「……シュテルン?」
 ステラが首を傾げると、にゃーんという鳴き声が返ってくる。
 やはり、シュテルンに間違いない。

「また迷い込んだのですね。シャーリーさんを呼ばないと」
 立ち上がろうとしたステラのスカートの裾を、シュテルンのモフモフの前足が踏んで押さえている。
 何とも可愛らしいが、今は邪魔だ。

「ちょっと待て、ステラ」

 そっと前足を持ち上げようとしたステラの耳に、猫の鳴き声とは違う低くて艶のある声が届いた。
 顔を上げれば、そこにはモフモフの神と見紛う黒猫がいるだけだ。

「そういえば、グレン様はどこに行ったのでしょう」

 何か話があるとか言っていたのに、いつの間に部屋を出て行ったのか。
 もしかして、扉を開けたその時にシュテルンが入り込んだのかもしれない。

「ここにいる」

 今度こそ、空耳にしてはハッキリと聞こえた。
 キョロキョロとあたりを見回していると、手にプニプニとした感触がする。
 シュテルンがステラの手を踏んでいるのだとわかったと同時に、黒猫の口が動いた。

「だから、ここにいるぞ」


「モフモフのシュテルンの口から、グレン様の声が聞こえます。これは……腹話術というやつですか」

 ステラは見たことがないが、人形を使って一人で二役を演じる芸があると聞いたことがある。
 それならば、シュテルンの口の動きに合わせてグレンがしゃべったということだろう。

「もしかして、これを披露するためにシュテルンは飼われているとか?」

 美貌の伯爵の相棒ならば、並みの人形では務まらない。
 そこで色合いの似た美しい猫を飼っているのだろうか。
 実に贅沢な趣味だが、これが結婚前に話しておきたいことなのだとしたら、何とも反応しづらい。

「それで、グレン様はどこに隠れているのでしょうか」
「だから、ここだ。俺が、グレンだ」

 シュテルンの可愛らしい口から色気あふれる大人の男性の声が聞こえるというのは、何とも不思議な感覚だ。
 だがステラとしては、にゃーんという猫の鳴き声のほうが魅力を感じる。
 それに、何といってもシュテルンの毛並みは美しく、撫で心地がいい。

 現実逃避を始めたステラの膝の上に、黒猫が乗る。
 体を伸ばして前足を肩に乗せたかと思うと、反対の足でステラの頬をペチペチと叩いた。


「だから、俺がグレンだ。猫の姿になる呪いなんだ」

 肉球によるペチペチの気持ち良さにちょっと恍惚としていた脳に、何だかとんでもない情報が送り込まれてきた。

「これが、呪い、ですか」

 そもそも、ステラがグレンと契約したのは呪いの中和。
 呪いの解呪方法は知っているが不可能だというので、少しでも和らげようとしているのだ。

 最初に訊ねた時に答えてもらえなかったので、言いにくいのだろうと思って特に追究せずにいたが。
 まさかの展開だ。

「こんな、可愛い……いえ、モフモフ……ではなく、幸せの……ああ、違います。とにかく、グレン様は猫の姿に変えられる呪いをかけられているのですね?」
「そうだ」

 これは、思っていたよりも厄介だ。

 全身の形を変えるとなると、結構な実力者の仕業である。
 となれば、当然解呪が難しいわけで。

 なるほど、解呪方法を知っているのに不可能というのはそういうことか。
 例えば人差し指がかゆくなる程度の呪いならば、解呪もくしゃみ三連発くらいで済む。

 今回は全身を完全に変化させている上にそれを維持し、しかもこれだけ美しい毛並みで可愛らしいのだ。
 そう簡単にどうにかできるものではないのだと察しはつく。


「……あら? シュテルン、ということは……?」

 シュテルンがグレンということは、グレンがシュテルンということで。
 それはつまり、あの黒猫に話したことはグレンに筒抜けだったわけだ。
 猫姿の呪いという衝撃の事実に気を取られていたステラは、背中を冷たい汗が伝うのがわかった。

 シュテルンの目の前で泣いた気がするし、そこは恥ずかしい。
 だが、それはステラが個人的に羞恥を我慢すればいいだけなので、まだ問題ない。

 それよりも気になるのは、ステラの魔女としての……『ツンドラの女神』としての仕事のこと。
 ハゲ治療や毛生え薬のことだ。

 これがバレれば信用問題にかかわるし、顧客に申し訳が立たない。
 グレンがそこら中にハゲ治療のことを吹聴するとは思いたくないが、情報を漏らせば被害を受けるのは顧客で、巡り巡ってステラもダメージを受けるのだ。

 必死に今までのシュテルンとの思い出を遡る。
 モフモフの誘惑が思考を鈍らせそうになるのに耐えて思い返すが、恐らくは魔女のことに関しては何も話していない。

 偶然とはいえ、幸運だった。
 やはり、常日頃から余計なことは言わないほうがいい。

 盛大な溜息の後に拳を握り締めるステラに驚いたのか、シュテルンは膝の上から降りてソファーにちょこんと座った。


「落ち着いたか?」
「はい、ありがとうございます。何とかギリギリ生存していました」

「生存? ……気持ちが悪いとか、思わないのか?」
「そんな馬鹿なことがありますか。シュテルンの毛並みは絹のように滑らかで、そのモフモフは至極の存在です。気持ち悪いどころか、可愛らしすぎて困っています!」

 シュテルンは宝石のような赤い瞳をこぼれんばかりに見開いている。
 そういえば、黒猫にしては珍しい色だと思っていたが、それもグレンだったからなのか。

「そうか。……ありがとう」

 その穏やかな声に、急に目の前の黒猫はグレンなのだと意識し始める。
 何だかドキドキしてきたのだが、これは一体どういうことだろう。

 ステラの乙女心は消え去っているので、そういう類ではないはず。
 となると、これは危機感か。

『ツンドラの女神』の秘密をバラしたかもしれないという恐怖が、ステラの鼓動を早めているのだろう。
 そうに違いない。

 納得してうなずくステラの目の前には、目を細める美しい黒猫がいた。