その名前を知っている者など、今の世の中ではいないはずだった。
矢鏡が人間だった頃の両親や、数少ない友達、そして住んでいた村人ぐらいだろう。その人間達も、もうとっくに死んでいる。何百年も昔に。
左京。それは、矢鏡が人間だった頃の名前。両親と住んでいた村から追い出された時に捨てた名前であった。村から出てから山暮らしをしている時は名前など名乗ってはいないのだ。
そう1人を除いて。
「その名前を知っているという事は本当に」
「はい。あの時、左京様に助けていただいた寺の娘です」
「おまえが。そうか、おまえはあの時、生きていられたのだな」
「左京様もおかげでございます。ずっとずっと、こうやって感謝を伝えたかった。矢鏡様にお気持ちを伝えたかった。なのに、ずっと嘘をついて知らない振りをしてしまいました。本当に、申し訳ございません」
涙を流し、嗚咽交じりに謝り続ける紅月を矢鏡は唖然としながら見つめる。
この女は、矢鏡は知らない間も25歳で死ぬとわかりながら生き続けてきたのだ。何百年もの間、何度も何度も。矢鏡が消えないように、いつも矢鏡神社を参拝し続けてきたのだ。
矢鏡のために。
「死期が近くなると、矢鏡様もお姿を拝見する事が出来るようになるのが楽しみでした。20歳ぐらいになると、矢鏡神社に行くと矢鏡様が境内で、そっと私を見守ってくれているのがわかりました。お姿を見られるのが、すごく嬉しくて。最後の方は20歳ぐらいになると、何回も足を運んでしまったのです。村の近くで生まれ変われることが多くて、嬉しかったです」
「……紅月」
「だから、最後の最後に矢鏡様のお嫁さんになれて、本当に幸せ者です。私は、左京様をずっとずっとお慕いしておりました。大好きなのです。あなた様と一緒に過ごせた数百年は、本当に幸せでした」



