福井県営陸上競技場には、『9.98スタジアム』という愛称がある。
 これは、日本学生陸上競技対校選手権大会の男子百メートル走決勝において、10.00という巨大な壁を破り、日本人選手で初となる9.98という公式日本記録を樹立したのが同競技場であることを記念に名付けられたことが由来している。
 その舞台で開催される、北信越高校総合体育大会陸上競技大会。
 女子百メートル走、決勝。

 風が止んだ。
 白色のシュシュで頭の高い位置にまとめられたポニーテールの毛先が項に触れるのを、吉田結衣は感じていた。
「On your marks(位置について)」
 屋外の競技場に響くスピーカーの声に従って前に進む。スターティングブロックの前で屈み、両手を赤いトラックにつけ、ブロックに足をセットする。事前にセッティングしたスタブロの感触は良好で、違和感もない。片膝をつき、腕を伸ばす。高鳴る心臓。心地よい高揚感。横目に、隣の選手を見やる。
「・・・」
「・・・」
 向こうも同じ考えをしていたのか、目と目とが合う。黒地のシュシュでローポニーテールにしている立花柑奈。同じユニフォームをまとった陸上部の親友。お互い高校一年にして、決勝まで残ることができた。見つめ合った時間は、ほんの一瞬。視線を正面へと戻す。
「Set(用意)」
 スピーカーの声に、決勝に残った八人の選手が同時に腰を上げ、ぴたりと制止する。選手、競技関係者、観客ーーそれら全てが、まるで時間が停止したかのように動作を止め、静寂が生まれる。そして、電子式のスターターピストルの音が鳴り響いた。余韻が消えぬ間に全員がスタートする。ゴールまで、11秒とコンマ数秒の戦い。
「ーーッ!」
 体が軽い。前に進む。これまでで間違いなく一番のパフォーマンスだ。スタートと同時に六人を視界から消す。だが、一人だけが前に出ていた。
(柑奈!)
 親友にしてライバル。柑奈は前半逃げ切り型。一方の自分は後半追い上げ型だ。
 柑奈よりも前へ。柑奈以外に、自分よりも前にいる選手はいない。だから、柑奈のことだけを考える。半分の距離を越えたところで、肩と肩とが並びかける。結衣のポニーテールと柑奈のローポニーテールが風でなびき、二人が並び走る。だが、その差は見た目では分からないほどのもの。それでもタイムは明確に、圧倒的な差を見せつける。
 前半逃げ切りは、いかに最後まで速度を維持し続けることができるか。後半追い上げは、ゴールに向かって、他を上回る最高速を出すことができるか。柑奈が保つ速度に、結衣が追いつき、そして追い抜けるか。お互いに正面を向き、並んでいる状態だが分かる。
 負ける気がしない。結衣も柑奈も、お互いに勝つことだけを思い描いている。
 ゴールまで、十メートル、三メートル、三歩、二歩、ゴール直前の最後の一歩ーーそしてフィニッシュラインを二人のトルソーが越える。歓声がひと際大きく響いた。
 その日、11.40という、女子百メートル走における高校生記録が樹立された。