いつもならリラックスタイムのシャンプーが、頭の中が黒川さんで一杯になってて、ただただ疲れるだけだった。
 鏡の前に戻って、真っ赤な顔の自分と遭遇。こ、こんな状態では、恥ずかしすぎる。

「早瀬さん、ちゃんとスマホに僕のアドレス登録してくれました?」

 野村さんがニコニコ笑いながら、タオルドライした頭に、マッサージオイルをつけた手がじっくりと揉みだす。
 見た目の柔らかさに比べて、大きな手が、やっぱり男性なんだよなって、意識させる。

「ご、ごめんなさい、忘れてました」

 エヘ、と笑うと

「やっぱり。ちゃんと登録してくださいね。で、僕にメールくださいよ?」

 ぎゅっぎゅっと、頭を揉まれると気持ちよくて、心地よさに飲み込まれそうになる。

「そう言えば」

 ドライヤーをコンセントに差し込むと、すごい勢いで髪を乾かし始めた。

「早瀬さんって、販売のお仕事されてるんですって?」

 わしゃわしゃと乾かされると、まるで犬にでもなった気分になる。

「あ、はい」
「今度、遊びに行こうかなぁ」
「遊びじゃなくて、買いにきてくださいよ」

 指先で、乾いた髪をなでながら、鏡越しに私の目を見る。

「どんなお店なんです?」
「ん~、簡単に言っちゃえばお土産屋さんかなぁ」
「お土産屋さん?」
「そう、近くに観光名所があるから、その手のグッズとか」
「へぇ、そうなんですね」

 すっかり乾いたようなので、ドライヤーを止めて、片づけ始める野村さん。
 それと同時に、黒川さんがこちらに向かってくるのが目の端に見えた。

「じゃあ、近いうちに遊びに行きます」

 ニコリと笑って離れていく野村さんに、

「お待ちしてます」

 そう言いながら手を振っていると、気が付けば、私の背後に笑顔の黒川さんが立っていた。

 ……なぜだろう。
 黒川さんの微笑みが、なんだか怖いと感じる。

「今日は、少し整えるだけにしますね」
「はい」

 毛先を触りながら、チラッと鏡の中の私の目を見る。

 ――な、なに? なに?

 いつもなら目が合ったら、ニッコリと笑うのに、それがなく、真面目な顔。

 シャリシャリシャリ

 髪が切られていく音に、ついつい耳を傾けてしまうのだが、それが不意に止まった。

「?」

 もう一度、鏡の中の黒川さんを見ると、今度は、口元は下がってて、明らかに不機嫌そうに見える。

「どうかしました?」
「……いえ?」

 キュッと口角をあげて笑っているように見えるのに、目元は笑ってない。
 怖い黒川さんに、違うドキドキを感じて、不安になる。
 そんな私の感情が見えてしまったのだろうか。
 フッと、困ったような顔の黒川さん。

「まったく……はぁっ……」

 思い切りため息をつく黒川さん。
 いつもなら鏡越しでしか見られない彼の顔が、私の真横に来た。
 きっと振り向いたら、キスしてしまう。それくらい近くに彼の顔が寄ってきている。

「野村と仲良くしすぎです」

 耳元で、ボソッと言うから、彼の息が耳をかすめて、変に感じてしまって、危うく、『ひっ!?』と、声を出してしまいそうになるのを、両手で抑え込む。
 真っ赤になった私を、今度は鏡越しに、黒川さんが楽しそうな顔で見ていた。






「ありがとうございました~」

 最後は、いつものようににこやかに見送っている黒川さんに、ペコリと頭を下げて、美容室を出た。
 なんだか、ずっと見られている気がして、振り返らずに家に向かおうとしたのだが。

「あっ!」

 今更、思い出した。
 私がなんで、こんな大きなカバンでわざわざ美容室に来たのか。
 黒川さんの意地悪で、すっかり頭の中から飛んでいってしまったこと。
 慌てて、振り向いたら、まだ黒川さんは入口で私のほうを見ていたから、猛ダッシュで黒川さんのところに戻った。

「忘れ物ですか?」

 びっくりした顔で、私を見下ろす黒川さん。
 こんな表情もするんだ、と、少しだけ嬉しくなる。

「あ、あのっ!」
「どうかしましたか?」

 珍しく心配そうな顔をしている黒川さん。
 いつも、どこかポーカーフェイスなのに、今日はたくさんの表情を見せてくれる。
 私は大きなカバンの中に、手を入れて、小さなチョコレートの箱を、スィっと目の前に差し出した。

「こ、これ、遅くなったんですけどっ」
「えっ?」
「バ、バレンタインのチョコです」

 こんなふうに直接渡すなんて、学生時代でもやらなかった。
 恥ずかしくて、まともに黒川さんの顔を見ることもできず、最後には押し付けるように渡す。
 まともに顔を上げることもできなかったけど、黒川さんが手にしたのを確認したら、猛ダッシュで、家に向かったのだった。