『そんなに早くは来てないよ。 ってか、今日美優の迎え大丈夫そ?』
『うん、今日はお母さん休みだから大丈夫だよ。ありがとう』
『そっか』とサクは画面を見て私の書いた紙を片手に持ちながらカタカタと文字を打ち込んでいく。
『これ、このまま打ち込んでいけば良いだけ? それなら私もやりたい』
私は後ろの方から椅子をサクの座っている隣に移動して
そこに座った。
サクは少し場所をずれて私はパソコンの前に座るとブレザーの袖を肘の方まで捲りマウスを握った。
『ここにカーソルを合わせれば良いの?』
『そうそう。 その枠の中に文字を入れてくんだよ』
私は両手人差し指でキーボードのアルファベットを探しながら文字を打っていった。
普段全くと言って良いほどパソコンもスマホさえもそんなに使わないから
サクみたいに五本の指を器用に使って打つことは出来ない。
サクは少しわざとらしく私の手元をチラチラ見るから
『遅くて悪かったね』と言ったけれど
サクは『そのうちすぐ慣れるよ』と言って微笑んだ。
最近サクはよく笑う。
その笑顔を見ていると
なんだかとても懐かしいような……
なんて言って良いのかわからないけれど
胸の奥がギュッと締め付けられる感じがする。
でもそれは苦しいとはまた違って。
とても心地の良い感じがするんだ。
『サク? 小さい つ ってどうやって出すの?』
キーボードで小さい つ を探しながらサクに話しかけていたが全然返事がないので『ねぇ?』と言いながら隣にいるサクの顔を覗き込んだ。
サクは、スースーと微かに聞こえる程の小さい寝息をたてながら寝ていた。
きっとこれを作る為に相当早起きしていたんだろうな。
学校に来る前に家でもすぐパソコンに打ち込めるように
私が渡した紙の余白の所にメモのようなものが書いてあったり、聞き慣れない何かの単語のようなものも書いてある
多分パソコンの用語か何かだろう。
トンッ。とサクの頭が私の肩の上に乗っかる。
私はびっくりして声が出そうになったけれど
サクが起きてしまわないように思わず息を止めた。
シャンプーの良い香りがする。
そして小さい頃から変わらないサクの匂いもした。
少し懐かしくて安心する匂い。
さとネーもサクと同じ匂いがする感じがするから
きっと家の匂いなんだろうか。
例えが見つからないけど好きな匂い。
みんなが登校してくるまでまだ時間はあるから
寝かせておいてあげよう。
『私の字汚ったないなー』
よくサクは読めたものだ。自分でもたまになんて書いてあるか目を凝らしてみたりしてる。
サクの寝顔を見ながら
汚い私の字に目を凝らすサクが容易に想像できて少し笑いそうになった。
私は鼻でサクの髪を軽く撫でた。
そういえば昔サクに私の字は特徴的だから見たら紗希が書いたってすぐ分かるって言ってたな……
……いつだっけ?
そんなことを考えているうちに気付いたら私も寝てしまったみたいだ。
学校のチャイムの音で私は目を覚ました。
一瞬自分がどこにいるのかわからなくなったけれど肩にサクの頭が乗っていて自分も一緒に寝てしまった事に気付いた。
パソコンの画面の下の方にある時刻を見て私は驚く。
『サク!起きて!もう一時間目始まってる!』
私の声でサクも目を覚ます。
『ごめん、俺寝ちゃってた?』
『私も寝ちゃってた!ってか遅刻遅刻!』
私が指差す時計を見て慌てるサク。
二人で鞄を持って急いで図書室から出て教室へ向かった。
『昼休みに仕上げちゃうからさ。出来たら帰り印刷して渡すよ』と廊下を駆けながらサクは言った。
『うん、じゃあまた後でね!』
私は自分教室に着くと教卓とか逆の後ろの扉から入った。
ドアの開く音でみんなが一斉にドアの方に振り返った。
そしてみんなの反応で先生は気付いた。
『中條、遅刻か? 珍しいなぁ…… 早よ席につけ』
私は『すみません……』と小声で呟きながら早足で窓際にある自分の席へ着く。
一時間目は国語だったか。
良かった…優しい先生の授業で……
国語の先生はメガネをかけた少し小太りの中年の男の先生だった。
いつもワイシャツにネクタイを締め、ぽっこりと出たお腹が特徴的な先生だ。
この見た目と少しゆっくりとした話し方から
みんなはカバ先生とあだ名をつけた。
先生はカバ先生と呼ばれても怒ることもなく
少し自慢気に『カバは強いからなぁ』と照れながら話していたのを覚えてる。
私が鞄から教科書を出している最中、前の席に座ってる美久が振り返る。
『紗希が遅刻だなんて珍しいじゃん。どしたの?』
『朝早く来て図書室で係の資料作ってたら寝ちゃって』
『朝からぁ!?』と美久は目を丸くして驚いていた。
『あの学祭の係活動かぁ……大変だね』
『大変だけど…けど楽しいよ。青春してるぜ。って感じが』
美久は何だそれ!と言いながら口に手を当てて吹き出しそうになっていた。
私は窓から外を眺めながらサクが私の字が特徴的だって
言った時のことを思い出そうとしてた。
……そうだ。さとネーと3人で未来の自分に手紙を書いたタイムカプセル埋めた時だ。
確かあれは私が小学校に入学して間もなかった頃くらい。
なんか書いたかももう思い出せないくらい。
あれから10年くらい経つのかぁ。
サクは何て書いたんだろう。
私はさっきまで肩にあったサクの温もりと匂いを少し思い出してた。
『紗希、なにニヤニヤしてるの?』
美久が窓の外を眺める私を見てそう尋ねた。
『んー、教えない』
ーー今日の授業が終わって帰りのホームルームが始まる前にサクが紙を持って私の教室に来た。
『紗希、係のやつ出来上がったから目通して大丈夫そうなら先生に言って8クラス分印刷してもらって』
私はうん。と言ってサクから用紙を受け取りそれを眺めた。
『つ が大きくなってる所があったから全部直しといたよ』
『あれはサクのこと試したんだよ。しっかり確認してるかどうか』
『そっか』とサクは笑った。
サクの顔を見ると朝のことを思い出してしまう。
みんなが知らないそれどころかサク本人も気付いていない。いうなら私だけの秘密だ。
少しボーッとしてサクの顔に見惚れてしまう。
『どうしたの?』と首を傾げるサク。
我に返って『ううん』と首を振る私。
『サ、サクに何かお礼したいなと思ってさ』
『いいよ、別に』
『明日さ、私サクにお弁当作ってあげるよ』
少し驚いて眉が少し上に上がるサク。
『うん、じゃあ明日楽しみにしてる』そう言って自分の教室に戻って行った。
帰りのホームルーム最中みんながスマホを手に持っ出るのを見て私も通知が来ていないかだけ確認した。
着信が何件かとママから自転車で学校行かなかったの?とメッセージが来ていた。
私はママにパンクしてて歩いてきたと返信しようとしたが
もう一つメッセージが来ていてパンクに気づいてホームセンターでパンク直しておいたよ!とあったので
ありがとう!と返信した。
帰る前に職員室に寄ってみんなに配布する係の紙を担任の先生に渡すとよく出来ていると褒められた。
先生には正直に隣のクラスの鈴木くんに手伝ってもらったと伝えると、先生もサクに学校の緑の掲示板に貼る表示などをよく頼んだりするんだと言っていた。
……そんなことしてたのかサク。
それを休み時間とかにササっと仕上げてしまうのがすごい。
そしてなによりもそれをサクがしていると誰も知らないのがまた、なんというかサクっぽい。
けれど、そんなサクの良さをみんなは知らないけれど分かる人はしっかり分かっていて
色んな人から頼りにされたりしているんだろう。
無愛想に見えるけど、多分誰よりも人の事を考えられるヤツなんだ昔から。
『鈴木って係の役員だったっけ?』と先生は私に尋ねた。
『いえ、私が頼んだんです鈴木くんに』
『そうかー。鈴木と仲良いのか』と先生は少し嬉しそうに話した。
先生もサクは口数が少なくって他の人とあまり関わっている所は見たりすることがなく少し心配だったと話した。
『でも鈴木のことよく聞かれたりするんだよ。一年とか三年の女子生徒に。鈴木くんってどんな感じの人なんですか?って』
そう話しながら先生は私の顔を見て途中で話すのをやめる。
『えっ……中條……怒っとる?』
自分でも気づかなかったけど眉間にかなりシワが寄って私は先生を睨んでしまっていたみたいだった。
『怒ってないです!怒ってないです!』と私は少し焦って弁解した。
サクは中学の頃から人気はあったし、
部活の試合で他の学校へ行ったりした時にも
他校の女子生徒が割と集まってサクの事話したりスマホで写真を隠れて撮る生徒もいたりもしてた。
そんな事にはもう慣れていたし何よりその人達はサクの上っ面の部分だけ。その外側だけを見てそんな事を言っているんだろうなとも思ってたから。平気だと思っていたけれど
やっぱりその事を改めて他の人の口から聞くと
無性に不快な気持ちになる。
別に誰に怒ってるわけじゃないけど、何処にぶつけていいかわからないもどかしさとでも言えばいいんだろうか。
別に自分のモノでも、というか誰のものでもないんだけどね。
その時は少しだけ美優の気持ちがわかる気がするんだ。
ーー学校帰りに明日のお弁当の具材を買いにスーパーへと立ち寄った。
いつもの買い物は値段重視だけれど明日の為に少し予算オーバーを覚悟でサクが喜びそうなお弁当を作ろう。
けど、あまり気合を入れ過ぎたお弁当だと
開けた瞬間引かれたりしたら嫌だから、あまりやり過ぎない程度な感じがいい。
少し良いな。って思われる程度。
丁度いい感じのお弁当ってなんだ……
今まで家族以外の他の誰かにお弁当を作ったことがないどころか私は恋愛経験もあまりない。
……いや。今少し見栄を張った。 あまりではなく一度もない。
……ん?
一体…何を作ればいい……?
世の女性達は彼氏だとかにお弁当を作る時どうしているんだろう一体。
その類の経験や知識はあまりにも私には乏し過ぎて
頭が真っ白になる。
サクの好きなものって一体なんなんだ……
私はスーパーの惣菜コーナーで堪らなくなり
鞄からスマホを取り出しすぐさま電話をかけた。
何回かのコール音の後優しい声で『もしもーし』と応答した。
『あっ、さとネー? 久しぶり!』
『紗希ちゃん、久しぶりだね』
『ちょっと折り入ってご相談がありまして……』
『……ん? どうしたの?』
『ある事情がありまして……サクにお弁当をね。あの、作ろうと思ってるんですが……その』
電話越しでさとネーのフフッと笑う声が聞こえた。
『そういうことか。 サクね小さい頃からお肉はあんまり食べなかったかなぁ。焼き魚とかの方が好きだと思うよ。 あとベタベタな物とか苦手みたいだったよ。例えばおにぎりの海苔とか。 お母さんにお弁当の時おにぎりと海苔は別にしてってよく言ってた』
そういえばサクの家族とよくバーベキューをしていた頃。
肉ばかり食べていた私とは対照的にサクは野菜ばかり食べていたな。
あれ苦手だったから食べていなかったのか……
遠慮しているのかと思ってた。
『でもお弁当で悩んでくれてる事知ったらサクきっと喜ぶよ』
『さとネーに聞いといてよかった。私聞いてなかったら肉づくしのお弁当になってたかも』
『それでも紗希ちゃんが作ってくれれば喜んで食べると思うよ』
『でも肉を使わない料理かぁ。難しそう』
『漬物とか……ひじきの煮物とかきんぴらごぼうとか焼いた白身魚とかかなぁ』
『なんかサクの好きなものお爺ちゃんみたい』
『確かに』とさとネーは声を出して笑った。
『さとネーありがとう。 肉を使わない和食作ってみる!』
よしっ。目指せ幕の内弁当。
そう心の中で呟き野菜コーナーの方にカート押して向かった。
買い物を終え家に着くとママと美優は少し早めに夕食たを食べていた。
『ただいまー。 カレーのいい匂い』
『紗希おかえりー。 冷蔵庫の中にひき肉入ってだからキーマカレー作ったんだ』
『えっ、やったー。ママのキーマカレー好きなんだー』
『学校帰りに買い物行ってきたの?』私の持つエコバッグをみてママが尋ねた。
『うん、明日ね。いつもサクに色々お世話になってるからお弁当作ろうと思って……』
ママは照れる私を見て少しニヤッとしながら『へぇ〜』と何やら察したような顔をした。
私はママから顔を隠すように食材の入ったバックを持ってキッチンの方へ少し早足で歩いて行った。
美優は右手にスプーンを持ち、口の周りをカレーまみれにしながらポカーンとこちらを見ていた。
『ねーねー、顔真っ赤だよ?』
『走って帰ってきたから暑いだけ!』
と私は美優の方を見ないで反論したが、ママは美優の口を拭きながら『お姉ちゃん、ニーニーにお礼したいんだって』と言った。
私はキッチンの引き出しを開けて
前にゆみおばさんにもらった料理本を取り出し
きんぴらごぼうのページを開いた。
『きんぴらごぼう作るのかー。サク確か肉嫌いだったよね』
ママは私の後ろから本を覗き込んでそう言った。
『きんぴらごぼうはあまりに炒めすぎない方がいいよ。ごぼうとにんじんの風味が飛んじゃうから』
私はママの方を振り返って『そうなんだ……』と頷いた。
『きんぴらごぼうならママも得意だから教えてあげられるかな』
そう言って買い物袋からごぼうを取り出し『ごぼうの皮むきからしよっか』と私に手渡した。
『ごぼうの皮ってどうやって剥くの?』
『うーんとね……』と言いながら包丁入れから包丁を取り出して刃先と反対にある背の部分を指して『水につけながら、ここで軽く削いでいくんだよ』と言った。
ママに見守られながらごぼうの皮を剥いて、具材を切っていく。
『紗希、包丁の使い方上手だねー』
『そりゃ上手くもなりますよー。いつもさせてもらってますからー』と言いながらごぼうを縦にしてささがき切りで切っていく。
こうしてママとキッチンに立つのはいつ振りだろう。
多分家にまだパパがいた中学生の頃くらいだ。
初めて友達にバレンタインチョコを作る時に手伝ってもらった時だ。
板チョコを包丁を使って崩そうとした時に
ママは私の包丁の使い方が危なっかしいと言って
ほとんどママが作ってくれた思い出がある。
でも今はママも安心して見ていられるほど上達したみたいだ。
人って変わっていく。まぁいい意味でも悪い意味でも
住む環境が変わったら順応していくって事だろう。
きっとそのままだと生きてはいけないから変わっていかないといけない。
『サクがね、美優を見ていると昔の私を思い出すって言ってたんだ』
『ん? 確かに紗希と性格似てるかもね』
『そうかな。私あんなに図太い性格してないけど……』
『図太くていいじゃない。 言い方は違っても強いって意味でしょ? 紗希も美優もママに似て強く生きてくれて嬉しい』
そう言ってママは私の頭を撫でた。
『ママね。 紗希が男の子にお弁当作ったりだとか普通の女の子らしい事してるのがすごく嬉しい。 紗希にはたくさん、たくさん我慢させることもあるだろうからこうして普通な事がすごく嬉しいんだ』
ママの言葉で今まで我慢してきた事が込み上げてきた。
普通ってきっと難しい。
人それぞれ考え方は違うし環境だって違う。
それを誰かが全体を見てここが普通だよ。って線を引かれたってそれがとっても難しかったりするんだ。
普通じゃなくっていい。
けど落ち着いて暮らしたい。後悔なく生きていたい。
『でも、私も美優も幸せだよ?』
『もう……ママの事泣かせんな……』
そう言いながら私に顔を見せないようにママは後ろを向いた。
きっとみんな不安で必死なんだよね。
私だけじゃない。ママだってそうだよね。
みんな同じで必死に生きてる。
ーー次の日。朝から4人分のお弁当を用意した。
昨日のうちに作ったきんぴらごぼうと白身魚とひじきの煮物とサラダ。
少し見栄えは悪いけどでもママも手伝ってくれたし味には自信がある。
『おはよー』頭掻きながらいつもより早くママも起きてきた。
『ママ今日は起きるの早いね!』
『うん、紗希のお弁当が楽しみ過ぎて起きちゃったよ。 後でサクの感想メールで教えてね』
『うん』そう言って私は美優のお弁当を通園バックの中にしまった。
『ほら、美優着替えよ!もうそろそろ』
少し寝ぼけながらテーブルに着いてロールパンを頬張る美優の髪をクシでとかす。
自分と美優の支度を済ませ『行ってきまーす』と玄関を出るといつものように美優は自転車の後ろに乗せて幼稚園へと向かった。
『じゃあ、今日はお姉ちゃんが迎えにくるからね!』
『えー、にーにーがいいのに!』ムスッとした顔をする美優。
美優を玄関まで送って私はまた自転車にまたがり学校へと向かった。
学校へ向かっている途中に遠くの方で救急車かなにかのサイレンのようなものが聞こえた。
『事故でもあったのかなぁ……』
私は一人そう呟き自転車を走らせる。
ーー学校へ着くと玄関の方で一年生の生徒が何やらうちの生徒が交通事故に遭ったらしいって話しているのが聞こえた。
私は上靴に履き替えながら朝から大変だなぁと思いながら教室の方へと向かった。
自分の教室に入る前にサクがいるかどうか隣の教室を確認したが今日はまだ来ていないみたいだった。
『いつもならもう来てる時間なのに。寝坊かな?』
お弁当は昼に渡そう。
サクの喜ぶ姿を想像してフフッと一人ニヤケそうになる私。
『紗希おはよう!』
『あ、美久おはよう。 さっき玄関でね朝うちの生徒が交通事故に遭ったって話してる人いたよ』
『そうなんだ!怖いね。私たちも気をつけなきゃ』
少し顔を曇らせる美久。
『朝はみんな忙しいからね。私も気をつけよう』
美久は私のバックとは別に持っている荷物に気づいて『何それ?』と尋ねた。
『あぁこれ? サクにお弁当作ってきたんだけど……まだきてないみたいで渡せなかった』
『えぇ!? 紗希、鈴木くんと付き合ってるの!?』
私は手を大きく振りながら否定した。
『違う違う!そんなんじゃないよ! 係の事手伝ってくれたからお礼にね』
『まずは男の胃袋を掴めっていうもんね。紗希、意外と戦略的だね』
私は少し赤くなった頬を仰ぎながら席へつく。
『それって女も同じなのかなぁ』
美久は私のひょんな一言に首を傾げる。
『どうなんだろう……女も胃袋掴まれたら一緒にいたくなるってコト? でもまぁ、料理出来る人っていいよね』
私はわかると深く頷きながら『大きな手で包丁握ってる時とかいいよね。包丁がなんか小さいナイフみたい見える感じが』
『それもう紗希の体験談じゃん。 それもう鈴木くんのこと好きって言っちゃってるよ。 料理できる男といえば、こないだね、テレビで近所の新しいイタリアンの店紹介されてたよ』
『へぇー』と私は頷く。
『そこの店長さん若いのに何年間か海外で料理の勉強してたんだって。 イケメンだったんだけどさぁ。左手薬指に指輪してたよ……奥さん海外の人だったりして』
『美優とママも話してたそこの店の事。今度行きたいねーって』
ガラガラガラ。
やっぱり結婚するなら料理が出来る男だね。って話でまとまった頃くらいに教室の教卓の隣のドアが開いて担任の先生ではない副担任の若い女の先生が入ってきた。
美久は『あれ?今日担任じゃないんだね?』と首を傾げた。
その若い先生は黒板の前に立つと出席簿を机の上に置いて生徒たちが席に着いて少し静かになった頃くらいに話し始めた。
『おはようございます。 耳にしている人もいるかもしれないけど今朝うちの学校の生徒が通学中に交通事故に遭いました。
……事故に遭った生徒は意識がまだ戻っていないそうで今それで病院の方へ、うちのクラスの先生と隣の担任の先生が病院の方へ向かっています』
みんなが少しザワつき始める。
担任と隣のクラスの担任が病院へ向かっているということは
交通事故に遭ったのはうちの学年だったのだろうか……
今朝サクがまだ学校に来ていなかったことを思い出し
妙な胸騒ぎがし始める。
もし、もしサクだったらどうしよう。
美久が私の顔をみて『紗希大丈夫? 顔色悪いよ?』と言った。
みんながざわつく中、先生は続ける。
『……なので、一時間目は実習となります』
ある男子生徒が先生に尋ねた。
『事故に遭ったのって隣のクラスの人?』
『先生も詳しく状況は聞いていないんだけどね。 隣のクラスの生徒みたい……』
教室の中はざわついて騒がしいはずなのに
自分の心臓の音が速くなっていくのに私は気付く。
美久が私を心配して何かを話しかけてくれているのだろうけど……
なんて言っているのか上手く聞き取れない。
自分の呼吸の音がうるさくて。
……確認したい。
サクがちゃんと学校に来ているかどうか確認したい。
それだけ知りたい。今すぐに。
ガッシャン。
私が立ち上がった時にその勢いで私の椅子が倒れた音が教室中に鳴り響く。
その音に驚いて騒がしかった教室が一瞬にして静まり返った。
動揺する私に先生が『中條さん?』と私の名前を呼ぶ声だけはしっかりと聞こえた。
『サク……』
私の頭の中はそれでいっぱいだった。
私は静まり返った教室を走って出た。
そして隣の教室のドアを開けてサクの姿を探した。
隣のクラスの生徒たちは急に勢いよく開いたドアに驚いて一斉に私の方を見る。
何個か生徒が座っていない席があり、サクの姿はそこにはなかった。
『嫌だよ……サク……』
誰もいない廊下を走り抜ける私。
私の走る足音だけが学校に響いた。
玄関に着くとうちの担任の先生が学校から出るところだった。
『先生ー!』
担任の先生は私の大きな声に驚き履き替えようとしていた靴を落とした。
『中條……どうした?』
『私も病院に連れて行ってください! お願いします!』
先生は落ち着いた声で『中條は教室に戻っていなさい。 先生達が確認してくるから』と言ったが私は大きく首を振った。
『大切な友達なんです!』
先生は少し下を向き何かを考えてからもう一度私の目を見て
『私の車に乗りなさい。確認したらすぐに学校に戻ること』と言った。
私は急いで自分の靴に履き替え先生の車の後部座席に乗り込む。
車内では助手席に隣のクラスの先生もいたが
先生達は何も話すこともなく車のエンジンの音だけが響く。
私は窓の外を見ながら自分の冷たくなって震える手をグッと握った。
こんな時に思い浮かぶのは最悪の展開ばかりで
昨日まで一緒にいたサクのことが遠い懐かしいコトのように感じる。
サクにもう会えなかったらどうしよう。
……嫌だよ。
だって、まだ何も言えてない。
あんなに一緒にいたのに私まだ自分の気持ち伝えられていない。
冷たい。自分の体が自分のものじゃないように感じるくらい。
ーー病院へ着くと受付で先生が看護師さんと話し、そしてその看護師さんに一階の外来の奥の部屋へと案内された。
奥の部屋の前に横に長く伸びた椅子に座った誰かの家族の姿と制服のズボンにTシャツを着たサクの姿があった。
サクは私と先生達に気付き椅子から立ち上がる。
『サキ?先生……』
先生達は今どのような状況なのかサクに事情を聞く。
『……学校に向かっている途中に反対側の道路にいた伊藤がトラックと衝突したんです。
伊藤……とにかくすごい出血で俺すぐに救急車を呼んで今手術室で治療みたいです……』
サクが座っていた椅子には黒いビニール袋に入ったワイシャツとブレザーが入っていたのがチラッとみえた。
先生はそうか。と頷いてサクの肩を少しさすり、そのまま伊藤くんのお父さんとお母さんらしき人たちへと近づき話し始めた。
私はサクに近づいて手を握った。
『……伊藤。あいつすごいよ。自分血だらけなのに焦ってる俺の心配してんだ……俺は大丈夫だからって』
サクは声を震わせながら言った。
『伊藤がさ、次の試合出れそうになかったらバスケ部よろしくな。だって……少しは自分の心配しろよ』
ハァッ……とサクが自分を落ち着かせる為に深く深くため息を吐いた。
私は何も言わずサクの手を握りしめた。
そんな私たちに伊藤くんのお母さんが近づいてくる。
『鈴木くん。 あの子にずっとついててくれてありがとうね。鈴木くんが救急車をすぐ呼んでくれなかったらあの子もうここにいなかったかもしれないから』
伊藤くんのお母さんはそう言ってハンカチで口元を隠しながら何度も何度もありがとう。とサクに何度も頭を下げた。
それから何時間経っただろうか。
先生達は昼にまた来ます。といって一度学校の方へ戻った。
私とサクに一度戻るか確認したが私たちは手術が終わるまでついていてあげたいと先生達に話すとそうしてあげてくれと言ってくれた。
そして昼に学校から私の荷物を持ってきてくれるとの事だった。
伊藤くんのお父さんは私たちに近づき『まだどれくらいかかるかわからないから。良ければ飲んで』といってお茶を手渡してくれた。
お父さんは私とサクの顔を見て『君たちバスケ部の子達?』と尋ねた。
伊藤くんのお父さんは伊藤くんが熱中しているバスケに熱心な人で小学、中学の時に対戦相手で私たちを見たことがあったと言っていた。高校に入ってから伊藤くんの試合を見に行く機会が少なくなったとも話していた。
『そうか、君たちバスケットやめちゃったのか。 うちの子がよく君らの話してたからさ。鈴木くんと中條さんと同じ高校だったって喜んでてさ。 同じバスケ部の人たちなのかなって思っていたよ』
サクは自分が今できる精一杯普通の顔で答えた。
『意外です。 伊藤くん僕のこと嫌っていたかと思っていたので……』
お父さんは首を横に振った。
『嫌いではなかったんじゃないかな。 むしろ逆だと思う。 小学生の時初めて鈴木くんと試合した時同じ地区の同級生でこんなすごい子がいるのかって二人で驚いていたよ。 うちの息子自分が負けてからも鈴木くんの試合全て見に行っていてさ。 ライバルというか…君のファンのようになっていたよ。息子も私も』
苦笑いをしながらサクは『そうだったんですね』と呟いた。
しばらくすると手術室のドアが空いて、伊藤くんのお父さんとお母さんは別室に呼び出された。
そして、中から移動式のベッドの上で眠った伊藤くんが運び出されてきた。
『伊藤くん……』私とサクは眠る伊藤くんに近づく。
すると看護師さんは優しい声で私たちに言った。
『大丈夫。 今麻酔が効いて眠っているだけだから』
『よかった……』と肩を撫で下ろすサク。
昼過ぎになると、病室に警察や作業服を着た人たちが集まってきて
私とサクは今日は学校を欠席すると電話しそのまま家に帰ることにした。
病院を出てから私とサクは特に会話することもなく家の方へ歩き始めた。
まだ帰宅時間までは時間のある日差しが強い秋晴れの道を私とサクは歩いた。
『伊藤くん大丈夫そうで良かったね』と私は隣のサクを見る。
『うん』サクは私を見ることなくそう呟く。
『ねぇ? そう言えばここ覚えてる?』
先ほどまでいた駅前の病院から少し離れてバスケットゴールのある大きい公園があった。
『子供の頃よくパパと3人で休みの日に練習きたよね』
私はそう言ってサクの手を引いてバスケットゴールのある柵の方まで早足で向かう。
柵の中には誰かの忘れたボールがあり私はそれを少し屈んで拾い上げ地面にボールをつき始める。
久しぶりの感触だ。
私の大好きな感触。手から離れたボールが地面から私に吸い付くように戻ってくるボール。
私はドリブルしながら少し離れた場所からゴールに向かってボールを投げ入れる。
『ここで中條選手、相手を振り切ってシュート!』
スポンッ。
私の手から離れたボールは放物線を描いてゴールの輪の中に吸い込まれるように入った。
私はゴール下まで走っていきゴールの網を揺らしながら落ちてくるボールを受け止めそのままサクに両手で押し出すようにボールを投げる。
『鈴木選手にパス!』
サクはバックを落とし、私からのボールを受け取り地面につき始める。
『紗希?』
ダンダンダンッ。
ボールを地面につきながらサクは言った。
『伊藤の代わりにバスケするつもりはないよ。俺』
『……そっか』
『誰かの代わりなんてできないんだよ。誰にも。もし万が一、俺が伊藤の代わりに全国行ったって誰も報われないよ。
紗希がそれ一番わかってるんじゃない?』
うん、わかってる。
自分でやらなきゃ後悔する。
『後悔してんだろ?バスケやめた事』
『……』
『紗希。紗希がまだ後悔してるんなら俺が紗希が守りたいもの一緒に全部守ってやる。毎日ご飯だって作る。美優の迎えも弁当だって毎日作ってやる』
サクは私にボールをフワッと軽く上にあげて渡す。
『……私やりたい』
声を震わせながらサクにも聞こえないくらいの小さい声で呟いた。
サクは笑って頷いた。
『そいえば……紗希、お弁当!』サクは思い出したようにそう言った。
『うーん……もうお弁当悪くなっちゃってるかもしれないからまた今度作るよ!』
『せっかく紗希が作ってくれたんだから食べたい』
『お腹壊してもしらないよ?』
ーー『美優ー! おばさん起こしてきてー! 紗希の試合遅れちゃうだろ……』
エプロン姿でキッチンでお弁当を詰めながら俺は時計を見た。
今日は土曜で美優の幼稚園もおばさんの仕事は休みで朝からみんなで紗希の出場する新人戦の初戦を見に行こうと言っていた。
9時に里美姉ちゃんがここまで車で迎えに来てくれる予定だけれど……あと一時間もないのに準備が全然済んでいない。
部屋の奥の方から
ゔわぁぁぁあぁ!とおばさんの声らしき声が聞こえて
ビクッと驚く。毎朝美優は一体どうやっておばさんを起こしているんだろう……
『サクおはよー! あれ紗希は?』奥からおばさんが起きてきてそう言った。
『もう紗希は学校に向かったよ! 今日紗希の試合だよ』
『そうだったね。今日は紗希の初戦かー。楽しみだなぁ』
紗希はあれから女子バスケ部に入部した。
新人戦の初戦まで3ヶ月しかなく毎日練習漬けだった。
学祭の係の仕事は伊藤の代わりに俺が引き受けた。
学祭は学祭で楽しかったけど、学祭当日も紗希の朝練を手伝ったりとバタバタであんまりよく覚えていない。
中学2年生終わりまで前線で活躍していてセンスがずば抜けていても、やはり成長期の3年間のブランクはとても大きく。
部活だけの練習量では正直全然足りていない様子だった。
毎日の朝練や家に帰ってきて美優を寝かしつけた後も俺と二人で夜遅くまで近くの公園で練習していた。
紗希はオーバーワークの毎日によく耐えたと思う。
でもやっぱり紗希のバカみたいな体力は健在で
人の倍以上の練習量に弱音を吐くこともなく毎日楽しくやっている。
そして、主力の三年が抜けたって事もあるけど
入部3ヶ月で今回の試合でレギュラーを勝ち取ったのは
やっぱりすごい。
もの凄いスピードで力をつけていく紗希にチームの人たちも驚いているようだった。
ピンポーン。
インターホンの画面に里美姉ちゃんが映る。
『よしっ。美優、お姉ちゃんの試合見に行こう!』
紗希の家から少し離れた大きい総合体育館へ着くと
2階の観客用の席へと向かった。
2階へ着くと松葉杖を持った伊藤が席に座って手を振っていた。
『さくー!こっちこっち!』
手を振りながら伊藤に近づく『伊藤にその呼び方で呼ばれるの慣れないんだけど……ほんと。ってか来る早いな?』
『当たり前だろ。今日の中條の試合楽しみに毎日リハビリ頑張ってたんだからな』伊藤は笑って答えた。
体育館の二つの大きいコートではもう試合が始まっていた。その片方で紗希の試合があった。
『やばー、もう試合始まってるよー』と紗希のおばさんは美優と手を繋ぎながら困った表情をした。
『まだ始まったばかりだから大丈夫ですよ!』と俺は時計を確認するが相手チームとの点差はもうかなり開いていた。
『えっ、なんかすごい点差じゃない? 紗希ちゃんのチーム負けてるの??』と里美姉ちゃんが身を乗り出して確認した。
『いや、逆です。 すごい点差つけて中條のチームが勝ってるんです。相手のチームかなり強いところなんですが……』と伊藤は話す。
そうなんだ。と里美姉ちゃんは頷いた。
紗希がいるコートに目を向けるとそこには素早いドリブルで何人もの選手を抜き去る懐かしい紗希の姿があった。
ボールは紗希の手に吸い付くように手元から離れず
まるでボールが意思を持っているようだった。
紗希のドリブルはとても綺麗でそしてとても鋭く切り返して相手の選手を一瞬で抜き去る。
そのたったワンプレーで観客全員が紗希に釘付けになった。
紗希は軽く上に飛び上がり、無駄な力を入れずにフワッとボールをゴールの枠へ放り込むとボールは吸い込まれるように輪の中をくぐった。
紗希のシュートでどよめく体育館の観客。
次の試合を待っている他校の生徒達は『あんな選手去年いたか?』だとか、中條 紗希って何処かで聞いたことあると話している声が聞こえた。
相手チームの監督も焦っているようだった。
それはそうだ。去年まではいなかった。誰も見たこともない、とんでもない選手が今コートを荒らしているんだ。
そして誰よりも楽しそうにプレーしているんだ。
俺だって相手チームだったら焦る。
『伊藤ならあれ止めれるか?』と伊藤に尋ねた。
『いや、多分無理。あんな速攻止められるかよ……しかもまだ全然余力ありそうだしな』
『だよなー。 俺もあれは多分無理そうだ。敵で当たんなくて良かったって思っちゃうよ。紗希見てると』
中学の頃の紗希もずば抜けて上手かったけれど今は全くの別物だ。
何となくプレーしていた紗希ではなくて
今コートの中にいる紗希はたくさん後悔してたくさん悩んで考え抜いてあそこに立っている。
紗希はシュートを決めて自分のポジションに戻りながら俺たちを探しているようだった。
美優の『ねーねー!頑張ってー!』という声が聞こえたみたいで紗希はこちらに気付き『おーい!』と大きい声を出して俺たちに両手を振ってみせた。
『試合に集中しろよなー』と笑う俺に釣られて、おばさんも声を出して笑いながら紗希に手を振った。
『紗希ちゃん、楽しそうだね』と里美姉ちゃんが呟く。
『楽しんでもらわないと困るよ。俺の頑張り無駄になるだろ』
『でも朔太も楽しんで紗希ちゃんの家の家事してるでしょ?』
俺は『もちろん』と笑って頷いた。
うん。今が一番充実してる。
俺も紗希も。
体育館でつまらなそうにしていた紗希が今では懐かしい。
いつだって俺たちは自分で選んで今ここにいるんだよ。
他の誰かじゃなく自分で今の自分を選んだんだよ。
紗希は悪くない。間違ってもいないよ。
だから自分らしくいればいいよ。いつだってさ。
狩りが出来なくなったライオンか……
うーん。でもそのライオンを心配する他のライオンがきっといると思うんだ。
助けになりたいといつも願っているかもしれない。
……紗希。そんな顔するなよ。
…俺もか。きっと人のこと言えない顔してる。
だって、紗希が笑顔でいてくれるのが一番嬉しい。
『うん、今日はお母さん休みだから大丈夫だよ。ありがとう』
『そっか』とサクは画面を見て私の書いた紙を片手に持ちながらカタカタと文字を打ち込んでいく。
『これ、このまま打ち込んでいけば良いだけ? それなら私もやりたい』
私は後ろの方から椅子をサクの座っている隣に移動して
そこに座った。
サクは少し場所をずれて私はパソコンの前に座るとブレザーの袖を肘の方まで捲りマウスを握った。
『ここにカーソルを合わせれば良いの?』
『そうそう。 その枠の中に文字を入れてくんだよ』
私は両手人差し指でキーボードのアルファベットを探しながら文字を打っていった。
普段全くと言って良いほどパソコンもスマホさえもそんなに使わないから
サクみたいに五本の指を器用に使って打つことは出来ない。
サクは少しわざとらしく私の手元をチラチラ見るから
『遅くて悪かったね』と言ったけれど
サクは『そのうちすぐ慣れるよ』と言って微笑んだ。
最近サクはよく笑う。
その笑顔を見ていると
なんだかとても懐かしいような……
なんて言って良いのかわからないけれど
胸の奥がギュッと締め付けられる感じがする。
でもそれは苦しいとはまた違って。
とても心地の良い感じがするんだ。
『サク? 小さい つ ってどうやって出すの?』
キーボードで小さい つ を探しながらサクに話しかけていたが全然返事がないので『ねぇ?』と言いながら隣にいるサクの顔を覗き込んだ。
サクは、スースーと微かに聞こえる程の小さい寝息をたてながら寝ていた。
きっとこれを作る為に相当早起きしていたんだろうな。
学校に来る前に家でもすぐパソコンに打ち込めるように
私が渡した紙の余白の所にメモのようなものが書いてあったり、聞き慣れない何かの単語のようなものも書いてある
多分パソコンの用語か何かだろう。
トンッ。とサクの頭が私の肩の上に乗っかる。
私はびっくりして声が出そうになったけれど
サクが起きてしまわないように思わず息を止めた。
シャンプーの良い香りがする。
そして小さい頃から変わらないサクの匂いもした。
少し懐かしくて安心する匂い。
さとネーもサクと同じ匂いがする感じがするから
きっと家の匂いなんだろうか。
例えが見つからないけど好きな匂い。
みんなが登校してくるまでまだ時間はあるから
寝かせておいてあげよう。
『私の字汚ったないなー』
よくサクは読めたものだ。自分でもたまになんて書いてあるか目を凝らしてみたりしてる。
サクの寝顔を見ながら
汚い私の字に目を凝らすサクが容易に想像できて少し笑いそうになった。
私は鼻でサクの髪を軽く撫でた。
そういえば昔サクに私の字は特徴的だから見たら紗希が書いたってすぐ分かるって言ってたな……
……いつだっけ?
そんなことを考えているうちに気付いたら私も寝てしまったみたいだ。
学校のチャイムの音で私は目を覚ました。
一瞬自分がどこにいるのかわからなくなったけれど肩にサクの頭が乗っていて自分も一緒に寝てしまった事に気付いた。
パソコンの画面の下の方にある時刻を見て私は驚く。
『サク!起きて!もう一時間目始まってる!』
私の声でサクも目を覚ます。
『ごめん、俺寝ちゃってた?』
『私も寝ちゃってた!ってか遅刻遅刻!』
私が指差す時計を見て慌てるサク。
二人で鞄を持って急いで図書室から出て教室へ向かった。
『昼休みに仕上げちゃうからさ。出来たら帰り印刷して渡すよ』と廊下を駆けながらサクは言った。
『うん、じゃあまた後でね!』
私は自分教室に着くと教卓とか逆の後ろの扉から入った。
ドアの開く音でみんなが一斉にドアの方に振り返った。
そしてみんなの反応で先生は気付いた。
『中條、遅刻か? 珍しいなぁ…… 早よ席につけ』
私は『すみません……』と小声で呟きながら早足で窓際にある自分の席へ着く。
一時間目は国語だったか。
良かった…優しい先生の授業で……
国語の先生はメガネをかけた少し小太りの中年の男の先生だった。
いつもワイシャツにネクタイを締め、ぽっこりと出たお腹が特徴的な先生だ。
この見た目と少しゆっくりとした話し方から
みんなはカバ先生とあだ名をつけた。
先生はカバ先生と呼ばれても怒ることもなく
少し自慢気に『カバは強いからなぁ』と照れながら話していたのを覚えてる。
私が鞄から教科書を出している最中、前の席に座ってる美久が振り返る。
『紗希が遅刻だなんて珍しいじゃん。どしたの?』
『朝早く来て図書室で係の資料作ってたら寝ちゃって』
『朝からぁ!?』と美久は目を丸くして驚いていた。
『あの学祭の係活動かぁ……大変だね』
『大変だけど…けど楽しいよ。青春してるぜ。って感じが』
美久は何だそれ!と言いながら口に手を当てて吹き出しそうになっていた。
私は窓から外を眺めながらサクが私の字が特徴的だって
言った時のことを思い出そうとしてた。
……そうだ。さとネーと3人で未来の自分に手紙を書いたタイムカプセル埋めた時だ。
確かあれは私が小学校に入学して間もなかった頃くらい。
なんか書いたかももう思い出せないくらい。
あれから10年くらい経つのかぁ。
サクは何て書いたんだろう。
私はさっきまで肩にあったサクの温もりと匂いを少し思い出してた。
『紗希、なにニヤニヤしてるの?』
美久が窓の外を眺める私を見てそう尋ねた。
『んー、教えない』
ーー今日の授業が終わって帰りのホームルームが始まる前にサクが紙を持って私の教室に来た。
『紗希、係のやつ出来上がったから目通して大丈夫そうなら先生に言って8クラス分印刷してもらって』
私はうん。と言ってサクから用紙を受け取りそれを眺めた。
『つ が大きくなってる所があったから全部直しといたよ』
『あれはサクのこと試したんだよ。しっかり確認してるかどうか』
『そっか』とサクは笑った。
サクの顔を見ると朝のことを思い出してしまう。
みんなが知らないそれどころかサク本人も気付いていない。いうなら私だけの秘密だ。
少しボーッとしてサクの顔に見惚れてしまう。
『どうしたの?』と首を傾げるサク。
我に返って『ううん』と首を振る私。
『サ、サクに何かお礼したいなと思ってさ』
『いいよ、別に』
『明日さ、私サクにお弁当作ってあげるよ』
少し驚いて眉が少し上に上がるサク。
『うん、じゃあ明日楽しみにしてる』そう言って自分の教室に戻って行った。
帰りのホームルーム最中みんながスマホを手に持っ出るのを見て私も通知が来ていないかだけ確認した。
着信が何件かとママから自転車で学校行かなかったの?とメッセージが来ていた。
私はママにパンクしてて歩いてきたと返信しようとしたが
もう一つメッセージが来ていてパンクに気づいてホームセンターでパンク直しておいたよ!とあったので
ありがとう!と返信した。
帰る前に職員室に寄ってみんなに配布する係の紙を担任の先生に渡すとよく出来ていると褒められた。
先生には正直に隣のクラスの鈴木くんに手伝ってもらったと伝えると、先生もサクに学校の緑の掲示板に貼る表示などをよく頼んだりするんだと言っていた。
……そんなことしてたのかサク。
それを休み時間とかにササっと仕上げてしまうのがすごい。
そしてなによりもそれをサクがしていると誰も知らないのがまた、なんというかサクっぽい。
けれど、そんなサクの良さをみんなは知らないけれど分かる人はしっかり分かっていて
色んな人から頼りにされたりしているんだろう。
無愛想に見えるけど、多分誰よりも人の事を考えられるヤツなんだ昔から。
『鈴木って係の役員だったっけ?』と先生は私に尋ねた。
『いえ、私が頼んだんです鈴木くんに』
『そうかー。鈴木と仲良いのか』と先生は少し嬉しそうに話した。
先生もサクは口数が少なくって他の人とあまり関わっている所は見たりすることがなく少し心配だったと話した。
『でも鈴木のことよく聞かれたりするんだよ。一年とか三年の女子生徒に。鈴木くんってどんな感じの人なんですか?って』
そう話しながら先生は私の顔を見て途中で話すのをやめる。
『えっ……中條……怒っとる?』
自分でも気づかなかったけど眉間にかなりシワが寄って私は先生を睨んでしまっていたみたいだった。
『怒ってないです!怒ってないです!』と私は少し焦って弁解した。
サクは中学の頃から人気はあったし、
部活の試合で他の学校へ行ったりした時にも
他校の女子生徒が割と集まってサクの事話したりスマホで写真を隠れて撮る生徒もいたりもしてた。
そんな事にはもう慣れていたし何よりその人達はサクの上っ面の部分だけ。その外側だけを見てそんな事を言っているんだろうなとも思ってたから。平気だと思っていたけれど
やっぱりその事を改めて他の人の口から聞くと
無性に不快な気持ちになる。
別に誰に怒ってるわけじゃないけど、何処にぶつけていいかわからないもどかしさとでも言えばいいんだろうか。
別に自分のモノでも、というか誰のものでもないんだけどね。
その時は少しだけ美優の気持ちがわかる気がするんだ。
ーー学校帰りに明日のお弁当の具材を買いにスーパーへと立ち寄った。
いつもの買い物は値段重視だけれど明日の為に少し予算オーバーを覚悟でサクが喜びそうなお弁当を作ろう。
けど、あまり気合を入れ過ぎたお弁当だと
開けた瞬間引かれたりしたら嫌だから、あまりやり過ぎない程度な感じがいい。
少し良いな。って思われる程度。
丁度いい感じのお弁当ってなんだ……
今まで家族以外の他の誰かにお弁当を作ったことがないどころか私は恋愛経験もあまりない。
……いや。今少し見栄を張った。 あまりではなく一度もない。
……ん?
一体…何を作ればいい……?
世の女性達は彼氏だとかにお弁当を作る時どうしているんだろう一体。
その類の経験や知識はあまりにも私には乏し過ぎて
頭が真っ白になる。
サクの好きなものって一体なんなんだ……
私はスーパーの惣菜コーナーで堪らなくなり
鞄からスマホを取り出しすぐさま電話をかけた。
何回かのコール音の後優しい声で『もしもーし』と応答した。
『あっ、さとネー? 久しぶり!』
『紗希ちゃん、久しぶりだね』
『ちょっと折り入ってご相談がありまして……』
『……ん? どうしたの?』
『ある事情がありまして……サクにお弁当をね。あの、作ろうと思ってるんですが……その』
電話越しでさとネーのフフッと笑う声が聞こえた。
『そういうことか。 サクね小さい頃からお肉はあんまり食べなかったかなぁ。焼き魚とかの方が好きだと思うよ。 あとベタベタな物とか苦手みたいだったよ。例えばおにぎりの海苔とか。 お母さんにお弁当の時おにぎりと海苔は別にしてってよく言ってた』
そういえばサクの家族とよくバーベキューをしていた頃。
肉ばかり食べていた私とは対照的にサクは野菜ばかり食べていたな。
あれ苦手だったから食べていなかったのか……
遠慮しているのかと思ってた。
『でもお弁当で悩んでくれてる事知ったらサクきっと喜ぶよ』
『さとネーに聞いといてよかった。私聞いてなかったら肉づくしのお弁当になってたかも』
『それでも紗希ちゃんが作ってくれれば喜んで食べると思うよ』
『でも肉を使わない料理かぁ。難しそう』
『漬物とか……ひじきの煮物とかきんぴらごぼうとか焼いた白身魚とかかなぁ』
『なんかサクの好きなものお爺ちゃんみたい』
『確かに』とさとネーは声を出して笑った。
『さとネーありがとう。 肉を使わない和食作ってみる!』
よしっ。目指せ幕の内弁当。
そう心の中で呟き野菜コーナーの方にカート押して向かった。
買い物を終え家に着くとママと美優は少し早めに夕食たを食べていた。
『ただいまー。 カレーのいい匂い』
『紗希おかえりー。 冷蔵庫の中にひき肉入ってだからキーマカレー作ったんだ』
『えっ、やったー。ママのキーマカレー好きなんだー』
『学校帰りに買い物行ってきたの?』私の持つエコバッグをみてママが尋ねた。
『うん、明日ね。いつもサクに色々お世話になってるからお弁当作ろうと思って……』
ママは照れる私を見て少しニヤッとしながら『へぇ〜』と何やら察したような顔をした。
私はママから顔を隠すように食材の入ったバックを持ってキッチンの方へ少し早足で歩いて行った。
美優は右手にスプーンを持ち、口の周りをカレーまみれにしながらポカーンとこちらを見ていた。
『ねーねー、顔真っ赤だよ?』
『走って帰ってきたから暑いだけ!』
と私は美優の方を見ないで反論したが、ママは美優の口を拭きながら『お姉ちゃん、ニーニーにお礼したいんだって』と言った。
私はキッチンの引き出しを開けて
前にゆみおばさんにもらった料理本を取り出し
きんぴらごぼうのページを開いた。
『きんぴらごぼう作るのかー。サク確か肉嫌いだったよね』
ママは私の後ろから本を覗き込んでそう言った。
『きんぴらごぼうはあまりに炒めすぎない方がいいよ。ごぼうとにんじんの風味が飛んじゃうから』
私はママの方を振り返って『そうなんだ……』と頷いた。
『きんぴらごぼうならママも得意だから教えてあげられるかな』
そう言って買い物袋からごぼうを取り出し『ごぼうの皮むきからしよっか』と私に手渡した。
『ごぼうの皮ってどうやって剥くの?』
『うーんとね……』と言いながら包丁入れから包丁を取り出して刃先と反対にある背の部分を指して『水につけながら、ここで軽く削いでいくんだよ』と言った。
ママに見守られながらごぼうの皮を剥いて、具材を切っていく。
『紗希、包丁の使い方上手だねー』
『そりゃ上手くもなりますよー。いつもさせてもらってますからー』と言いながらごぼうを縦にしてささがき切りで切っていく。
こうしてママとキッチンに立つのはいつ振りだろう。
多分家にまだパパがいた中学生の頃くらいだ。
初めて友達にバレンタインチョコを作る時に手伝ってもらった時だ。
板チョコを包丁を使って崩そうとした時に
ママは私の包丁の使い方が危なっかしいと言って
ほとんどママが作ってくれた思い出がある。
でも今はママも安心して見ていられるほど上達したみたいだ。
人って変わっていく。まぁいい意味でも悪い意味でも
住む環境が変わったら順応していくって事だろう。
きっとそのままだと生きてはいけないから変わっていかないといけない。
『サクがね、美優を見ていると昔の私を思い出すって言ってたんだ』
『ん? 確かに紗希と性格似てるかもね』
『そうかな。私あんなに図太い性格してないけど……』
『図太くていいじゃない。 言い方は違っても強いって意味でしょ? 紗希も美優もママに似て強く生きてくれて嬉しい』
そう言ってママは私の頭を撫でた。
『ママね。 紗希が男の子にお弁当作ったりだとか普通の女の子らしい事してるのがすごく嬉しい。 紗希にはたくさん、たくさん我慢させることもあるだろうからこうして普通な事がすごく嬉しいんだ』
ママの言葉で今まで我慢してきた事が込み上げてきた。
普通ってきっと難しい。
人それぞれ考え方は違うし環境だって違う。
それを誰かが全体を見てここが普通だよ。って線を引かれたってそれがとっても難しかったりするんだ。
普通じゃなくっていい。
けど落ち着いて暮らしたい。後悔なく生きていたい。
『でも、私も美優も幸せだよ?』
『もう……ママの事泣かせんな……』
そう言いながら私に顔を見せないようにママは後ろを向いた。
きっとみんな不安で必死なんだよね。
私だけじゃない。ママだってそうだよね。
みんな同じで必死に生きてる。
ーー次の日。朝から4人分のお弁当を用意した。
昨日のうちに作ったきんぴらごぼうと白身魚とひじきの煮物とサラダ。
少し見栄えは悪いけどでもママも手伝ってくれたし味には自信がある。
『おはよー』頭掻きながらいつもより早くママも起きてきた。
『ママ今日は起きるの早いね!』
『うん、紗希のお弁当が楽しみ過ぎて起きちゃったよ。 後でサクの感想メールで教えてね』
『うん』そう言って私は美優のお弁当を通園バックの中にしまった。
『ほら、美優着替えよ!もうそろそろ』
少し寝ぼけながらテーブルに着いてロールパンを頬張る美優の髪をクシでとかす。
自分と美優の支度を済ませ『行ってきまーす』と玄関を出るといつものように美優は自転車の後ろに乗せて幼稚園へと向かった。
『じゃあ、今日はお姉ちゃんが迎えにくるからね!』
『えー、にーにーがいいのに!』ムスッとした顔をする美優。
美優を玄関まで送って私はまた自転車にまたがり学校へと向かった。
学校へ向かっている途中に遠くの方で救急車かなにかのサイレンのようなものが聞こえた。
『事故でもあったのかなぁ……』
私は一人そう呟き自転車を走らせる。
ーー学校へ着くと玄関の方で一年生の生徒が何やらうちの生徒が交通事故に遭ったらしいって話しているのが聞こえた。
私は上靴に履き替えながら朝から大変だなぁと思いながら教室の方へと向かった。
自分の教室に入る前にサクがいるかどうか隣の教室を確認したが今日はまだ来ていないみたいだった。
『いつもならもう来てる時間なのに。寝坊かな?』
お弁当は昼に渡そう。
サクの喜ぶ姿を想像してフフッと一人ニヤケそうになる私。
『紗希おはよう!』
『あ、美久おはよう。 さっき玄関でね朝うちの生徒が交通事故に遭ったって話してる人いたよ』
『そうなんだ!怖いね。私たちも気をつけなきゃ』
少し顔を曇らせる美久。
『朝はみんな忙しいからね。私も気をつけよう』
美久は私のバックとは別に持っている荷物に気づいて『何それ?』と尋ねた。
『あぁこれ? サクにお弁当作ってきたんだけど……まだきてないみたいで渡せなかった』
『えぇ!? 紗希、鈴木くんと付き合ってるの!?』
私は手を大きく振りながら否定した。
『違う違う!そんなんじゃないよ! 係の事手伝ってくれたからお礼にね』
『まずは男の胃袋を掴めっていうもんね。紗希、意外と戦略的だね』
私は少し赤くなった頬を仰ぎながら席へつく。
『それって女も同じなのかなぁ』
美久は私のひょんな一言に首を傾げる。
『どうなんだろう……女も胃袋掴まれたら一緒にいたくなるってコト? でもまぁ、料理出来る人っていいよね』
私はわかると深く頷きながら『大きな手で包丁握ってる時とかいいよね。包丁がなんか小さいナイフみたい見える感じが』
『それもう紗希の体験談じゃん。 それもう鈴木くんのこと好きって言っちゃってるよ。 料理できる男といえば、こないだね、テレビで近所の新しいイタリアンの店紹介されてたよ』
『へぇー』と私は頷く。
『そこの店長さん若いのに何年間か海外で料理の勉強してたんだって。 イケメンだったんだけどさぁ。左手薬指に指輪してたよ……奥さん海外の人だったりして』
『美優とママも話してたそこの店の事。今度行きたいねーって』
ガラガラガラ。
やっぱり結婚するなら料理が出来る男だね。って話でまとまった頃くらいに教室の教卓の隣のドアが開いて担任の先生ではない副担任の若い女の先生が入ってきた。
美久は『あれ?今日担任じゃないんだね?』と首を傾げた。
その若い先生は黒板の前に立つと出席簿を机の上に置いて生徒たちが席に着いて少し静かになった頃くらいに話し始めた。
『おはようございます。 耳にしている人もいるかもしれないけど今朝うちの学校の生徒が通学中に交通事故に遭いました。
……事故に遭った生徒は意識がまだ戻っていないそうで今それで病院の方へ、うちのクラスの先生と隣の担任の先生が病院の方へ向かっています』
みんなが少しザワつき始める。
担任と隣のクラスの担任が病院へ向かっているということは
交通事故に遭ったのはうちの学年だったのだろうか……
今朝サクがまだ学校に来ていなかったことを思い出し
妙な胸騒ぎがし始める。
もし、もしサクだったらどうしよう。
美久が私の顔をみて『紗希大丈夫? 顔色悪いよ?』と言った。
みんながざわつく中、先生は続ける。
『……なので、一時間目は実習となります』
ある男子生徒が先生に尋ねた。
『事故に遭ったのって隣のクラスの人?』
『先生も詳しく状況は聞いていないんだけどね。 隣のクラスの生徒みたい……』
教室の中はざわついて騒がしいはずなのに
自分の心臓の音が速くなっていくのに私は気付く。
美久が私を心配して何かを話しかけてくれているのだろうけど……
なんて言っているのか上手く聞き取れない。
自分の呼吸の音がうるさくて。
……確認したい。
サクがちゃんと学校に来ているかどうか確認したい。
それだけ知りたい。今すぐに。
ガッシャン。
私が立ち上がった時にその勢いで私の椅子が倒れた音が教室中に鳴り響く。
その音に驚いて騒がしかった教室が一瞬にして静まり返った。
動揺する私に先生が『中條さん?』と私の名前を呼ぶ声だけはしっかりと聞こえた。
『サク……』
私の頭の中はそれでいっぱいだった。
私は静まり返った教室を走って出た。
そして隣の教室のドアを開けてサクの姿を探した。
隣のクラスの生徒たちは急に勢いよく開いたドアに驚いて一斉に私の方を見る。
何個か生徒が座っていない席があり、サクの姿はそこにはなかった。
『嫌だよ……サク……』
誰もいない廊下を走り抜ける私。
私の走る足音だけが学校に響いた。
玄関に着くとうちの担任の先生が学校から出るところだった。
『先生ー!』
担任の先生は私の大きな声に驚き履き替えようとしていた靴を落とした。
『中條……どうした?』
『私も病院に連れて行ってください! お願いします!』
先生は落ち着いた声で『中條は教室に戻っていなさい。 先生達が確認してくるから』と言ったが私は大きく首を振った。
『大切な友達なんです!』
先生は少し下を向き何かを考えてからもう一度私の目を見て
『私の車に乗りなさい。確認したらすぐに学校に戻ること』と言った。
私は急いで自分の靴に履き替え先生の車の後部座席に乗り込む。
車内では助手席に隣のクラスの先生もいたが
先生達は何も話すこともなく車のエンジンの音だけが響く。
私は窓の外を見ながら自分の冷たくなって震える手をグッと握った。
こんな時に思い浮かぶのは最悪の展開ばかりで
昨日まで一緒にいたサクのことが遠い懐かしいコトのように感じる。
サクにもう会えなかったらどうしよう。
……嫌だよ。
だって、まだ何も言えてない。
あんなに一緒にいたのに私まだ自分の気持ち伝えられていない。
冷たい。自分の体が自分のものじゃないように感じるくらい。
ーー病院へ着くと受付で先生が看護師さんと話し、そしてその看護師さんに一階の外来の奥の部屋へと案内された。
奥の部屋の前に横に長く伸びた椅子に座った誰かの家族の姿と制服のズボンにTシャツを着たサクの姿があった。
サクは私と先生達に気付き椅子から立ち上がる。
『サキ?先生……』
先生達は今どのような状況なのかサクに事情を聞く。
『……学校に向かっている途中に反対側の道路にいた伊藤がトラックと衝突したんです。
伊藤……とにかくすごい出血で俺すぐに救急車を呼んで今手術室で治療みたいです……』
サクが座っていた椅子には黒いビニール袋に入ったワイシャツとブレザーが入っていたのがチラッとみえた。
先生はそうか。と頷いてサクの肩を少しさすり、そのまま伊藤くんのお父さんとお母さんらしき人たちへと近づき話し始めた。
私はサクに近づいて手を握った。
『……伊藤。あいつすごいよ。自分血だらけなのに焦ってる俺の心配してんだ……俺は大丈夫だからって』
サクは声を震わせながら言った。
『伊藤がさ、次の試合出れそうになかったらバスケ部よろしくな。だって……少しは自分の心配しろよ』
ハァッ……とサクが自分を落ち着かせる為に深く深くため息を吐いた。
私は何も言わずサクの手を握りしめた。
そんな私たちに伊藤くんのお母さんが近づいてくる。
『鈴木くん。 あの子にずっとついててくれてありがとうね。鈴木くんが救急車をすぐ呼んでくれなかったらあの子もうここにいなかったかもしれないから』
伊藤くんのお母さんはそう言ってハンカチで口元を隠しながら何度も何度もありがとう。とサクに何度も頭を下げた。
それから何時間経っただろうか。
先生達は昼にまた来ます。といって一度学校の方へ戻った。
私とサクに一度戻るか確認したが私たちは手術が終わるまでついていてあげたいと先生達に話すとそうしてあげてくれと言ってくれた。
そして昼に学校から私の荷物を持ってきてくれるとの事だった。
伊藤くんのお父さんは私たちに近づき『まだどれくらいかかるかわからないから。良ければ飲んで』といってお茶を手渡してくれた。
お父さんは私とサクの顔を見て『君たちバスケ部の子達?』と尋ねた。
伊藤くんのお父さんは伊藤くんが熱中しているバスケに熱心な人で小学、中学の時に対戦相手で私たちを見たことがあったと言っていた。高校に入ってから伊藤くんの試合を見に行く機会が少なくなったとも話していた。
『そうか、君たちバスケットやめちゃったのか。 うちの子がよく君らの話してたからさ。鈴木くんと中條さんと同じ高校だったって喜んでてさ。 同じバスケ部の人たちなのかなって思っていたよ』
サクは自分が今できる精一杯普通の顔で答えた。
『意外です。 伊藤くん僕のこと嫌っていたかと思っていたので……』
お父さんは首を横に振った。
『嫌いではなかったんじゃないかな。 むしろ逆だと思う。 小学生の時初めて鈴木くんと試合した時同じ地区の同級生でこんなすごい子がいるのかって二人で驚いていたよ。 うちの息子自分が負けてからも鈴木くんの試合全て見に行っていてさ。 ライバルというか…君のファンのようになっていたよ。息子も私も』
苦笑いをしながらサクは『そうだったんですね』と呟いた。
しばらくすると手術室のドアが空いて、伊藤くんのお父さんとお母さんは別室に呼び出された。
そして、中から移動式のベッドの上で眠った伊藤くんが運び出されてきた。
『伊藤くん……』私とサクは眠る伊藤くんに近づく。
すると看護師さんは優しい声で私たちに言った。
『大丈夫。 今麻酔が効いて眠っているだけだから』
『よかった……』と肩を撫で下ろすサク。
昼過ぎになると、病室に警察や作業服を着た人たちが集まってきて
私とサクは今日は学校を欠席すると電話しそのまま家に帰ることにした。
病院を出てから私とサクは特に会話することもなく家の方へ歩き始めた。
まだ帰宅時間までは時間のある日差しが強い秋晴れの道を私とサクは歩いた。
『伊藤くん大丈夫そうで良かったね』と私は隣のサクを見る。
『うん』サクは私を見ることなくそう呟く。
『ねぇ? そう言えばここ覚えてる?』
先ほどまでいた駅前の病院から少し離れてバスケットゴールのある大きい公園があった。
『子供の頃よくパパと3人で休みの日に練習きたよね』
私はそう言ってサクの手を引いてバスケットゴールのある柵の方まで早足で向かう。
柵の中には誰かの忘れたボールがあり私はそれを少し屈んで拾い上げ地面にボールをつき始める。
久しぶりの感触だ。
私の大好きな感触。手から離れたボールが地面から私に吸い付くように戻ってくるボール。
私はドリブルしながら少し離れた場所からゴールに向かってボールを投げ入れる。
『ここで中條選手、相手を振り切ってシュート!』
スポンッ。
私の手から離れたボールは放物線を描いてゴールの輪の中に吸い込まれるように入った。
私はゴール下まで走っていきゴールの網を揺らしながら落ちてくるボールを受け止めそのままサクに両手で押し出すようにボールを投げる。
『鈴木選手にパス!』
サクはバックを落とし、私からのボールを受け取り地面につき始める。
『紗希?』
ダンダンダンッ。
ボールを地面につきながらサクは言った。
『伊藤の代わりにバスケするつもりはないよ。俺』
『……そっか』
『誰かの代わりなんてできないんだよ。誰にも。もし万が一、俺が伊藤の代わりに全国行ったって誰も報われないよ。
紗希がそれ一番わかってるんじゃない?』
うん、わかってる。
自分でやらなきゃ後悔する。
『後悔してんだろ?バスケやめた事』
『……』
『紗希。紗希がまだ後悔してるんなら俺が紗希が守りたいもの一緒に全部守ってやる。毎日ご飯だって作る。美優の迎えも弁当だって毎日作ってやる』
サクは私にボールをフワッと軽く上にあげて渡す。
『……私やりたい』
声を震わせながらサクにも聞こえないくらいの小さい声で呟いた。
サクは笑って頷いた。
『そいえば……紗希、お弁当!』サクは思い出したようにそう言った。
『うーん……もうお弁当悪くなっちゃってるかもしれないからまた今度作るよ!』
『せっかく紗希が作ってくれたんだから食べたい』
『お腹壊してもしらないよ?』
ーー『美優ー! おばさん起こしてきてー! 紗希の試合遅れちゃうだろ……』
エプロン姿でキッチンでお弁当を詰めながら俺は時計を見た。
今日は土曜で美優の幼稚園もおばさんの仕事は休みで朝からみんなで紗希の出場する新人戦の初戦を見に行こうと言っていた。
9時に里美姉ちゃんがここまで車で迎えに来てくれる予定だけれど……あと一時間もないのに準備が全然済んでいない。
部屋の奥の方から
ゔわぁぁぁあぁ!とおばさんの声らしき声が聞こえて
ビクッと驚く。毎朝美優は一体どうやっておばさんを起こしているんだろう……
『サクおはよー! あれ紗希は?』奥からおばさんが起きてきてそう言った。
『もう紗希は学校に向かったよ! 今日紗希の試合だよ』
『そうだったね。今日は紗希の初戦かー。楽しみだなぁ』
紗希はあれから女子バスケ部に入部した。
新人戦の初戦まで3ヶ月しかなく毎日練習漬けだった。
学祭の係の仕事は伊藤の代わりに俺が引き受けた。
学祭は学祭で楽しかったけど、学祭当日も紗希の朝練を手伝ったりとバタバタであんまりよく覚えていない。
中学2年生終わりまで前線で活躍していてセンスがずば抜けていても、やはり成長期の3年間のブランクはとても大きく。
部活だけの練習量では正直全然足りていない様子だった。
毎日の朝練や家に帰ってきて美優を寝かしつけた後も俺と二人で夜遅くまで近くの公園で練習していた。
紗希はオーバーワークの毎日によく耐えたと思う。
でもやっぱり紗希のバカみたいな体力は健在で
人の倍以上の練習量に弱音を吐くこともなく毎日楽しくやっている。
そして、主力の三年が抜けたって事もあるけど
入部3ヶ月で今回の試合でレギュラーを勝ち取ったのは
やっぱりすごい。
もの凄いスピードで力をつけていく紗希にチームの人たちも驚いているようだった。
ピンポーン。
インターホンの画面に里美姉ちゃんが映る。
『よしっ。美優、お姉ちゃんの試合見に行こう!』
紗希の家から少し離れた大きい総合体育館へ着くと
2階の観客用の席へと向かった。
2階へ着くと松葉杖を持った伊藤が席に座って手を振っていた。
『さくー!こっちこっち!』
手を振りながら伊藤に近づく『伊藤にその呼び方で呼ばれるの慣れないんだけど……ほんと。ってか来る早いな?』
『当たり前だろ。今日の中條の試合楽しみに毎日リハビリ頑張ってたんだからな』伊藤は笑って答えた。
体育館の二つの大きいコートではもう試合が始まっていた。その片方で紗希の試合があった。
『やばー、もう試合始まってるよー』と紗希のおばさんは美優と手を繋ぎながら困った表情をした。
『まだ始まったばかりだから大丈夫ですよ!』と俺は時計を確認するが相手チームとの点差はもうかなり開いていた。
『えっ、なんかすごい点差じゃない? 紗希ちゃんのチーム負けてるの??』と里美姉ちゃんが身を乗り出して確認した。
『いや、逆です。 すごい点差つけて中條のチームが勝ってるんです。相手のチームかなり強いところなんですが……』と伊藤は話す。
そうなんだ。と里美姉ちゃんは頷いた。
紗希がいるコートに目を向けるとそこには素早いドリブルで何人もの選手を抜き去る懐かしい紗希の姿があった。
ボールは紗希の手に吸い付くように手元から離れず
まるでボールが意思を持っているようだった。
紗希のドリブルはとても綺麗でそしてとても鋭く切り返して相手の選手を一瞬で抜き去る。
そのたったワンプレーで観客全員が紗希に釘付けになった。
紗希は軽く上に飛び上がり、無駄な力を入れずにフワッとボールをゴールの枠へ放り込むとボールは吸い込まれるように輪の中をくぐった。
紗希のシュートでどよめく体育館の観客。
次の試合を待っている他校の生徒達は『あんな選手去年いたか?』だとか、中條 紗希って何処かで聞いたことあると話している声が聞こえた。
相手チームの監督も焦っているようだった。
それはそうだ。去年まではいなかった。誰も見たこともない、とんでもない選手が今コートを荒らしているんだ。
そして誰よりも楽しそうにプレーしているんだ。
俺だって相手チームだったら焦る。
『伊藤ならあれ止めれるか?』と伊藤に尋ねた。
『いや、多分無理。あんな速攻止められるかよ……しかもまだ全然余力ありそうだしな』
『だよなー。 俺もあれは多分無理そうだ。敵で当たんなくて良かったって思っちゃうよ。紗希見てると』
中学の頃の紗希もずば抜けて上手かったけれど今は全くの別物だ。
何となくプレーしていた紗希ではなくて
今コートの中にいる紗希はたくさん後悔してたくさん悩んで考え抜いてあそこに立っている。
紗希はシュートを決めて自分のポジションに戻りながら俺たちを探しているようだった。
美優の『ねーねー!頑張ってー!』という声が聞こえたみたいで紗希はこちらに気付き『おーい!』と大きい声を出して俺たちに両手を振ってみせた。
『試合に集中しろよなー』と笑う俺に釣られて、おばさんも声を出して笑いながら紗希に手を振った。
『紗希ちゃん、楽しそうだね』と里美姉ちゃんが呟く。
『楽しんでもらわないと困るよ。俺の頑張り無駄になるだろ』
『でも朔太も楽しんで紗希ちゃんの家の家事してるでしょ?』
俺は『もちろん』と笑って頷いた。
うん。今が一番充実してる。
俺も紗希も。
体育館でつまらなそうにしていた紗希が今では懐かしい。
いつだって俺たちは自分で選んで今ここにいるんだよ。
他の誰かじゃなく自分で今の自分を選んだんだよ。
紗希は悪くない。間違ってもいないよ。
だから自分らしくいればいいよ。いつだってさ。
狩りが出来なくなったライオンか……
うーん。でもそのライオンを心配する他のライオンがきっといると思うんだ。
助けになりたいといつも願っているかもしれない。
……紗希。そんな顔するなよ。
…俺もか。きっと人のこと言えない顔してる。
だって、紗希が笑顔でいてくれるのが一番嬉しい。


