「柑奈! 柑奈!」
叫ぶ自分の声。何度も呼びかける。だけど、返事はない。
「柑奈! 柑奈!」
ただ事ではないという状況がまわりに伝播し、慌ただしくなる。駆けつけた医療スタッフに離れるように言われ、後ろに下がらされた。ただ立っていることしかできない自分。目の前で起きた出来事が受け入れられず、ただ立ち尽くす。
次第に救急車のサイレンが近づき、そのまま競技場内に入ってくる。医療スタッフが救急隊員に状況と状態を説明し、引き継ぎを行っている。そして、運ばれてきたストレッチャーに乗せられる柑奈を、ただ見ていることしかできなかった自分。救急車に収容され、サイレンを鳴らすと共に車が発進し、遠ざかっていく。
喧騒から静寂。遠く、遠く、そして余韻の残して消えていくサイレン。気がつくと、まわりがざわついていた。他の選手やスタッフたちが、一同に同じ方へと顔を向けている。それに釣られるようにして、自分も体を振り向かせた。そこにあったのは、電光掲示板に表示された一着のタイムだった。
一着ーーつまり、柑奈のタイムだ。そのタイム表示に、周囲がざわついていたのだ。知っている者にとっては、思わず声を上げるだろう。結衣も思わず目を見開いた。
ーー11.40
それは、高校生女子百メートルの新記録だった。だが、その記録を樹立した本人は、ここにはいない。新記録を叩き出した本人のいないなか、そのタイムを表示し続ける電光掲示板が、どこか虚しく見えた。
ケータイのアラーム音に、目が覚める。正確には、見ていた夢のせいで直前に起きていた。その余韻で起きるに起きられず、そのままぼーっとしていたところでケータイのバイブ音が鳴り、ようやく意識がはっきりしてきたのだ。二つ折りのケータイを開いてアラームを止めると、月日と時間が表示される。四月八日、午前五時三十分。ケータイをパチンと閉じる。
ベッドの上で上体を起こし、ん~と伸びをする。寝ている間は右手首にはめているシュシュで髪をポニーテールにまとめる。右手側にある出窓のカーテンを開けると、夜明け直前だった。
家のすぐ近くを流れる九頭竜川の河川敷で、日の出を迎えた太陽の光を全身で浴びるように両腕を広げる。結衣が立っている場所は、橋と橋との約一キロメートル間が車の進入禁止区間とされているため、地元の散歩コースになっている。河川公園ーーといっても芝生が広がっているだけーーに着いた結衣は、芝生の上でストレッチを始めた。眠っている間に固くなった筋肉と関節を戻し、一日の始まりを柔軟に過ごせるようにする。ストレッチを終えるころには、体もほどよく温まり、体と心が共に目覚めていた。
(On your marks)
意識を切り替えると、頭の中で『位置について』と声が響いた。本番と同じように、それに従い数歩進み、しゃがみ込む。スターティングブロックがあることを想像し、両手を芝生の上にのせる。
(Set)
用意ーードンッ! 芝生を蹴り、スタートする。スタートダッシュからすぐに速度を緩め、そのまま駆け足でUターン、所定の位置に戻る。そうして、再び頭の中で(On your marks)から(Set)、そしてスタートダッシュを繰り返す。イメージトレーニングとスタートダッシュの練習。感触を確かめ、好調であることを体感させる。
そうして決めた本数をこなすと、土手を上がった。最後に一本。土手の舗装された道を百メートル、本気で走る。視線の先に、散歩をしている人もいない。
(On your marks)から(Set)、そしてーーパァァァン!
頭の中でピストルの電子音が鳴ると同時にスタートした。たった一人の百メートル走。
その隣に、まるで幻影のように透けた姿をした背中が見えた。全力で走るが、その背中には追いつけず、むしろ離されていく。堤防から斜めに生える桜の木が織りなす桃色のアーチを走り抜ける。そうして百メートル地点で胸を突き出すようにしてゴールした。すぐには止まらず、駆け足から歩き、そしてようやく足を止める。
「はぁ・・・はぁ・・・」
呼吸を整えながら振り返るも、そこに幻影はいない。百メートル走を想定して走る時にだけ現れる、幻影。いつも自分よりも前を走るため、顔は見えない。だけど、それが誰なのかは分かる。黒地のシュシュでまとめられたローポニーテール。幻影の正体は、結衣の親友である立花柑奈だ。そして、その幻影が走る速さは、あの二年前に柑奈が叩き出したレコードタイムと同じ。今日も勝てなかった。そもそも勝てるはずがない。この幻影に勝つということは、レコードタイムを更新するということ。つまり、11.40の壁を越えるということなのだから。
「はぁ・・・」
手を腰に当て、空を仰ぐ。突っ張った喉から出る溜息が、青くなっていく空にとけていった。
結衣が通う福井県立春江高校は、始業式を迎えていた。あれから二年。結衣は最上級生である三年生になった。春江高校は男女共学で、進学コースと専門コースに分かれている。結衣は、進学コースを選んでいた。
この高校を選んだ強い理由というものはなく、単に柑奈と同じ高校に行きたかったからだ。柑奈もそれを望んでくれていた。同じ高校に進学するその理由。勿論、一緒にいたいという気持ちはあるが、それよりも二人の気持ちを占めていたのは、『一緒に走りたい』というもの。
春江高校の進学コースも、単に専門コースと分けるためにあるだけで、他の進学校に比べてもレベルが低く、中学時代には、上からよりも下から数えた方が早い順位であった結衣にとっては、通学時間も自転車でたったの十五分という近さもあり、とてもありがたい条件下の高校だった。
始業式を終え、教室に戻る。今日から一年間通うことになる教室。席は、二年のときからの引き継ぎとなる。窓側の後ろから二番目。席に着き、ホームルームが始まる。始業式のある日はホームルームだけで、そのあと二年と三年は帰宅となる。
ホームルームが終わると、一斉に生徒たちが集まり、騒ぎ出した。飛び交う話は大きく二つ。遊びに行くか、部活に行くか。だが、その中に、第三の話題が飛び交っていた。隣のクラスに転校生がきた。美人だけど、近寄りがたい。ひと目惚れした。相当な話題となっているらしい。
だが、結衣にはまったく興味のない話だった。三年生となった結衣に、友達はいない。話せる相手ならばいるが、友達と言えるかと聞かれれば微妙だ。
柑奈と共に入学し、柑奈だけがすべてだった。そして、その柑奈はいない。すでにクラス内でもグループがつくられ、柑奈を失った結衣は孤立した。だが、それが嫌だとは思わなかった。寂しくも感じなかった。
どのグループにも入れないという些細なことよりも、柑奈がいないということの方が、結衣には何倍、何十倍もダメージが大きかった。どうして自分は高校に通い続けているのだろう。毎日が惰性で、意味のない日々。まるで時間を潰しに来ているような感覚。勉強もそつなくこなすが、している理由さえも見いだせない。
一時間、一分、一秒でも早く終わってほしい。だって、結衣にとっての意味のある時間は、学校に来るまでの自主練と、学校が終わってから向かう先に集中しているのだから。
ホームルーム終了後、早々に立ち上がり、教室を出る。噂の転校生がいる隣の教室を通り過ぎると、後ろで教室のドアが開く音がした。
「あっーー」
背後から聞こえた息を飲むような声に、結衣は歩きながら肩越しに振り返った。そこにいたのは、教室から出ようとドアを開けたところで立ち止まる女生徒の姿だった。見覚えがない。
ひと目見た感想は、高校三年にしては背が高く、美人だということくらい。勝ち気そうな少し釣り上がった目。身長が高いこともあり、どこか見下されているように見える。肩口よりも少し長い、ゆるいウェーブのかかった黒髪。学校指定のセーラー服も、身長の高さにより、スラッとして見えた。振り返って見たその一瞬で、かなりの印象を与える存在。なんとなく理解した。彼女が噂の転校生だ。しかし、なぜ息が上がっているのだろうか。
だが、結衣にとっては、それだけのこと。すぐに向き直り、結衣は急くようにしてそのまま昇降口へと向かった。
早速、陸上部に挨拶をしに行こうと思った瞬間、窓ごしに廊下を歩く彼女の姿を見た瞬間、思わず立ち上がり、教室のドアを開けていた。たった数歩の距離で息が上がるが、それ以上に心臓がやばいくらいにドキドキしている。
思わず上げてしまった声に反応して振り向いてくれたのは一瞬。だけど、振り向くよりも前に分かった。歩くのに合わせて揺れるポニーテール。そして何よりも、その髪をまとめている白地のシュシュ。間違いなく彼女だ。
「・・・結衣」
その名を呟き、伸ばしかけていた右手を引っ込め、胸に当てる。中学校に上がってから驚くほどに伸びた身長、少し膨らんだ胸。その胸の間に当てた手が、高鳴る鼓動を感じ取る。
(やっと、会えた)
彼女が消えたあとの廊下を、転校生ーー水城真菜はじっと見つめ続ける。まだ、声をかける勇気はなかった。
高校を出てクロスバイクで三十分ほどかけて辿り着いた場所は、自宅ではなく県立大学医学部付属病院だった。病院の正面入口からエントランスに入り、目的の病棟に向かう。渡り廊下を進んだ先、プレートに刻まれた病棟名は、『慢性疾患治療センター』だった。
「あら、今日は早いのね、結衣ちゃん」
受付に寄ると、女性看護師の七瀬が気づき、声をかけてくれた。
「今日は始業式で、午前中で終わりだったので」
「そうだったのね。結衣ちゃんも三年生かぁ」
しみじみといった表情で呟く七瀬。二十代後半と思われる七瀬は、結衣によく話しかけてくれ、気にもかけてくれている。差し出されたバインダーに挟まれた用紙に自分の名前と訪問相手の名前を書いていると、
「あれから、もうすぐ二年なのね」
七瀬の声音が下がる。
「そうですね」
書き終えた結衣は、バインダーを返し、七瀬と向き合った。どう声をかけていいのか分からないといった表情を浮かべる七瀬に、結衣は小さく笑んで見せると、そのまま病棟の奥へと進んでいった。その背中を見つめる七瀬の、悲しげに細められる視線に気づかぬまま。
ドアの前で立ち止まった結衣は、ゆっくりと二度ノックした。それから返事を待たずにスライドドアを開ける。静かに、抵抗を感じながらゆっくりと開かれるドア。室内に入ると、そこは個室だった。そして、部屋の中央に置かれたベッドで、彼女は眠っていた。
「今日も来たよ、柑奈」
鞄を床に置き、部屋の端に置かれていた背もたれのない丸椅子を引き寄せ、ベッドの横で腰を下ろし、柑奈を見やる。目を瞑り、まるで眠っているように見える表情だが、その口には人工呼吸器に繋ぐための管が通されており、テープで外れないように固定されている。空調管理されているため、布団も薄手のものがかけられている。布団から出された右腕。その右手首には、黒色のシュシュがはめられている。
二年前のあの日からずっと、柑奈は昏睡状態となっていた。
「調子はどう?」
そう言って、顔を覗き込む。人工呼吸器の音だけが、静かな部屋に響く。これさえなければ、本当に眠っているようなあどけなさだ。
「よさそうだね」
顔を離し、まずはひと安心する。それから結衣は立ち上がり、椅子を手に持ってベッドの足の方へと向かった。椅子を置いて座り、布団をめくる。露わになった柑奈の素足。
「じゃあ、触るよ」
声をかけてから、その白い足に触れる。
「痛かったら言ってねーーって言っても、手はゆるめないよ」
包むように掴みながら、足裏を親指で押し、刺激を与えていく。
このセンターでは、受付にいた七瀬を含めたスタッフが、患者に対してのケアを行っている。定期的に体の向きを変えて床ずれを防いだり、体の関節や筋肉が固くなったり弱くなったりするのを防ぐために、ストレッチをさせるように体を動かしているのだ。
ただ、それを聞いてはいても、結衣自身なにもできないことに歯がゆさを感じてしまい、せめてとばかりに許可をもらって、こうして足裏に刺激を与えているのだ。
足は、命だ。結衣や柑奈ーー短距離ランナーにとって、足のケアは常日頃から怠らぬように気を張らなければならないこと。爪切りひとつにしても、少し切りすぎただけで違和感が足から全身へと駆け抜け、走りに影響を与えてしまう。いつか柑奈が目覚めたとき、少しでも早く復帰できるように、できる限り最高のコンディションを保ってあげるのだ。
「今日は始業式だったんだよ」
足を揉み、時には押しながら、結衣は語りかけた。
「もう三年生だよ」
返事はない。それでも、結衣は続けた。
「それでね、隣のクラスに転校生が来たんだって。こんな時期に来たってことは、何か事情があるのかな?」
柑奈に向けて首を傾げて見せる。
「どんな子かって? 帰り際に見たけた子が多分その転校生だと思うんだけど、綺麗だったよ。同じ高校生とは思えないね。背も高めで、目元がキリッとしてて、目が合ったんだけど、睨まれてるように感じちゃった。何か言いたげだったけど、何も言ってこなかったからそれっきり。ちょっと不思議な感じの子だね。なんでだろう、初めて会った気がしない、っていうのかな?」
そうして、今日の出来事と思ったことを話す結衣。
「ちなみに、今日も柑奈の勝ちだったよ。速いよね、柑奈は・・・本当に」
足裏を押す手の力が緩まる。
「いつが最後だったのかな・・・柑奈よりも前を走ったのって」
思い出してみるが、記憶にない。そもそも、今まで自分は柑奈に勝っただろうか。柑奈の背中は嫌と言うほど見ているのに。
「今日はこれくらいにしておこっか」
気がつけば十分は過ぎていた。布団をそっと戻し、全体を整える。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って、結衣は元気よく柑奈の眠る病室を後にしたのだった。
「ただいま~」
昼過ぎに帰宅した結衣は二階の自室に入って鞄を置くと、そのままベッドへ仰向けになって寝転んだ。
「三年生・・・かぁ」
呟いた声が、いやに静かな部屋に響く。
高校最後の年。そして、インターハイもこれで最後になる。だが、柑奈は目覚めない。たとえ目覚めたとしても、今からではコンディションを最高の状態に引き上げることはできないだろう。いない。誰もいない。自分の前を走るに足るランナーが、まわりにいない。いつも自分を奮い立たせてくれていた柑奈は、いない。いないのだ。ひとりで走ることのつまらなさ。結衣は競うのが好きなのだ。それは時に、勝敗の有無よりも大事で、正直、ひとりで走ることの意味を結衣は見いだせないでいる。タイムは、つまり単なる結果であり、勝敗を明確に提示してくれる指標にすぎない。ライバルに足る人物ーーほぼ同時にゴールするほどの強敵が現れたとき初めて、判定の役割にタイムというものが意味をもつ。
「私よりも速い人が・・・いない」
自信過剰でもなければ、自慢ですらない。純然たる結果。否定しようのない事実。
柑奈は二年前、高校生女子百メートルのレコードタイムを叩き出した。その陰に隠れて知られていないが、結衣自身、それまでのレコードタイムであった11.42と並んでいたのだ。
あの日の決勝は最高だった。だけど、あれが最後になってしまった。
「誰か・・・」
春休みが終わり、今日からまた同じことの繰り返しだ。変わらない日々。平坦な毎日。やることだけをやり、無駄なことをしない。そうやって日々を過ごし、やがて卒業するのだろう。
それでいい。それでーー。
また同じ日常が続くのだと思いながら、結衣はいつの間にか眠りに落ちるのだった。
叫ぶ自分の声。何度も呼びかける。だけど、返事はない。
「柑奈! 柑奈!」
ただ事ではないという状況がまわりに伝播し、慌ただしくなる。駆けつけた医療スタッフに離れるように言われ、後ろに下がらされた。ただ立っていることしかできない自分。目の前で起きた出来事が受け入れられず、ただ立ち尽くす。
次第に救急車のサイレンが近づき、そのまま競技場内に入ってくる。医療スタッフが救急隊員に状況と状態を説明し、引き継ぎを行っている。そして、運ばれてきたストレッチャーに乗せられる柑奈を、ただ見ていることしかできなかった自分。救急車に収容され、サイレンを鳴らすと共に車が発進し、遠ざかっていく。
喧騒から静寂。遠く、遠く、そして余韻の残して消えていくサイレン。気がつくと、まわりがざわついていた。他の選手やスタッフたちが、一同に同じ方へと顔を向けている。それに釣られるようにして、自分も体を振り向かせた。そこにあったのは、電光掲示板に表示された一着のタイムだった。
一着ーーつまり、柑奈のタイムだ。そのタイム表示に、周囲がざわついていたのだ。知っている者にとっては、思わず声を上げるだろう。結衣も思わず目を見開いた。
ーー11.40
それは、高校生女子百メートルの新記録だった。だが、その記録を樹立した本人は、ここにはいない。新記録を叩き出した本人のいないなか、そのタイムを表示し続ける電光掲示板が、どこか虚しく見えた。
ケータイのアラーム音に、目が覚める。正確には、見ていた夢のせいで直前に起きていた。その余韻で起きるに起きられず、そのままぼーっとしていたところでケータイのバイブ音が鳴り、ようやく意識がはっきりしてきたのだ。二つ折りのケータイを開いてアラームを止めると、月日と時間が表示される。四月八日、午前五時三十分。ケータイをパチンと閉じる。
ベッドの上で上体を起こし、ん~と伸びをする。寝ている間は右手首にはめているシュシュで髪をポニーテールにまとめる。右手側にある出窓のカーテンを開けると、夜明け直前だった。
家のすぐ近くを流れる九頭竜川の河川敷で、日の出を迎えた太陽の光を全身で浴びるように両腕を広げる。結衣が立っている場所は、橋と橋との約一キロメートル間が車の進入禁止区間とされているため、地元の散歩コースになっている。河川公園ーーといっても芝生が広がっているだけーーに着いた結衣は、芝生の上でストレッチを始めた。眠っている間に固くなった筋肉と関節を戻し、一日の始まりを柔軟に過ごせるようにする。ストレッチを終えるころには、体もほどよく温まり、体と心が共に目覚めていた。
(On your marks)
意識を切り替えると、頭の中で『位置について』と声が響いた。本番と同じように、それに従い数歩進み、しゃがみ込む。スターティングブロックがあることを想像し、両手を芝生の上にのせる。
(Set)
用意ーードンッ! 芝生を蹴り、スタートする。スタートダッシュからすぐに速度を緩め、そのまま駆け足でUターン、所定の位置に戻る。そうして、再び頭の中で(On your marks)から(Set)、そしてスタートダッシュを繰り返す。イメージトレーニングとスタートダッシュの練習。感触を確かめ、好調であることを体感させる。
そうして決めた本数をこなすと、土手を上がった。最後に一本。土手の舗装された道を百メートル、本気で走る。視線の先に、散歩をしている人もいない。
(On your marks)から(Set)、そしてーーパァァァン!
頭の中でピストルの電子音が鳴ると同時にスタートした。たった一人の百メートル走。
その隣に、まるで幻影のように透けた姿をした背中が見えた。全力で走るが、その背中には追いつけず、むしろ離されていく。堤防から斜めに生える桜の木が織りなす桃色のアーチを走り抜ける。そうして百メートル地点で胸を突き出すようにしてゴールした。すぐには止まらず、駆け足から歩き、そしてようやく足を止める。
「はぁ・・・はぁ・・・」
呼吸を整えながら振り返るも、そこに幻影はいない。百メートル走を想定して走る時にだけ現れる、幻影。いつも自分よりも前を走るため、顔は見えない。だけど、それが誰なのかは分かる。黒地のシュシュでまとめられたローポニーテール。幻影の正体は、結衣の親友である立花柑奈だ。そして、その幻影が走る速さは、あの二年前に柑奈が叩き出したレコードタイムと同じ。今日も勝てなかった。そもそも勝てるはずがない。この幻影に勝つということは、レコードタイムを更新するということ。つまり、11.40の壁を越えるということなのだから。
「はぁ・・・」
手を腰に当て、空を仰ぐ。突っ張った喉から出る溜息が、青くなっていく空にとけていった。
結衣が通う福井県立春江高校は、始業式を迎えていた。あれから二年。結衣は最上級生である三年生になった。春江高校は男女共学で、進学コースと専門コースに分かれている。結衣は、進学コースを選んでいた。
この高校を選んだ強い理由というものはなく、単に柑奈と同じ高校に行きたかったからだ。柑奈もそれを望んでくれていた。同じ高校に進学するその理由。勿論、一緒にいたいという気持ちはあるが、それよりも二人の気持ちを占めていたのは、『一緒に走りたい』というもの。
春江高校の進学コースも、単に専門コースと分けるためにあるだけで、他の進学校に比べてもレベルが低く、中学時代には、上からよりも下から数えた方が早い順位であった結衣にとっては、通学時間も自転車でたったの十五分という近さもあり、とてもありがたい条件下の高校だった。
始業式を終え、教室に戻る。今日から一年間通うことになる教室。席は、二年のときからの引き継ぎとなる。窓側の後ろから二番目。席に着き、ホームルームが始まる。始業式のある日はホームルームだけで、そのあと二年と三年は帰宅となる。
ホームルームが終わると、一斉に生徒たちが集まり、騒ぎ出した。飛び交う話は大きく二つ。遊びに行くか、部活に行くか。だが、その中に、第三の話題が飛び交っていた。隣のクラスに転校生がきた。美人だけど、近寄りがたい。ひと目惚れした。相当な話題となっているらしい。
だが、結衣にはまったく興味のない話だった。三年生となった結衣に、友達はいない。話せる相手ならばいるが、友達と言えるかと聞かれれば微妙だ。
柑奈と共に入学し、柑奈だけがすべてだった。そして、その柑奈はいない。すでにクラス内でもグループがつくられ、柑奈を失った結衣は孤立した。だが、それが嫌だとは思わなかった。寂しくも感じなかった。
どのグループにも入れないという些細なことよりも、柑奈がいないということの方が、結衣には何倍、何十倍もダメージが大きかった。どうして自分は高校に通い続けているのだろう。毎日が惰性で、意味のない日々。まるで時間を潰しに来ているような感覚。勉強もそつなくこなすが、している理由さえも見いだせない。
一時間、一分、一秒でも早く終わってほしい。だって、結衣にとっての意味のある時間は、学校に来るまでの自主練と、学校が終わってから向かう先に集中しているのだから。
ホームルーム終了後、早々に立ち上がり、教室を出る。噂の転校生がいる隣の教室を通り過ぎると、後ろで教室のドアが開く音がした。
「あっーー」
背後から聞こえた息を飲むような声に、結衣は歩きながら肩越しに振り返った。そこにいたのは、教室から出ようとドアを開けたところで立ち止まる女生徒の姿だった。見覚えがない。
ひと目見た感想は、高校三年にしては背が高く、美人だということくらい。勝ち気そうな少し釣り上がった目。身長が高いこともあり、どこか見下されているように見える。肩口よりも少し長い、ゆるいウェーブのかかった黒髪。学校指定のセーラー服も、身長の高さにより、スラッとして見えた。振り返って見たその一瞬で、かなりの印象を与える存在。なんとなく理解した。彼女が噂の転校生だ。しかし、なぜ息が上がっているのだろうか。
だが、結衣にとっては、それだけのこと。すぐに向き直り、結衣は急くようにしてそのまま昇降口へと向かった。
早速、陸上部に挨拶をしに行こうと思った瞬間、窓ごしに廊下を歩く彼女の姿を見た瞬間、思わず立ち上がり、教室のドアを開けていた。たった数歩の距離で息が上がるが、それ以上に心臓がやばいくらいにドキドキしている。
思わず上げてしまった声に反応して振り向いてくれたのは一瞬。だけど、振り向くよりも前に分かった。歩くのに合わせて揺れるポニーテール。そして何よりも、その髪をまとめている白地のシュシュ。間違いなく彼女だ。
「・・・結衣」
その名を呟き、伸ばしかけていた右手を引っ込め、胸に当てる。中学校に上がってから驚くほどに伸びた身長、少し膨らんだ胸。その胸の間に当てた手が、高鳴る鼓動を感じ取る。
(やっと、会えた)
彼女が消えたあとの廊下を、転校生ーー水城真菜はじっと見つめ続ける。まだ、声をかける勇気はなかった。
高校を出てクロスバイクで三十分ほどかけて辿り着いた場所は、自宅ではなく県立大学医学部付属病院だった。病院の正面入口からエントランスに入り、目的の病棟に向かう。渡り廊下を進んだ先、プレートに刻まれた病棟名は、『慢性疾患治療センター』だった。
「あら、今日は早いのね、結衣ちゃん」
受付に寄ると、女性看護師の七瀬が気づき、声をかけてくれた。
「今日は始業式で、午前中で終わりだったので」
「そうだったのね。結衣ちゃんも三年生かぁ」
しみじみといった表情で呟く七瀬。二十代後半と思われる七瀬は、結衣によく話しかけてくれ、気にもかけてくれている。差し出されたバインダーに挟まれた用紙に自分の名前と訪問相手の名前を書いていると、
「あれから、もうすぐ二年なのね」
七瀬の声音が下がる。
「そうですね」
書き終えた結衣は、バインダーを返し、七瀬と向き合った。どう声をかけていいのか分からないといった表情を浮かべる七瀬に、結衣は小さく笑んで見せると、そのまま病棟の奥へと進んでいった。その背中を見つめる七瀬の、悲しげに細められる視線に気づかぬまま。
ドアの前で立ち止まった結衣は、ゆっくりと二度ノックした。それから返事を待たずにスライドドアを開ける。静かに、抵抗を感じながらゆっくりと開かれるドア。室内に入ると、そこは個室だった。そして、部屋の中央に置かれたベッドで、彼女は眠っていた。
「今日も来たよ、柑奈」
鞄を床に置き、部屋の端に置かれていた背もたれのない丸椅子を引き寄せ、ベッドの横で腰を下ろし、柑奈を見やる。目を瞑り、まるで眠っているように見える表情だが、その口には人工呼吸器に繋ぐための管が通されており、テープで外れないように固定されている。空調管理されているため、布団も薄手のものがかけられている。布団から出された右腕。その右手首には、黒色のシュシュがはめられている。
二年前のあの日からずっと、柑奈は昏睡状態となっていた。
「調子はどう?」
そう言って、顔を覗き込む。人工呼吸器の音だけが、静かな部屋に響く。これさえなければ、本当に眠っているようなあどけなさだ。
「よさそうだね」
顔を離し、まずはひと安心する。それから結衣は立ち上がり、椅子を手に持ってベッドの足の方へと向かった。椅子を置いて座り、布団をめくる。露わになった柑奈の素足。
「じゃあ、触るよ」
声をかけてから、その白い足に触れる。
「痛かったら言ってねーーって言っても、手はゆるめないよ」
包むように掴みながら、足裏を親指で押し、刺激を与えていく。
このセンターでは、受付にいた七瀬を含めたスタッフが、患者に対してのケアを行っている。定期的に体の向きを変えて床ずれを防いだり、体の関節や筋肉が固くなったり弱くなったりするのを防ぐために、ストレッチをさせるように体を動かしているのだ。
ただ、それを聞いてはいても、結衣自身なにもできないことに歯がゆさを感じてしまい、せめてとばかりに許可をもらって、こうして足裏に刺激を与えているのだ。
足は、命だ。結衣や柑奈ーー短距離ランナーにとって、足のケアは常日頃から怠らぬように気を張らなければならないこと。爪切りひとつにしても、少し切りすぎただけで違和感が足から全身へと駆け抜け、走りに影響を与えてしまう。いつか柑奈が目覚めたとき、少しでも早く復帰できるように、できる限り最高のコンディションを保ってあげるのだ。
「今日は始業式だったんだよ」
足を揉み、時には押しながら、結衣は語りかけた。
「もう三年生だよ」
返事はない。それでも、結衣は続けた。
「それでね、隣のクラスに転校生が来たんだって。こんな時期に来たってことは、何か事情があるのかな?」
柑奈に向けて首を傾げて見せる。
「どんな子かって? 帰り際に見たけた子が多分その転校生だと思うんだけど、綺麗だったよ。同じ高校生とは思えないね。背も高めで、目元がキリッとしてて、目が合ったんだけど、睨まれてるように感じちゃった。何か言いたげだったけど、何も言ってこなかったからそれっきり。ちょっと不思議な感じの子だね。なんでだろう、初めて会った気がしない、っていうのかな?」
そうして、今日の出来事と思ったことを話す結衣。
「ちなみに、今日も柑奈の勝ちだったよ。速いよね、柑奈は・・・本当に」
足裏を押す手の力が緩まる。
「いつが最後だったのかな・・・柑奈よりも前を走ったのって」
思い出してみるが、記憶にない。そもそも、今まで自分は柑奈に勝っただろうか。柑奈の背中は嫌と言うほど見ているのに。
「今日はこれくらいにしておこっか」
気がつけば十分は過ぎていた。布団をそっと戻し、全体を整える。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って、結衣は元気よく柑奈の眠る病室を後にしたのだった。
「ただいま~」
昼過ぎに帰宅した結衣は二階の自室に入って鞄を置くと、そのままベッドへ仰向けになって寝転んだ。
「三年生・・・かぁ」
呟いた声が、いやに静かな部屋に響く。
高校最後の年。そして、インターハイもこれで最後になる。だが、柑奈は目覚めない。たとえ目覚めたとしても、今からではコンディションを最高の状態に引き上げることはできないだろう。いない。誰もいない。自分の前を走るに足るランナーが、まわりにいない。いつも自分を奮い立たせてくれていた柑奈は、いない。いないのだ。ひとりで走ることのつまらなさ。結衣は競うのが好きなのだ。それは時に、勝敗の有無よりも大事で、正直、ひとりで走ることの意味を結衣は見いだせないでいる。タイムは、つまり単なる結果であり、勝敗を明確に提示してくれる指標にすぎない。ライバルに足る人物ーーほぼ同時にゴールするほどの強敵が現れたとき初めて、判定の役割にタイムというものが意味をもつ。
「私よりも速い人が・・・いない」
自信過剰でもなければ、自慢ですらない。純然たる結果。否定しようのない事実。
柑奈は二年前、高校生女子百メートルのレコードタイムを叩き出した。その陰に隠れて知られていないが、結衣自身、それまでのレコードタイムであった11.42と並んでいたのだ。
あの日の決勝は最高だった。だけど、あれが最後になってしまった。
「誰か・・・」
春休みが終わり、今日からまた同じことの繰り返しだ。変わらない日々。平坦な毎日。やることだけをやり、無駄なことをしない。そうやって日々を過ごし、やがて卒業するのだろう。
それでいい。それでーー。
また同じ日常が続くのだと思いながら、結衣はいつの間にか眠りに落ちるのだった。
