三枝菜帆は素晴らしい人生を送っていた。

母の早織と父の岳との3人暮らしだった。

父はかなりのビジネスマンで、休日でもすることが無いと言って自分のインテリ会社の宣伝ページを作ったりしていた。

「俺らがお前らを養ってやる。」

この口癖は皮肉に聞こえたけど、事実であった。

母はなんというか、結構過度の心配性かつ過保護であるため、仕事はしていなかったためだ。

でも私は別に、そんな生活が嫌いではなかった。

いや、むしろ好きだったと思う。

母の作る料理はどこのお店で食べるよりも美味しいと感じていたし、それを伝えたときの母のクシャリと笑う顔を見るのもまた好きだった。

父もそうだ。よく笑う人だった。

仕事の帰りは遅いし、お酒が大好きで1日に何本も飲んでたけど、全く疲れた様子もなく家族を笑わせてくれた。

父は大手インテリ会社の企画部課長だった。

プライドが高くて、仕事一筋の父だったけど、
よく部下と飲みに行くとかなんかで、慕われていたみたいだった。

私から見ても傍から見ても、それは幸せな家族のカタチであった。

まぁ、いとも簡単に壊れたけどね。

父は死んだ。急性アルコール中毒で。

不動産やお客さんと取引をする部が失態を犯し、大損害を受けた。

それを嫌味たらしいそこの課長が企画部の宣伝に問題があるだとかグチグチ言ったから問題が大きくなった。

きっと真面目で頑固で真っ直ぐすぎる父のことだ。

吐かれる愚痴を正面から受けて、ひどく傷ついて、思い切り言い返して喧嘩でもしたんだろう。

それを酒で忘れようとしたんだろう。

その課長も大分馬鹿だけど、父はもっと馬鹿だ。

悲しんだかって?そりゃもう滅茶苦茶に悲しんだ。

泣き崩れたし、泣き叫んだ。

事実を受け入れようとする度に父の笑顔が脳裏に浮かんでただただ辛かった。




でも今はもう違う。その頃の私は、たぶん、もういない。



母は、人が変わった。

元気が無くなったとか、暗くなったとかじゃない。

逆だ。

必要以上のドロドロとした愛を、私に向けてきた。

しばらくたって母は仕事を始めた。

もちろん家の収入がゼロになったからだ。

最初は父が遺していったものでやりくりしていたけど、当然ずっとそういう訳には行かない。

母は仕事に行くようになった代わりに、私を寝室に閉じ込めた。

窓にはいつの間にか格子が付けられていた。

苦痛というか退屈で、したいことも何も出来なかった。

スマホは買って貰えなかったし、そこまで勉強熱心だった訳でもない。

この無駄な時間をなにもせずに費やしていると思うと、人生損してる気がして、気が気でなくなった。

そんな時に、私は将棋に目覚めた。

1人でする将棋はもちろんつまらなかったけど毎日新聞に載る将棋を読んで、たくさん分析をして、次はどうなるだろうと想像をして、それが当たったとき、心の底から嬉しくなった。

ここまで夢中になれたのは初めてだった。



父が死んでから、多くのことが変わった。

まず、母と寝るようになった。

そして元々そうだったけど、さらに外に行かせて貰えなくなった。

母がものをあまり買ってくれなくなった。

母のご飯を作る量が増えた。

母が痩せた。

母がよく私を抱きしめるようになった。

時が経つにつれ、母が父のことを話さなくなった。

母はきっと、おかしくなってしまった。




私も大きく変わった。

母の笑顔を見ても、なんにも嬉しくなかった。

それはもうクシャッと笑う笑顔じゃなかったからだ。

母を見て、怖いと思うようになった。

優しい目の奥に、ハイエナの目のような鋭いものを感じた。