「池野幸子ちゃん、ご入院ですってよ」

リーダーの大沢が電子カルテの画面を眺めつつそう告げる。心ここに在らずでステーションに戻った雛子は、一瞬の間を開けて我に返った。

「あ、はいっ……私、入院取ります」

「んーよろしく」

挙手する雛子に、大沢は印刷した指示書を手渡す。

「今回点滴入れるみたいだから、下で佐々木先生にオーダー入力するよう言っといてくれる?」

「分かりました」

ベッド周りの準備をしてカルテを軽く読むと、雛子は外来まで幸子を迎えに行く。


「……真理亜さん、お疲れ様です」


本日外来のリリーフをしている真理亜に声を掛ける。

作り笑顔は、ぎこちなかったかもしれない。

幸子の点滴挿入介助をし終えた真理亜が、相変わらず忙しさすら感じさせないような綺麗な笑みを浮かべた。

「お疲れ様、雛子ちゃん」

彼女の笑顔は完璧で、慈しみ深くて、見る者を一瞬で癒すような魔法のエネルギーがある、と雛子は常々感じている。

「っ……」

平素ならば雛子も癒されていたであろう笑みに、今は底知れぬ恐怖すら感じた。

「……大丈夫? どうかした?」

「いえっ、何でも……」

「……そう?」

嘘をつくのが下手な雛子である。真理亜は何かしら感じた様子だが、特に深く探られることは無かった。

「さっちゃんなんだけれど、今回は熱もあって脱水傾向ね。念の為補液で数日様子見するそうよ」

一通りの検査が既に済んでいるのを確認し、雛子は小児科医の佐々木に点滴オーダーを入れるよう声掛けをしてから幸子の所へ向かう。

「……さっちゃん、お待たせ。上に上がろうか?」

今は仕事に集中しよう。

そう思い、大人用の車椅子にちょこんと大人しく座っている幸子に声を掛ける。相変わらず幸子は真理亜の事が気になるようで、忙しく外来ブースを行き来する彼女を目で追っていた。

「……雛子、もうちょっと待て。これから真理亜お姉ちゃんが別の患者の採血をする。サチはそれが見たい」

幸子はぞんざいな態度で雛子に命令する。最初の頃はただ人見知りなだけかと思っていたが、その実どうやら上下関係をジャッジされていたらしい。

関わる中でマウントを取られた雛子は、今や呼び捨てで子分のように扱われている。

「いやいや、駄目だよさっちゃん。今病棟も外来も忙しいから……」

大人びた幸子の物言いに、こちらもつい大人の事情を押し付ける。幸子はじっとりとした目で雛子を見上げた。

「……雛子、お前は何も分かっていない」

唐突に機嫌を損ねた幸子に、雛子はしまったと思うも時すでに遅し。

こうなったら強硬手段で連れて行く。

「はい、もうおしまいだよ! 病棟行くからね〜」

「なっ……こら雛子!」

不服そうな声を上げた幸子だったが、雛子が車椅子を押して外来を出てしまったため為す術なく背もたれに身体を預ける。

へそを曲げると言葉数も少なくなりコミニュケーションが取りにくくなる幸子。少し強引過ぎたかと反省するも、後の祭りだ。

(そういえば……)

幸子は入院中、常に真理亜の事を目で追っている。

今まではそれほど気にしていなかったが、改めて考えると何故そこまで彼女に執着するのだろうか。

雛子の中で疑問が湧く。

「……ねぇ、何でさっちゃんはそんなに真理亜さんのことが好きなの?」

「……」

やはり、不機嫌な幸子から答えはない。仕方ないかと思いつつ雛子も黙って車椅子を押す。



「……そんなだから」



しかし雛子の予想とは裏腹に、頬をむくれさせながらも幸子は小さな声で呟いた。


「そんなだから……してやられるんだ、雛子」


「え、なに……?」

雛子は何の脈絡もなく呟かれた幸子の言葉の意味が分からず、後ろから彼女の顔を覗き込んだ。

「雛子、お前……」

ぶっきらぼうな様子は変わらず、けれど少しだけ決心したような声音で、幸子は告げた。



「……真理亜お姉ちゃんに嵌められている。気を付けろ」



唐突に告げられたその言葉に、ぞわりと鳥肌が立った。



「えっ……?」



一瞬、車椅子を押す手が止まる。



『気を付けた方が良いわよ。あの女は危ない』



舞の言葉が蘇る。



「夏頃にもあったはずだ。雛子が忙しそうにしていて……体調も悪そうだった時だ」



真っ直ぐこちらを見つめるその瞳が、嘘をついているようには思えなかった。





「……またまたぁ、さっちゃんってば人聞きの悪いことを」


幸子の言葉に、雛子は答えに詰まり思わずへらりと笑った。

聞きたくない。その思いが、自然と雛子を早足にさせる。

「……そんなことして、真理亜さんにメリットなんて何も無いよ?」

信頼を寄せる真理亜に対し、これ以上自分の中で不信感が芽生えることが恐ろしかった。

先刻舞から言われた忠告が、じわりと雛子の胸の奥を焼く。


幸子の言うことには心当たりがあった。


インシデントが立て続いて、しまいには勤務後に倒れて恭平に大迷惑をかけた時。言われてみれば、あの時の勤務は真理亜と一緒だった。

雛子のミスを発見し、対処してくれたのは彼女だ。

(あの時は何の疑問にも思わなかったけど……)

もし、インシデントのうちどれか一つでも、真理亜のせいだったとしたら─────。

あの日も真理亜を追い掛けていた幸子は、何か見たのだろうか。


(……そんなわけないじゃない)



何を考えているんだろう。



こんな風に余計な事ばかり考え事をしているから些細なミスを犯すのだ。それを心優しい真理亜のせいにするなんて。

(……有り得ない)


自己嫌悪に陥る。






「……前にも同じようなことがあったんだ」

気の所為だと思い込みたい雛子に構わず、幸子は続ける。

やがて病室に着くと幸子は慣れた手つきで持ち物の荷解きをしながら、独り言のようにそう口にした。

「同じような、こと……?」

雛子は荷解きを手伝いながら、幸子の言葉を聞く。

幸子は小さな声で語り始めた。

「三年前、まだサチが二歳の頃だ」

幸子は真剣な瞳で雛子を見つめた。

「恭平のことを好きな新人看護師がいたんだ。恭平達は二年目だったから、その看護師と仲が良くてすごく可愛がっていた」

幸子は続ける。大人びた口調や語彙選びは、まるで五歳とは思えず話に信憑性を持たせた。

「たぶん、真理亜お姉ちゃんはその看護師が気に食わなかった。だから辞めさせようとした。まだすごく小さかったから、サチには分からないと思ったんだろう。サチが入院すると、真理亜お姉ちゃんがサチの点滴を触るんだ」

「触る……?」

幸子はコクリと頷く。

「何をされていたかは分からない。でも真理亜お姉ちゃんが来たあと必ず、点滴が漏れて手が腫れるんだ。その看護師は今の雛子みたいにサチの事をよく担当していた。だから毎回その事で怒られていて、そのうちサチの担当をしなくなった。そしたら真理亜お姉ちゃんも、サチのところには来なくなった。その看護師はいつの間にか見かけなくなった」

それ以来幸子は、真理亜に不信感を抱き常に様子を伺っていた。

「五歳のサチが二歳の頃のことを言ってもきっと誰も信じない。それにその時以来、サチが見ている限り真理亜お姉ちゃんがおかしなことをしている様子もない。だから誰にも言わなかった。……雛子が、来るまでは」

「私が来るまで……」

幸子は気の強そうな顔をくしゃりと歪めた。苦しそうに吐き出されるその言葉に、雛子はただ耳を傾けるしか出来ない。

「様子がおかしいと思ったきっかけは、雛子が初めて受け持ちをした日のことだ」

幸子は続ける。

「朝早く電子カルテを乗せたワゴンの音で目が覚めて……サチはいつもみたいに、夜勤をしていた真理亜お姉ちゃんのあとをこっそり着いて行った。お姉ちゃんが向かったのは、一番奥の大部屋の、廊下側の患者のところだった」

「それって……」

雛子は心当たりがあった。初めて受け持ちをしたあの日。

「小林さん……?」

雛子が元々受け持つ予定になっていた患者だった。

「真理亜お姉ちゃんは、その人の点滴をすごく速くした。一気に落として、その後しばらくすると元に戻した。それから、机に置いてあったその人の薬を白衣のポケットに入れた」

「朝の薬を飲ませなかったってことっ……?」

あの日、小林は日勤帯で不整脈を起こし、ICUに運ばれた。元々心不全があったところに点滴で負荷をかけられ、更に内服をしなかったとなれば急変したとしてもおかしくない。

恭平が受け持ちを交代してくれなければ、雛子が対応することになっていた。

「何で今になってそんな事をしたんだろうって思ってた。でもステーションにある受け持ちの割り振りを見て分かった。狙いは雛子だって」

幸子は語気強く言い切る。

「でもその日の受け持ちは変更になった。それに普段は恭平が雛子の仕事ぶりをチェックしてる。真理亜お姉ちゃんもたぶんそれを警戒していた。だから隙を狙った。それがあの夏の日だ」

「そんな……」

すらすらと淀みなく話して聞かせる幸子。だが雛子は未だ信じられない気持ちが強かった。

「まずお姉ちゃんは、一号室にいた寝たきりの人の点滴に触っていた。二歳のサチにした時と同じように」

「っ……」

点滴漏れが起こったのは、一号室に入院していた難病の吉澤だった。

「その後しばらくして、お姉ちゃんは雛子を連れて患者のところに戻った。それで点滴が刺し直しになった」

あの日の事が思い出される。幸子の証言は、現実と乖離するどころか全て雛子の記憶の通りだった。

「そして雛子が点滴を入れて部屋を出るとすぐ、真理亜お姉ちゃんが戻ってきて点滴の速さを上げた。そのままお姉ちゃんは処置室に行って、雛子が採血するのを手伝ってた」

「そんな……」

雛子はくらくらと目眩がした。幸子の言う事がとても子どもの戯言とは思えない。それは全てを見た者にしか証言できない内容に思えた。

「ありがとうさっちゃん……もう……分かった……」

もう聞きたくない。嘘だと思いたい。頭がパンクしそうだった。

「雛子、サチは嘘なんか」

「分かってる……」

幸子は嘘をついていない。だからこそ、受け入れたくない事実が目の前に突きつけられ、どうしていいか分からなくなった。

「話してくれてありがとう、さっちゃん……この事は……」

「うん、誰にも言わない」

およそ五歳とは思えぬ物分りの良さで、幸子は頷いて見せた。






幸子の病室を出る。ステーション裏の人気のない場所まで行くと、雛子は耐えきれずしゃがみ込んだ。

「うっ……」

目の前がぐるぐると回り、物凄く気分が悪い。

吐き気がする。息が詰まる。

突如襲った不安感を抑え込もうと、雛子は震える手で白衣のポケットから取り出した頓用薬を内服する。

「はぁっ……落ち、着いて……お願いっ……」


考えるな。


考えるな。


考えるな。



「考えちゃ、ダメっ……」



残酷な真実など、もうたくさんだ。







「どうしましたか?」







唐突に間近でかけられた声に、雛子はふと我に返った。

「あっ……」

雛子と同じように、片膝をついて傍らにしゃがみ込む白衣の男性。

「鷹峯、せんせっ……」

咄嗟に手を出して、鷹峯の胸に縋った。微かに消毒用アルコールの匂いがする。

いつも通りの飄々とした笑みを浮かべている彼はその実、五感全てを駆使して雛子の身体に何が起きているか探ろうとしているように見えた。平静を装いたくて、雛子は金魚のように口を開閉した。

「せんせ、私は」

「大丈夫ですよ、落ち着いて深呼吸」

ゆっくりと背中を擦られると、不思議と高ぶっていた感情が凪いでいった。


「落ち着きましたか?」


繰り返し深く息を吐くごとに、吐き気を催すほどの胸のざわつきは消えていく。


「すみません……大丈夫です……」


素面になると途端に恥ずかしくなって、雛子は顔を隠すように立ち上がった。


「何か悩みがあるのなら私が聞きましょうか」


「っ……」



見抜かれている。



「いえ、大丈夫、です」


いっその事話してしまおうか。


「そうですか。では、私はこれで」


鷹峯はあっさりと引き下がり、雛子に背を向ける。


(あれ、そういえば……)


そういえば、鷹峯は何故真理亜の事を毛嫌いしているのだろう。



『なぁんか前々から嫌われてるのよねぇ』



真理亜は心当たりがないような口ぶりだった。しかし、もしも本当に彼女が鷹峯の患者に手を出していたとしたら。

それに鷹峯が気付いていたとしたら。



どう思うだろうか。




「あのっ、鷹峯先生! やっぱりご相談したいことが……」



くるりと振り返ったその顔は、酷く愉しそうに口角を釣りあげていた。

しかし細められた瞳は、まるで獲物を狙う蛇のような鋭い光を放つ。



「はい、ではまた今夜」