た。一体自分はどこまで近づけば満足するつもりなのだろう。存在すら知らなければ、きっと近づきたい衝動に駆られることなどないのに。

「……」

あかりが芳江の面会に来ると、必ず数人は他の面会者とすれ違う。ちらりと目を向けても、彼らはあかりの存在など気付いていないかのように各々目指す病室へと向かっていく。

ああ、大切な人がいるんだな─────。

彼らを見て、単純にそんな感想を抱いた。大切な人がいて、けれどその人は病気で家に帰れない。

だから代わりに会いに来るのだ。今日の顔色はどうだろうか、食事は取れたのだろうか、困ったことがあればすぐに看護師が来てくれるのだろうか。

そんな思いで胸をいっぱいにして、家からの道のりをやってくる。大切な人がたくさんいる人は、そんな思いを一体どれほど体験しなければならないのだろう。

そして、自分を大切に想う誰かがいるとき、そんな思いを抱かせてしまうことにどれほど心苦しく感じるのだろう。

そう思えば一人は孤独だが、それ以上に誰かを失うことはない。






あかりはふと、小学校に上がった頃のことを思い出した。


『ねえ、ねえどこ行くの?』

『遠く、遠くのお空へ行くのよ』

『もう会えないの?』

『ママはお空にいるから、お空を見れば寂しくないわ』

『じゃあ、おうちのお屋根に上ったら会えるのね』

『さあ……どうかしらね? そこがお空なら、会えるんじゃないかしら?』




白い部屋で、顔すら覚えていない母とそんな言葉を交わした。それから少しして、あかりは芳江と暮らすようになった。芳江の住む一軒家の二階から屋根に上ってみたが、地上から見上げた空となんら変わらない光景がそこにあって、落胆した。



『嘘つき……』


いなくなった母に悪態をついた。


悲しくて、怖くて、辛くて、それからあかりは、母親の顔を少しずつ忘れていった。

アルバムも開かず、飾っていた遺影も祖母に頼んで片付けてもらった。

会えなくて辛い気持ちになるくらいなら、存在丸ごと忘れてしまおうと子どもながらに考えてのことだった。

それから今に至るまで、あかりは母親の写真を一度も見ていない。





「……。空、眩しいな……」

一際強い西日に、あかりは懐古をやめ眩しさに目を細めた。先程まではわずかに色を残していた青もとっくに掻き消えていた。あかりはそっとベンチから腰を上げ、フェンスの際に立った。

そっとフェンスに手をかけ地上を覗くが、あるはずの街路樹よりも隣のビルの屋上が視界を占めていた。




「そんなところから飛び降りると迷惑だろ」




突然、低い声が後ろから投げられ、あかりは考えるよりも先に身体ごと振り返った。スカートと背中に流れる髪も遅れてはためいた。

「なんだよ、そんな驚いた目で、お前自殺者じゃないのか?」

先程まであかりが座っていた塗装の剥げたベンチに、腕を組んだ青年が静かに座っていた。

あかりが立ちあがってからわずかな時間しか経っていないと感じていたが、青年が鉄扉を開ける軋んだ音すら気が付かないほど心ここにあらずだったようだ。

何より印象的なのは銃口のように暗い、それでいて黒真珠のように吸い込まれそうな艶を湛えた漆黒の瞳と髪。肌の白さが夕暮れの中でも妖しく浮かび上がっていた。

あかりは一瞬、青年の異質な雰囲気に毛押され沈黙していたが、しかし何かを勘違いされていると思い至り、全力で首を横に振って否定した。

「じ、自殺、なんて。するわけないじゃないですかっ。ただ考えごとしていただけで……」

そんな否定の言葉に、表情の読み取れなかった青年はふと笑みを洩らし、柔らかな表情でベンチの右側にずれた。

青年の意思を汲みとったあかりは、戸惑いながらも青年の左側に腰を下ろした。

「なんだ、焦ったー。なんだよ、思いつめてるみたいだったから勘違いしたわ」

第一印象と違い、青年はにかっと歯の見える、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべた。年はあかりよりも少しだけ上に見える。二十歳前後と言ったところだろうか。

「まあ、人間やめたくなることもあるけどな。お前、まだ高校生だろ。頑張って生きろや」

「だから、別に死にたいわけじゃないですってば」

妙に諭してくる青年に唇を尖らせると、あろうことか青年はあかりの頭を掴むように触れ、そして乱暴に撫でた。

それは撫でるというより、ただ髪をくしゃくしゃにするだけの行為であった。それでいて、何故か泣きたくなるような優しさが込められているような気がした。

物心ついたときから父親がいなかったあかりは、異性から触れられるという行為に思わず身体が硬直した。

「なにするんですか! あー、もう、髪ボサボサ!!」

あかりはバッグから鏡を取りだすと、指先で絡んだ髪を梳いていく。それを見た青年は、再びにかっと笑った。

「良いだろ、別に。減るもんでも戻らないもんでもないんだからさ」

青年の屈託ない笑顔につられて笑いそうになったが、羞恥心が勝りあかりの顔は顰められたままだった。

「……でもお前、死のうとしてるって言うより、どっちかって言うと死んだ人に会いたがっている、もしくは死んでいく人を追いかけたい。そんな顔してたかな」

青年のどこか核心を突くような言葉に、あかりは胸がキリ、と痛んだ気がした。無意識過ぎて自分でも辿り着けなかった願望を、青年に気づかされた気がした。

「そうかも、知れないです。私はもう一人しか身内がいないし、その人ももう長くないかもしれない」

うつむいたあかりに、青年は先程とまったく違う優しい手つきであかりの頭に手を乗せた。

「一人になるのは怖いよな。俺は誰かが面会に来るたび、辛そうな顔してて逆に気を使うけどな」

青年は、Tシャツにジャージというシンプルな格好をしている。そして足元はサンダル。季節的にあまり気にならなかったが、その言葉で入院患者なのだと確信できた。

「お前、名前は?」

「え……? 私は……あかりです。里田あかり」

唐突に尋ねられ、戸惑いながらもあかりは自身の名前を口にする。ふーん、と対して興味のなさそうな、けれどしっかり記憶したというように相槌を打ち、青年はまたにかっと笑った。

「俺は黒木悟。あかり、また病院に来るならここに来いよ。この時間なら相手できるからさ」

名前の通りの容姿と雰囲気を纏っている。あかりは素直にそう感じた。




 それが、あかりと悟との出会いだった─────。