「柑奈が・・・目を覚ます」
 風呂から上がり、パジャマに着替えて寝室に入った結衣は、小学生のころから使用している学習机を前に、ぽつりと呟いていた。
 つい先ほどまで起きたことが目まぐるし過ぎて、記憶が曖昧になる。七瀬への報告。脳神経外科の診察。呼び出された杏子。その杏子の許可を得て、共に医師の説明を受けた結衣。その結論は、柑奈が外からの刺激に反応ーーさらに言えば結衣が語っていた百メートル競技に関する話をしたときのみ反応を示すというものだった。医師は後日、別の検査を行い、さらに詳しく調べると言った。だが、反応を見せたことが何よりも大きな前進となり、目を覚ます可能性があると聞かされたのだった。
「また・・・一緒に走れる・・・」
 学習机の上には、くしゃくしゃになった一枚の紙。鞄に適当に突っ込んでおいた入部届だ。丸めたそれを広げ、手のひらで伸ばす。そして、ボールペンを手に取ったところで、結衣はその手を止めた。
 柑奈が目覚めるかもしれない。それなら、また一緒に走れるかもしれない。負けられない。それにそのとき、柑奈の居場所を用意しておかなければならない。だから、そのためには、もう一度、陸上部にーー。

 翌日。登校して教室に向かっていると、廊下の窓側に水城が立っていた。高めの身長に、すっとまっすぐに伸びた背筋。絵になっている。表情だって凛々しい。膝下の黒いソックスに、膝上のスカート。膝小僧から足首にかけて、実にいい脚をしている。綺麗とか細いとかではなく、むしろ逞しいと結衣は思った。廊下を歩く他の女生徒よりも明らかに太い。しかしその太さは、陸上部に相応しい、正しく鍛えられた脚だ。自分の脚も、どちらかといえば水城に近い。
「なに?」
 ちょうどいい。こちらから出向くことに気まずさを感じていた結衣は、水城の前に立った。
「あの・・・」
 水城が顔を伏せ、視線を左や右へと彷徨わせる。結衣は口を挟まず、ただ待っていた。やおら、水城が顔を上げ、意を決したように口を開いた。
「昨日は・・・ごめん」
 そう言って、小さく頭を下げた。
「あなたと立花コーチとの関係に対しては、無神経だった。でもーー」
 水城が顔を上げ、結衣と視線を合わせる。
「それでも私は、あなたと走りたい」
 じっと見続ける水城に、結衣も逸らさず見つめ続ける。どうして、こうまでして自分に構うのか。そこには、結衣の知らない、しかし水城は知っていることがあるから。それを、結衣は思い出せない。だけど、水城は教えてくれない。どれだけ考えても考えても、自分のこれまでの人生で水城という存在が思い浮かんでこないのだ。
「私とあなたは、本当に知り合いなの?」
「・・・うん。私は、あなたを知ってる。ずっと、追いかけて追いかけて、ようやく追いついた」
 水城がぎゅっと握りしめた拳を胸に当てる。
「やっと、追いついた・・・。ずっと背中を見てきた。でも、それじゃ駄目なんだって思った。並びたい。そして、いつか追い抜いて、誰よりも前へって、思うようになった」
 体力測定での水城の走り。そして、いま目の前に見える水城の鍛えられた体。
「たしかに・・・あなたの走りは認める。正直、速かった。何よりも、悔しかった」
 その言葉に、水城が目を見開く。
「でも、本気を出したら、私の方が速い。あんたなんて、目じゃない」
 まるで威嚇するように、水城を睨み付ける。
「だからーー」
 結衣はスカートのポケットに手を突っ込み、それを握りしめ、
「次は負けない!」
 ポケットから取り出したそれを、水城に突き付けた。
「これ・・・」
 水城の目の前に突き付けたそれは、入部届だった。ゆっくりと両手でそれを受け取り、嬉しそうに表情を花開かせる水城に、
「私の前を走っていいのは、柑奈だけだから」
 そう言ったところで予鈴が鳴り、結衣は早々に踵を返し、教室に向かった。
 その振り返りざまに見えた水城の表情は、どうしようもなく悲しげで、まるで見捨てられた子どものように、今にも泣いてしまいそうだった。

 昼休みになり、結衣はいつもの場所にいた。
人気のない実習棟の裏にある花壇を前に、校舎の壁を背にする形で設置されているベンチに腰を下ろし、太股の上に弁当を乗せる。両手を合わせ、「いただきます」をしようとしたところで視界の端に人影を捉えた。校舎の角を見やると、そこにいたのは水城だった。弁当箱を手に持ったまま、こっちを観察するようにして立っている。目が合うと、見せつけるようにしかめ面をしてみせたが、それでも彼女は引かず、むしろ寄ってきた。
「隣・・・いい?」
「そこは柑奈の席よ」
「・・・じゃ、じゃあ、そっちなら・・・?」
 水城が指さしたのは、ベンチのすぐ横にある校舎に繋がる勝手口ドアだった。そのドアの足下には一段だけコンクリートのブロックが置かれており、階段となっているのだ。つまり、結衣の右隣のベンチではなく、左隣のいわゆる地べたに座りたいと言う。
「好きにすれば」
 そう言って、弁当箱を開け、食事を始める。その横で、水城がコンクリートの上に座り、弁当箱を広げた。
「あっ」
 と結衣は思わず声を上げてしまった。なぜなら、弁当の中身がほぼ一緒だったからだ。結衣の視線に気づいたのか、水城が腰を上げて結衣の弁当箱の中を見やる。
「一緒だ」
 水城がくすりと笑う。弁当箱の中身は、ササミや卵、チーズを使った料理ーーつまり、たんぱく質を中心とした食事だった。米など不要。メインは肉だ。
 味わいながら咀嚼してた結衣は、それを呑み込み、言った。
「アスリートたるもの、食事にこそ気を使うこと」
「それ、立花コーチも言ってた」
 そう言って、一口サイズのササミを口に運ぶ水城。
「立花コーチは、あっちの高校の陸上部の顧問だった」
 話しぶりから気づいていた。それに応えるように結衣もまた、自分の師のことを呟く。
「私に走りを教えてくれたのは、柑奈のお父さんだった」
「だから・・・走り方がほとんど一緒だった」
「そうね」
「あんたが転校した理由が、杏子さんを追っかけてきたっていうならよかったのに」
 そう言う結衣に、水城が意味深に微笑む。
「残念だけど、私の型は完成してる。すべて立花コーチによって作られた内容を元に生きている。だから、あとはそれに対して忠実にこなす胆力が必要なだけ」
 それはそれで凄いことだ。練習というものは、それを日常となるまでに昇華させることで、意味をなす。たった一日、一週間では、何も身につかない。生活や食事を変えた場合、体に変化が現れるのに何ヶ月もかかる。その間、自分がやっていることに対する不安、正しさ、間違ってはいないか、そんな気持ちと戦いながら過ごし、そして変化を感じた瞬間、それは喜びとなり、糧となる。
 たかが高校生、たかが部活。そう言われれば、それまでなのだ。だが、自分たちはたかが高校生だが、今この瞬間、高校生なのだ。その今を精一杯に生きることの何が悪い。
 将来を見据えるなど言語道断。それはまったく意味のないことで、そんなことを言えば、部活など必要ない。むしろ、こうして部活をすることで、将来の可能性が広がるのだ。
 水城真菜という存在ーーその生き方は、あまりに眩しい。どこまでも愚直で、真摯で、だからこそ速い。
「あとは、あなたと最高の舞台で走るだけ」
「・・・あっ、そう」
 水城の宣言に、ぶっきらぼうに返す結衣。そうして、初めての二人の昼飯は終わった。

 放課後になり、教室を出ると、廊下で水城が待っていた。
「じゃあ、行こっか」
 微笑む水城に、結衣は反射的に顔を歪ませてしまった。
「なんで待ってるのよ」
「別に、逃げるんじゃないかなとか、疑ってるわけじゃないから」
「これでもかってくらい疑ってるじゃん」
「だ、だって・・・」
「ほら、行くよ」
 踵を返し、廊下を歩く。その後ろから付いてくる足音が、どこか弾んでいるよう聞こえた。

もう二度とここに来ることはないと思っていた。
 柑奈は目覚めると信じていながら、結衣は陸上部を去ったのだ。柑奈のいない陸上部に意味はなく、競う相手もいない。誰も、結衣には届かない。結衣が欲しているのは、ただ一位になることではない。肩を並べる相手だ。競い合えるライバルたる存在がいなければ、結衣は走ることに意味を見いだせなかった。タイムなんでどうでもいい。ただ、同じレベルの強者と戦いたいのだ。だから陸上部に戻ってきた。柑奈が目覚めたとき、居場所をつくっておくため。そして、水城真菜という存在に勝つために。
 結衣が三年になってから、陸上部に特別顧問として立花杏子が就任していた。
 結衣は、杏子からの紹介で部員たちに挨拶をした。まばらな拍手の中、水城だけがパチパチとうるさいほどに手を叩いていた。少し、いやかなり恥ずかしい。
 杏子の指示で、部員たちがストレッチを始める。結衣はそれを無視し、杏子へと歩み寄った。
「杏子さん。私を、今よりも速くできますか?」
 その言いように驚いたのは、杏子ではなく、後ろにいた水城だった。
「ちょっと・・・」
 肩に手を置く水城を無視し、杏子を見据える。
「できるかできないかと言われれば、できるわ。でも、なれるかどうかは、あなた次第よ」
 つまり、柑奈の父親である一功から教え込まれた内容にはない杏子のノウハウを学べば確実に速くなれる。だが、それを杏子は結衣次第だと言った。
 それならば、速くなってやろうではないか。結衣が挑むような視線を杏子へと向けると、杏子もまた、今までずっと見てきた母親としての顔から、元オリンピック走者としての顔つきで結衣を見据えるのだった。
 柑奈の両親は共に、百メートル競走における元オリンピック走者だった。つまり、柑奈は百メートル走者になるべくしてなったサラブレッドだったのだ。

 早朝の自主練を学校での朝練にするため、起きて早々に登校の準備を進めた。
「いってきます」
「いってらっしゃい。車に気をつけてね」
 母親に見送られ、家を出る。日に日に、少しずつ暑くなっている気がする。早く衣替えの季節にならないものかと空を仰ぎながら、結衣はクロスバイクに跨がって春江高校を目指した。早朝の朝練は自由だ。顧問の付き添いもいらない。陸上部の場合、朝練は基本ない。するとしても自主練だが、そこまでする部員はいない。いるとすれば結衣ーー
「おはよう」
「・・・おはよ」
 ーーだけでなく、昇降口の階段で座って待っていた水城くらいのようだ。
「なんで、あんたがいるのよ」
 クロスバイクを駐輪場にとめ、昇降口に向かうと、水城が待ってましたとばかりに立ち上がった。
「朝練、付き合う」
「ひとりでいいわよ」
 そう言って、階段をのぼって水城を横切る。
「じゃあ、私も勝手に朝練する」
 背中にかけられた声に、少しぶっきらぼうすぎたかと結衣は思ってしまった。いつの間にか、少しだけ水城に対して警戒心を弱めてしまっている自分がいた。

 杏子から、柑奈の検査を行う日を聞いた結衣は、日曜日の指定された時間に病院へ赴いた。杏子には立ち会ってもいいと許可をもらっていた。
「吉田さん、今日は来てくれてありがとう」
 杏子が結衣の隣に座る。
「いえ、こちらこそ・・・許可していただいて、ありがとうございます」
「本来ならご家族のみなのですが、本人が許可しているので、特別ですよ」
「はい」
 そう言ってきたのは、脳外科医の武本だった。
「ですが、吉田さんは今日まで一日たりとも欠かさず立花柑奈さんのお見舞いに来ている。それに、吉田さんがいたから、足の反応にも気づけた。そんな功労者のあなたを、部外者だと言うには、あまりに冷たい」
 武本が、視線を柑奈の方へ向けつつ続ける。
「私は、病気や怪我といったものは、心で治すものだと思っています」
「心、ですか?」
 結衣は思わず聞き返していた。それは、医師が口にするにはあまりに意外な言葉だったから。
「アスリートが怪我をしたとき、よく『驚異的な回復力』とか言われますが、これは本人の一日でも早く復帰したいという意志によるものなのです。その心に体が作用し、回復力を高める。私はそう考えています」
「それと、許可したことにどういった繋がりが・・・」
「私は、柑奈さんにとっての回復力を上げる作用が、吉田さんーーあなたにあると思っています。だから、こうして柑奈さんは目覚めに向かっているのではないか、とね」
 そう言って、武本はほんのわずか笑みを作って見せた。
「だから、傍にいて、見届けてあげてください」
「は、はい。ありがとうございます」
 結衣は頭を下げた。嬉しさが胸に沁み込み、鼓動が高まる。
「では、始める前にまず・・・」
 武本が説明を始める。柑奈が反応を見せたことによる、現状の把握。そして、今から行うテスト。武本の指示に従い、結衣はテストに協力した。柑奈が反応したときの同じ状況を再現し、足が実際に動くのを武本が確認する。
「これを見てください」
 武本がモニターを結衣と杏子へと向ける。そこに映っていたのは、脳の断面図だった。脳の色は水色だ。
「これは、話しかける前の状態です。脳のどこにも反応が見られません」
 そして、と武本がキーボードのエンターキーを押す。すると、脳の左側に変化があった。所々が赤くなっていた。
「これは、反応の強さを表しています。脳の赤くなっている部分が反応しているんです」
 それから武本が何度かエンターキーを押すと、赤い箇所が増えた。
「これは吉田さんの言葉に対しての反応、そしてこれは記憶に関する反応」
 赤くなった箇所を指さしながら、武本が説明していく。
「柑奈さんは間違いなく、吉田さんの言葉を認識しています」
「じゃあ、柑奈は・・・」
 杏子が思わず立ち上がる。その気持ちが、結衣には痛いほど分かる。
「ええ、ですが結論を焦らないでください。また次の機会に違うテストをします」
「はい」
「それで、次の予定日ですがーー」
 武本と杏子が話し合っている間、結衣は柑奈の横顔を見つめていた。柑奈が目を覚ます。ほんのわずかでもその兆しを見ることができたことに、結衣は嬉しくて仕方がなかった。