美夜は家に戻ったが、このままぼうっとしているわけにはいかなかった。

 ストリートを見に来ていたファンに事情を説明しなければならない。

 あの場にいた大勢が誤解していることだろう。雪美の言葉を間を受けたファンは美夜が横恋慕した、不倫したと思っている。その誤解を解かなければならなかった。

 美夜は辰美がしたように振る舞った。あの時、辰美が周りにアピールしたのと同じように、これは誤解が産んだ事件であり、自分と辰美の間にそのような事実はないのだと。いつもより長いブログの記事にそれをしたためた。

 ────私、なにをしてるんだろう。

 嘘を書き連ねる間、ふと疑問に思った。

 こんなことをせず、正々堂々と辰美と付き合っていると言えばいい。自分は女を売っているわけではない。ピアノを聞いてもらうために活動しているのだ。売れっ子アイドルようにコソコソするなんて。

 けれど仕方なかった。ファンの数なんて知れている。まだ駆け出しの自分がそのファンを失えばどうなるか。音楽は、聞いてくれる人間がいるから成り立つ。ないがしろにはできない。

 今の状態で彼氏がいることを公表すれば、培ってきたものが台無しになってしまう。一所懸命やってきた音楽が軽んじられてしまうことになる。

 辰美もそれを分かっているから、ああして他人のフリをした。

 ────どうして、隠れなきゃならないんだろう。

 後ろめたいことをしてるわけじゃない。浮気じゃない。横恋慕でもない。なのに周りはみんな、自分と辰美に後ろ指を指す。ただ好きで一緒にいるだけなのに、なぜ咎められなければならないのか。

 悔しかった。そして、悲しかった。




 それからは散々だった。あの騒動を見ていた部外者にSNS上に動画を上げられていたり、否定的な意見も言われた。いつも見にきてくれていたファンも、何人かいなくなった。

 仕方ないと思えないことなだけに、美夜はショックだった。辰美のことだと尚更だ。

 その間辰美からの連絡は完全に途絶えた。毎日のように辰美のことを思い出していたが、自分から連絡も出来なかった。

 それからどれくらい経っただろう。突然辰美から、メッセージが届いた。

『話したいことがある。どこかで会えないか』

 それはかつて穏やかに笑い合っていた恋人からの連絡とは思えないほど、冷たかった。

 美夜は「元気だったか?」。「心配してたんだ」。そんな優しい言葉を期待していた。辰美も自分と同じように傷ついたと分かっていても、慰めあえることを望んだ。

 あの騒動以降、ライブ活動やストリートを自粛していた美夜には有り余る時間があった。生活のためにバイトや演奏の仕事は引き受けていたが、他人から依頼されていない仕事は止めている。だから、いつでも会いに行くことが出来た。

『いつがいいですか』

 同じように愛想もへったくれもない返事を返す。子供っぽいと分かっていながらも、そうするしか出来なかった。

 辰美の返事が返ってきて、今日の夜会うことになった。

 美夜はそれまで家の中で静かに過ごした。ピアノすら弾かず、ぼうっとした。やがて時間が来ると静かに立ち上がって準備をした。

 特別おしゃれはしなかった。雪美から送り付けられた手紙をバッグにしまい、家を出た。

 心の中は不思議なほど静かだった。例えるなら、無だ。考えなければならないことがあるのに、なにも考えられない。多分、心が考えることを放棄しようとしている。辛いことがたくさんありすぎて、麻痺したのかもしれない。

 指定された場所は辰美の仕事場に近かった。滅多に降りない駅で降りて、地上へ出ると、驚くほど閑散としていた。店もなにもない。大きな道路の横にポツポツと木々が並んでいるだけ。人通りも少なかった。

 ここは川に近いようだ。隅田川だろう。横をビュンビュン大きなトラックが走り抜けていく。

 やがて歩いていくと遊歩道に出た。川のすぐ隣にある遊歩道には街灯が灯っていた。川を挟んで向こう側にあるマンションには煌々とした明かりが灯っていて、川に反射している。

 その道をゆっくりと、川沿いに歩く。しばらく歩いていると、遊歩道の向こうに人影が見えた。

 美夜の靴音が鳴ると、その人物は振り返った。

 スーツ姿の辰美は、夜のせいなのか、やつれて見えた。いつか見たのと同じ無表情を見て、急に体が強張る。

「久しぶりだな」

 それはいつか聞いたものよりも穏やかな声だった。辰美はほんの少し笑ったように見えた。美夜も安心して微笑んで見せた。

「怪我は……大丈夫か?」

「はい……なんともありあません」

 打たれた時はかなり痛かったが、腫れもしなかった。あの時受けた傷は見える痛みよりも心の方だった。

「……すまなかった。君を巻き込んでしまった。あの後、大変だっただろう。お客さんにも……すまないことをした」

 辰美はブログを見たのだろう。だからファンがどのような反応をしたか知っているはずだ。気まずそうに俯いた。

 大変なことではあったが、美夜は辰美が心配してくれただけで嬉しかった。あの事件で辰美の心が離れてしまったのではないかと心配していたのだ。

 辰美は優しい辰美のままだ。なにも変わっていない。

「私のことは気にしないでください。お客さんにも説明してわかってくださいました。驚いた人もいましたけど、それは仕方ありませんから」

「君にもっと早く伝えておくべきだった。そうすればあんなんことにならなかったかもしれないのに……」

 美夜がじっと見つめると、辰美はまた気まずそうに目を伏せた。

「雪美とは、裁判をすることになったんだ」

「え……」

「この間の事件が起こる前から、そうしようと思って話を進めていた。俺は彼女からの連絡を無視していたんだが、彼女が俺の職場に嫌がらせを始めて……もうそれしかなかった」

 辰美が嫌がらせを受けていた?

 美夜はすぐあの手紙のことを思い出した。自分だけに飽き足らず、まさか辰美にまでそんなことをするなんて────。

 それだけ雪美は辰美とやり直したかったのだろうか。だからあんなにも怒っていたのだろうか。だが、怒りの矛先が違う。その方法も、間違ったものばかりだ。

 ────今渡しておくべきだ。美夜は鞄の中から茶封筒を取り出した。

「……実は、私もなんです」

 そう言いながら封筒を渡すと、辰美の視線がカッと見開いた。

「多分……辰美さんの、元奥さんからだと思います」

 美夜が言う前に辰美は中を開いて紙を取り出した。その手がブルブルと震える。やがて「すまない」と、ひどく申し訳なさそうに謝った。

「……怖かっただろう。こんなものを……俺がもっと早くどうにかしていれば……」

 結局、辰美を悲しませてしまった。元妻と裁判をすることになるなんて、どれほどストレスか分からない。温厚な辰美なら尚更だ。

 辰美は今まで一度も元妻に対し恨言を言わなかった。ひどいことをされたにも関わらず、自分の責任だと悔やんでいた。

 なのにどうして辰美ばかり責められて、悲しい思いをしなければならないのだろう。

 平気です。と言おうとした時だった。

「別れよう」