兄は怒りを隠そうとしない。みるからにイライラしている。そんな兄を見ていたら震えは止まっていた。

「なんなんだ、あいつは」
兄は運転しながら怒りにまかせ専務への暴言を吐いている。それを聞きながら次第に今後についての対応をどうするかを考えていた。秘書室長に指示を仰ぐのは勿論のこと、今回の事件のターゲットは私なのだ。

チラッと兄を見る。…私、仕事を辞めさせられるんじゃないだろうか。両親だって事件の内容を知ったら怒り狂うだろう。
今の仕事にこだわらなくとも、父が経営している飲食店で働けばいい。

今後、また専務の女性関係に巻き込まれる可能性もある。恐怖心がゼロではない。今回は運良く無傷だっただけ。そう、運がよかっただけ。

それなのに、頭に浮かぶのは専務が今どうしているのか。メンタルは大丈夫だろうか。今後の専務の立場は厳しいものになる。
正直、今朝の平和だった朝食の時間に戻りたい。

今日も専務は機嫌良くお味噌汁をのんでいた。それを見て心の中でニヤッとする。そんな私の気持ちを悟られないようにポーカーフェイスを装いながら専務の用意してくれたマグカップでコーヒーを飲んでいたあの穏やかな時間。

…明日は朝食を作りに行かなくていいんだ、よね?私が専務のマンションに行くのは控えるのが賢明だ。誰がみてるかわからない。そこまで考えて、今すぐにでも室長に連絡をいれたいと思った。

バックの中からスマートフォンを取り出す。兄の前で電話をするわけにはいかないのでメール画面をひらく。

「今日は家に泊まれ」
兄が怒りを押さえた声で言った。
「家?」
「実家だ」
「あー」

兄にしてみれば、あんな事件に巻き込まれたのだ。当たり前の判断だ。

「私のマンションで」
「は?一人で何かあったらどうする」
「犯人は捕まったし、もう大丈夫。今回の事件の対応もあるし」

実家はマンションより会社に遠いし、何より室長との電話でのやりとりがしづらい。

「お前は被害者だろ」

その通りなんだけど…

「被害者だけど秘書だから」

「お前は俺の妹だ」
兄の声が大きくなる。

「…心配かけてごめんなさい」
兄の苛立ちはすべて私を心配しているから。それが兄の声と表情からいたいほど伝わってくる。

窓から見えるその景色は実家に近づいていた。

「今夜は一人になるな」
兄はそう言い、反論は認めないとでも言うように口を閉じた。