「鴨肉のロースト、三種のフルーツソース添えでございます。ソースはラズベリー、イチジク、コンコード。中心のアスパラガスのソテーをもみの木に見立て、ソースとヨーグルトの雪でデコレーションを施したクリスマス限定メニューとなっております」

(なんか……また凄いのが出て来た……)

にこやかなギャルソンの口から淀みなく語られる料理の説明を、雛子は毎回大きな目を瞬かせながら聞き入る。

和とも洋とも付かぬ独特な内装だが、さすがの雛子にもここが超一流、そして超高級ということくらいは分かるので何だか分不相応で落ち着かない。

創作料理店なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、提供される料理も先程から見たこともない、味の想像もつかないような風変わりなメニューばかりだった。

「んっ……おいしい……!」

しかし、見た目の奇抜さとは裏腹にどれもこれも味のマッチングは最高だった。雛子は意外な食材の組み合わせに、いちいち驚いて思わず舌鼓を打つ。

(こんな素敵なお店のオーナーさんだなんて……塔山さん、凄いなぁ……)

院長と看護部長からのあからさまなプレッシャーもあり、一度きりの約束で渋々食事に応じた雛子。しかし、この店自体はとても素晴らしい。こんな機会でもなければまず敷居を跨ぐことなど叶わなかっただろう。

(しかもこんな高級なワンピースまでプレゼントされてしまった……)

雛子は自分が今身に付けているブランド物のワンピースを見下ろす。デザインはシンプルなものだが、生地は普段着ているものと比較にならないほど良質だ。

自分なりに精一杯お洒落をしてきたつもりだが、今となっては陳腐な服で来た自分が恥ずかしく思える。元の格好でここに居たのではシンデレラ宜しく、カジュアル過ぎて浮いてしまっていたことだろう。

それにしても、ハイブランドのワンピースで食事をするというのは緊張するものだ。雛子はソースを跳ねさせないよう慎重にフォークとナイフを使う。

(でもどうせなら……桜井さんと来たかったなぁ、なんて)

こんなことを考えるだなんて、自分は何て相手に対し失礼なんだろう。雛子は唐突に意識に浮上した恭平を、無理矢理思考の彼方へ追いやろうとする。

結局あの日以来、恭平とはまともに口を利いていなかった。最後に向けられた冷たい視線と突き離すような口調が思い出され、せっかくの美味しい食事に踊った心も風船のように萎んだ。

(ダメダメ。塔山さんと過ごすクリスマス、せっかくなら楽しもうって決めたんだから)

半ばやけくそではあるし塔山にかなり失礼な話だが、御曹司とのデートなんてきっとこれが最初で最後。それならば、思う存分満喫した方が良いに決まっている。

「あっ……」

「ふふっ」

ちらりと塔山を盗み見たつもりが、ばっちり目が合ってしまった。塔山は優しげな笑みを浮かべ、慣れない手つきで一生懸命料理を口へと運ぶ雛子を見つめていた。

「どう? 僕の店の料理は、雛子さんのお口に合うかな?」

それまで完全に自分の世界に浸っていた雛子は、慌てて首を縦に振る。

「は、はいっ、もちろん。とっても美味しいです! どれもこれも初めて口にするものばかりで……貴重な体験をありがとうございます!」

座ったままぺこりと頭を下げると、塔山は可笑しそうに笑った。

「貴重な体験、かぁ。そう感じて貰えたなら嬉しいよ。あと何回か回数を重ねたら、それは貴重な体験などではなく君の日常になる。そうしたらもっと、純粋に料理の味を楽しんで貰えると思うよ」

「は、はは……そうですかぁ……」

……一回の約束が、いつの間にか塔山の中で無いことになっている。

雛子は苦笑いがバレぬよう、ナフキンで口元を覆いながら相槌を打つ。

御曹司とは得てしてこういう生き物なのだろうか?

(なんて言うか……断られることなんて絶対有り得ないっていう謎理論と自信……)

もちろん塔山は、経済力にものを言わせて女を手篭めにするような最低な男ではないことくらい、この数時間過ごした雛子には分かる。

むしろ100%純粋培養の王子様気質で、全身からお育ちの良さを滲み出させている好青年だ。きっと彼のお相手をしたい女性はたくさんいるに違いない。

しかし、これからお付き合いが始まるかと言うとそれはまた別問題。雛子にとってはあまりに釣り合わない相手であり、塔山と一緒になるイメージもまるで浮かばないのだ。

(っていうか、私何回も断ってるよね……? 付き合うのはないって……)

塔山は基本的に頭の回転が早く、何ヶ国語をも操るクレバーな青年だ。しかし何故か、雛子からの『お断り』に関してだけは不思議と全く意図が通じないのである。

それどころか、彼の中では今日が二人の『結ばれる記念日』となっているのだ。

これは雛子の勘違いや思い上がりなどでは決してなく、デートの前に塔山から直々に告げられたのである。

『今夜はこのホテルのスイートルームで、朝日が昇るまで目一杯愛し合おう』と。

雛子は今思い出しただけでも小っ恥ずかしさに身の置き場がなくなるが、塔山はそんな台詞を顔色一つ変えずに口にした。彼は恐らく、雛子が思っている以上に純度の高い御曹司なのだろう。

とはいえ、これほどまでに豪華なディナーをご馳走になっておきながら、そのまま帰ることなど果たしてできるのだろうか。強かな選択肢を選びたい自分に、時間が経つごとに罪悪感が芽生える。

(せめて、朝日が昇るまで愛し合うのは避けたい……)

いったい、この後をどうやって切り抜けようか。あれこれと考えているうちに料理は次々と運ばれてきて、ついに最後のデザートまで食べ切ってしまった。

「ねぇ、雛子さん」

食後にサーブされた紅茶をなるべくゆっくりと飲んでいた雛子だったが、塔山が待ちきれないとばかりに雛子の手を取った。

「とっ、塔山さんっ……」

手を引かれ、腰を抱かれる。慣れないヒールとフカフカの床に足を取られたせいで、見事に塔山の腕の中に収まってしまった。

「そろそろ部屋に行こう。紅茶ならルームサービスでいくらでも飲めるよ」

紳士的な言葉遣いとは裏腹に、腰を抱く手には力が入っており離れることが出来ない。反対の手にはスイートルームと思しき部屋のキーが握られていた。

塔山はギャルソンに軽く挨拶をすると、会計をする事なく真っ直ぐエレベーターホールへと向かった。洒落たデザインのボタンを押すと、高層階用のエレベーターのランプが次々と点灯して上昇を始めたことを知らせる。

(まずい……どうしよう……)

正直なところ、この歳まで御曹司どころかただの一度も男性経験がない。こういう場合は身を任せるのが務めなのか、はたまた断る権利がまだあるのか皆目見当もつかない。

そもそも、まさか初日からそんな流れになるなど思いもせず、ノコノコとデートに応じた自分がやはり馬鹿だったのだろう。もしかしたらホテルのディナーに誘われたと言うだけで、大人の女性なら『そのホテルに宿泊する』という意味が篭っている事を理解するものなのかもしれない。

もちろん、『宿泊』が単に宿泊の意味ではない事くらい、さすがの雛子でも分かっているつもりだ。

やがてチン、とレトロなベルの音を響かせ、一台のエレベーターが到着を知らせる。

(もう……逃げられない……)

雛子は自分の浅はかさを呪い、覚悟を決めるかのように下を向いて目を閉じた。








「雨宮は俺の女だから、返して」









唐突に聞こえたその声は、極限の緊張状態が齎した幻だったのだろうか。




「君は……」



驚いたように相手にそう問いかける塔山の声は、それが幻などではないことを雛子に知らしめていた。

「さ……」

声の主を捉えようと顔を上げた時には、雛子の身体は既にエレベーター内へと乱暴に引きずり込まれた後だった。


「桜井、さん……?」


覆い被さるように雛子を抱き締める恭平。病院とは違う洒落た暖色の照明が、彼の無表情をじんわりと照らしていた。


「……それじゃあ、御曹司さん」



恭平はそれだけ言うと、一階と『閉』のボタンを押した。エレベーターのドアが閉ざされる瞬間、我に返った塔山が焦った顔で追いかけようとするのが一瞬見えた。