「凪(なぎ)、おはよ!」

 早朝、登校中の俺、佐倉(さくら) 凪(なぎ)の肩を、幼馴染の白石(しらいし) 茜(あかね)が軽くたたく。

「あ、茜(あかね)、おはよう」

 背中まで伸びた、きめ細かな艶めく黒髪。小動物のような、くりっとした目。そして高校に入ってから覚えた化粧をうっすらとした、かわいらしい笑顔。
 小学生から高1の今まで何度も見てきた、そのはにかんだ笑みであったが、どんどん綺麗になっていくのを感じた。

 いつからか、なんて細かいことは覚えていないが、俺は茜(あかね)のことが好きだった。


「わんこ、来たよ!」

「お、ついにか!」

 茜(あかね)はずっと飼いたかった犬を、やっと家で飼ってもらえることになっていたのだ。

「だから今日、うち来てね!」

「う、うん」

 俺は思わず鈍い返事をする。
 茜(あかね)はおそらく、男を自分の家に連れてくることにあまりハードルを感じないタイプなのだ。
 いつも明るくて、ハキハキしてて、笑顔だ。
 一方俺は、そういうケースにあまり慣れていないので、一瞬戸惑ってしまった。

 茜(あかね)は美人なだけでなく、誰にでもそういう爽やかな性格なので、端的に言えばモテる。
 俺は幼馴染でなければ、こんなに近い距離感で仲良くしていることも本来できないだろう。

「じゃ、ホームルーム終わったら呼びに行くね!」

「わかった」

 俺はやっと自然に笑って、うなずく。


 ~~~


 クラスの全員が起立し、号令をする直前、思い出したように担任が付け足す。
「あ、あと、もうすぐテスト前二週間になりますので、各自少しずつでも勉強を…………」

「なーぎーー! はやく私の家いこー!」

 廊下を走ってきた茜(あかね)が大声で叫ぶ。
 先生を含め、クラスのみんなが廊下にいる茜(あかね)を見つめる。

「あ…………もう、終わってたのかと…………」


 クスクスと何人かが笑う中、仲の良い、隣の席の杉本が俺を肘でつつく。

「おい、凪(なぎ)。夜道には気をつけろよ…………」

「おまえなあ……」

 もちろん俺と茜は、恋愛的な関係になったことは一度もない。
 茜は優しいから俺に良くしてくれているが、恋愛感情を向けられたことなんて全くない。

 これは俺の一方的な、長いこじれた片思いでしかないのだ。


 ~~~


 ひたすらに、ちょっかいをかけられながら歩いたのち、茜(あかね)の家に到着する。

 交流はあったものの中学は別だったので、茜(あかね)の家に遊びに来るのは小学生のころ以来だ。
 幼馴染とは言え、同い年の女子の家に来るのは、さすがに緊張する。
 しかも今日は、家に他に誰もいないと言う。

「びっくりするぐらい、かわいいからね!
 ゴールデンレトリバーの子犬だよ!
 もっふもふだからね!」

「お、おう」

 子犬を見れる興奮と女子の家に入る緊張が頭の中で混ざり、どっちが興奮でどっちが緊張だか、わからなくなる。

「では、いらっしゃーい!」

 茜(あかね)が玄関の扉を開ける。

「おじゃましま———うわっ!!」

 玄関に入るや否や、いきなり正面から俺に向かって大きな毛玉が走ってくる。

 ヘッヘッヘと舌を出して、短いしっぽをちぎれんばかりに振る子犬は、まさに天からやってきたかのようなかわいらしさだった。

 優しく背中をなでると、俺の胸の中に飛び込んできた。
 俺は子犬を抱きかかえ、思わずため息をもらす。

「かわええぇぇ…………」

 茜(あかね)が目を細めながら、子犬の手を動かし、代わりに自己紹介をする。

「でしょー! 茶々丸だよ! よろしくね!」

「かわいぃぃ……」

 無論、両方がという意味であるが、そんなことは言わない。

 茶々丸をなでながら、茜(あかね)と一緒に茜(あかね)の部屋に向かう。


 茜(あかね)が部屋のドアを開けると、ほんのりと甘い香りが流れてくる。

 部屋のなかは白で統一され、整頓されていた。

「じゃ、ジュースとか持ってくるから座ってて!」

「あ、悪いな。適当でいいよ」

「はいはーい」

 俺は茶々丸をおろし、学校のリュックを床に置く。

 まじまじと見てはいけないと思い、軽くだけ部屋を見渡す。
 茜(あかね)の部屋だった。

 茜(あかね)がいつもここで毎日、寝たり起きたりしていると思うと、背筋が伸びる。

 床にあぐらをかくと、部屋をぐるぐる回っていた茶々丸が駆け寄ってきた。


 優しく抱きかかえながら背中をなでると、茶々丸は俺の顔をぺろぺろとなめる。

「よーしよしよし。お前はかわいいなあ…………」

 思わず自分らしくない、とろけるような声がもれる。

 すると、茜(あかね)が両手にオレンジジュースのペットボトルを持って、部屋に入って来た。

「茶々丸いるから割れたりすると危ないから、ペットボトルそのまま持ってきちゃった」

 両手を顔の近くに持ち上げて、真っ白な歯をニカっと見せる茜(あかね)に俺は答える。

「最初はやっぱそういうの、気になるもんだよな」

「そっそっそ」

 茜(あかね)が俺の横に座り、茶々丸の頭をなでる。

 茜の肩が、俺の二の腕に当たる。
 制服越しに伝わる、華奢な肩の骨の感触が、俺の胸を少しへこませた。

 天真爛漫(てんしんらんまん)な茜はおそらく、俺ほど相手のことを意識していないだろう。
 こいつは天然というか、そういうところをあまり考えていないような性格だ。

 俺は茶々丸に目を移し、その愛嬌に再び心を奪われる。

 大型犬の子犬のかわいさが強烈であることは耳にしていたが、実際に見るとこれほどとは。
 百聞は一見に如かずとは、よく言ったものだ。

 あぐらをかく俺の足の間に降りた茶々丸は、腹を真上に向け、犬の世界で言ういわゆる服従のポーズをとる。
 俺に警戒なんて、一ミリもしていないようだ。
 全く、こいつは野生に生まれなくて本当に幸運なものだ。

 俺はため息をもらしながら、茶々丸の腹を両手でわしゃわしゃとなでる。

 茶々丸は嬉しそうに足を動かす。


「ねえ…………」

 突然、茜が俺の制服をつまむように引っ張る。

「あ、ごめんごめん。つい、かわいくて」

 俺は飼い始めたばかりの子犬を独占してしまっていたことを詫び、茶々丸を抱きかかえて、茜に渡す。

「え? あ、う、うん…………」

 俺は首をかしげる。

 どこか合点がいかず、まだ不満そうな表情の茜に、俺もまた合点がいかなかった。


 俺が横から、茜に優しくなでられる茶々丸を眺めていると、茜はこちらをまっすぐに見て、言った。

「なでる…………?」

「あ、いいのか?」

「うん」

「それじゃあ…………」

 俺は茶々丸を抱きかかえ、再び全身をわしゃわしゃとなでてやる。
 茶々丸は大喜びで、今にもしっぽが飛んでいきそうだ。

「凪(なぎ)はさ…………」

「ん? なんだ?」

「凪は、犬にはいつもそうなの?」

「え?」

「犬にはいつもそうやって、たくさんなでたりしてるの?」

「なんだよ、急に……」

 茜はこちらを上目遣いに見つめる。
 少し前に垂れた髪の間からのぞく、その表情は、どこかすねているように見える。
 両目に力が入り、うっすらと口紅をぬった唇はキッと、結ばれている。

「別に、飼ってるわけじゃないから犬なんてそう会えないし、茶々丸ぐらいだよ」

「茶々丸と他の犬の話をしてるんじゃないの! 茶々丸を含めた全世界の犬と人間の話をしてるの!」

「はあ……? 全世界って何の話だよ……。
 言ってる意味がよくわからないんだけど…………」

「だって、茶々丸のことは今日初めて会ったのに、そんなにかわいがってるけど、私のことは小学校からの仲なのに、そんな風にしたことないじゃない!」

 茜は早口でまくし立てる。

「え…………?」

「私は今までずっと凪と一緒にいたのに、一回もなでられたことなんてない!
 そんな優しい目で見られたこともない!」

「いやだって、茶々丸は犬だし…………」
 俺は困惑と恥ずかしさと、少しのうれしさが混ざった表情を、茜からそらす。

「なに! じゃあ私が犬ならいいの!
 凪の犬になれってこと?!
 そういうことなのね!」

「いや、そんなこと一言も言ってな…………」

 俺の返事を遮るようにして、茜は腹を上にして、床に大の字になる。

 ボタンが外された制服のブレザーが開き、中のシャツが広く見える。


「お、おま……! なにやって……!」

「いいから早くなでて!」

 俺も茜もそろって赤面する。
 茜は、やけになっているようだ。

「いや、さすがにそれはちょっと…………」

「いいからはやく! はやくして!」

 駄々をこねる茜に俺は観念し、指先で頭をそっとなでる。

「へぁっ!」

「ええ?!」

 しばしの沈黙が流れる。

「もう……一回…………」

「は、はあ…………?」

「はやく!」
 茜が両手を突き上げる。

 俺はもう一度、指のさきで慎重に、茜の頭をなでる。

 茜はごくりとのどを動かすと、スッと起き上がり、何事もなかったかのように体育座りをした。


 ~~~


 次の日、学校で聞いた噂によると、茜はまた男子に告白されたらしい。

 無理もない。
 茜はかわいいし優しいし、勉強もスポーツもできる非の打ち所がない完璧な人間なのだから。


 しかし、今回はいつもとは少し状況が違った。


 昼休み、一緒に昼ご飯を食べていると、隣の席の杉本が俺に耳打ちした。

「おい、今回茜ちゃんに告ったの、誰か知ってるか?」

「いや、知らないけど……」

「あの学校一のイケメンで有名な木村先輩だぞ」

「サッカー部の部長の?」

「ああ、あの性格がよくて、テストも常に順位で一桁をうろついてるあの人だ。
 茜ちゃんはまだ、返事してないみたいだけどな」

「勉強もできるのか。部活、結構力入れてるみたいなのにすごいな」

「だから、お前な……ひょっとしたら、これが最後のチャンスだぞ」

「なんのだよ…………」
 俺は、杉本の言わんとしていることは大体わかっていたが、気づいていないふりをする。

「そんなの決まってるだろ。
 お前が茜ちゃんにとって、仲のいい幼馴染で終わるのか、それともちゃんと恋人の関係になるかだよ」

 俺はそこまで言われると、今さら茜への好意をごまかしたりせず、焼きそばパンを片手にうなる。

「でも正直、自信がないなー……」

「この期に及んで、何言ってんだよ」

「だって、俺なんかが…………」

 すると教室に入ってきた茜が、一部聞こえたのか、ニヤニヤと笑って、こちらへ近づいてくる。

「お~? 恋バナ~? 凪(なぎ)にしては珍しいな~」

 茜は腰に左手を当て、もう片方の手の人差し指をくるくると回しながら、俺に向ける。

「うるさい、お前には関係ねーよ」

「なによ、愛想がないわね」



 俺の恋している相手が自分だとは思わず、茜はからかうように、俺の口を割ろうとしつこく聞いてくる。

 俺はばれるわけにはいかないと思い、少し強めに茜を突っぱねる。

「いいから、これはこっちの話なの」

 すると、踏んではいけない地雷を踏んでしまったのか、茜は急に真顔になって、言った。

「知ってるわよ、私は凪にとってその程度の人間だものね」

「そこまでいってないだろ…………」

「小学生のころからの幼馴染の私には、滅多に表情を変えないくせに、あの子にはニッタニタ嬉しそうにしてたじゃない!」

「はあ?」

 俺は心当たりがまったくなく、首をかしげる。

「私の部屋に遊びに来てまで、あの子のこと、あんなに全身べたべた触って、なでまわしてたくせに!
 なめられて喜んで、あんな見たことない嬉しそうな顔してたじゃない!」

「お前それ————」

「あんなに服従させて、ご満悦だったわよね!」

 教室にいた数人の女子が、ヒッと怯えた声をもらす。
 杉本の目線も険しい。

「だってあれはあくまで、犬だから…………」


「犬……?」
「凪くんって好きな人のこと、犬って呼んでるの……?」
「え……意外…………恋人との間では王様キャラなんだ…………」

 クラスがざわつく。
 俺がみんなに説明しようとすると、茜は珍しく、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「あんたが誰を好きかはあんたの勝手だけどさ、私には今まであんな顔一回も見せてくれなかったじゃない!
 そのことはちゃんと恨むからね!」

「いや、茜……それは茶々丸がシンプルに子犬として、かわいいからであって…………」

「凪なんかもう嫌い!!」
 茜はそう言って俺が持っていた焼きそばパンを奪いとって、俺の口に突っ込むと、廊下に走って行ってしまった。

 クラスのみんなが、俺にドン引きの視線を向ける。

「おい、凪。
 俺、茜ちゃんがあんなに感情をあらわにしてるの、初めて見たぜ…………そもそも怒ってるのも初めて見たぞ……」

 俺は焼きそばパンをくわえたまま、無言で杉本にうなずく。


 俺はパンを机の上に置いて教室を出ると、茜の走っていった方に向かう。



 茜は、廊下の隅にある非常階段の扉の前で、顔を伏せて体育座りしていた。
 俺は口に残っていたパンを飲み込む。

「茜……」

 その声で、茜は近くに来たのが俺だとわかったのか、少し頭を上に動かした。
 しかし、目が見える前に元に戻ってしまう。

「茜」

 俺はしゃがんで茜に目線の高さを合わせ、腕をつつくとともに、もう一度名前を呼ぶ。

 茜はやっと顔をあげる。
 目はうるんで、今にも涙があふれそうだった。

「俺は茜のことちゃんと大切に思ってるよ。
 こんなこと言ったらあれだけど、他のどの友達よりも、これからもずっと友達でいたいと思ってる」


 少しの沈黙ののち、茜は口を開く。
「でも、好きな子いるんでしょ……?
 もし、その子と付き合うようになったりしたら、私のことなんて、もう…………」


 茜が言いたいのは、友達としての価値の話なのだろう。ずっと一緒にいた幼馴染の友達としての話。

 友達なのに、見せたこともないような笑顔があって、それを茶々丸にはいとも簡単に見せたこと。
 友達として、恋愛の話をしてくれなかったこと。

 あくまでこれは、友達として裏切られたと感じた、ということなのだろう。



 茜は今まで多くの男子に告られているが、全て断り、付き合ったことはない。
 でも、あの木村先輩ほどの人間となれば、どうなるかわからない。
 杉本の言う通り、どうにかなる前に俺が何かできるのは、これが最後なのかもしれない。

 何より、ここでごまかしてしまうことが、それこそ本当に、茜を裏切ることになるような気がした。


 茜は俺から目をそらし、涙が溢れないよう、静かに両目を閉じる。

 俺は、茜の手に触れようとしてやめた。


 好きな人にその気持ちを隠すのは、普通のことだろう。
 でも、俺が気持ちを隠すのは今日だけじゃない。
 茜を好きになってから、ずっと何年も、この気持ちを隠し続けていた。

 ずっと勇気が出せずに、本当の気持ちを隠したまま、何食わぬ顔で茜とずっと一緒にいた。
 茜は俺のことを友達だと思っているのに、俺は恋心を抱いている。

 この感情を持つのは仕方のないことだろうが、俺はどこかだましているような罪悪感を感じていた。

 俺は茜に嫌われるのが怖かった。振られるのが怖かった。
 恋心を隠して友達という安全圏に居座り、自分にとって一番都合の良い立ち位置を模索していた。



 でも、違うんじゃないか。



 俺は今度こそ茜の右手に触れ、優しく包み込むように両手で握る。

 茜が俺のことを無垢な目で見つめる。
 その瞳は、俺と違って曇り一つない、澄んだものに見えた。


 茜のことが本当に好きなら、茜に幸せでいてもらうことが一番のはずだ。
 それなのに、俺はずっと自分のことばかり考えて、自分にとって一番の居場所を探し続けた。
 その結果、茜は今、傷ついている。

 俺は茜が好きなんだ。
 なら、代わりに傷つくのは俺でいいじゃないか。
 それで、優柔不断な自分とも、やっとおさらばできる。

 友達でいれなくなってもいい。
 それで茜の気持ちが楽になるのならば。

 もう、終わりにしよう。


 俺はもう一度茜の名前を呼び、長い沈黙を断ち切る。



「なに…………?」

 怖い。嫌われることが怖い。
 今までそういう風に見ていたのかと思われることが怖い。
 もう、友達で、幼馴染でいれなくなることが怖い。


 最高にかっこ悪いことに、俺の目から次々と涙がこぼれてくる。


 それでも、できる限りの笑顔で言った。


「茜、俺はずっと、お前のことが好きだったよ」



 茜は思いもよらなかったであろう俺の言葉に、驚いた表情を見せる。



 これで良かったんだ。茜が好きなのに茜が傷つくのは、嫌なんだ。


 すると、乾いた地面に優しく水が流れてくるかのように、茜の両目から静かに涙が零れ、頬を伝った。


 茜は両手の手のひらで頬をぬぐうと、突然、俺に抱きついた。


 俺は思わずよろけ、廊下の端っこで、茜を上にして倒れる。

 茜は俺の肩をしっかりと抱きしめ、髪からほのかに甘い香りを漂わせて、耳元でつぶやいた。

「私も……ずっと、凪のこと…………好きだったよ」

 そして、茜は顔を、今度は俺の正面に合わせて、いつもの晴れるような笑顔で、はっきりと言った。

「好きだよ! これからもずっと!
 凪、大好き!」



 その後、茜が子犬のように俺に甘え、俺が愛犬をかわいがるように、茜にめいっぱいの愛を注ぐのは、また別の話である。