送られてきた書類のことがどこかで広がったのか、その日から辰美は妙な視線で見られることが多くなった。オフィスの空気もなんとなく暗い。
その原因はなんとなく分かっていた。
あの書類を開けた人物が部長ではなかったのなら、噂が広まっていてもおかしくはない。日向辰美は浮気していたのだと。それでこんな事になっているのだ。
だが、辰美は自分で弁解するわけにはいかなかった。そんなことをすると余計にみっともない。なにも知らないふりをして仕事を続けた。
なんとなく静かなオフィスに、電話の音とキーボードのタイプ音が聞こえる。以前はもっと賑やかだったオフィスだが、今日も朝からこの調子だ。
辰美は昼休憩になるとトイレに立った。社員達もそれぞれ席を立ち休憩し始める。
用を済ませオフィスに戻ろうとした時だった。通りがかった給湯室の近くで、辰美は聞き覚えのある名前を聞いた。
「えっ、じゃあやっぱり日向さん浮気してたの!?」
「らしいよお。事務の子が見ちゃったんだって。浮気相手もの写真も入ってたみたい」
「やばいね、それ。全然そんなことしなさそうな人なのにさあ」
ドクン、と心臓が音を立てる。早鐘のように鳴り始めて、辰美は居た堪れなくなってその場を離れた。
────どうしてこんなことになるんだ。
なにが間違っていたのだろう。あのまま雪美の浮気を見過ごしていればよかったのだろうか。それとも美夜と付き合わなければよかったのか。それとも雪美をやり直すべきなのか。どうして誰も自分をそっとしておいてくれないのだろう。
今まで精一杯尽くしてきた仕事場から見捨てられれば、自分に残るものなどない。だが、このままここにいてもいいのだろうか。いっそ辞めた方がいいのだろうか。
昼食を食べる気にもなれず、そのままデスクで仕事をした。朝から集中できていなかったから、そのほうが仕事は進んだ。
やがて十三時近くになると、またオフィスに人が戻ってきた。辰美は顔を上げることなく、手元の仕事を進めた。
「日向課長」
休憩から戻ってきた有野と上坂がデスクに近付いた。有野はなんだか真剣な顔でデスクの上に缶コーヒーを置いた。いつも辰美が飲んでいたブレンドコーヒーだ。
そしてやや大きな声で、まるで周りに言い聞かせるように言った。
「日向課長、無理しないでくださいね」
「え?」
「別れた奥さんから嫌がらせを受けてるんですよね!? 絶対に負けちゃダメですよ。私達協力しますから!」
辰美はぽかんとした様子で呆けた。続けて上坂が言った。
「困った時は弁護士に頼むといいですよ。あんな嫌がらせしてきたんですから、絶対慰謝料取れます。俺、大学の知り合いが弁護士してるんです。よかったら紹介します」
「ま、待ってくれ。どういうことだ?」
なぜ二人は突然こんなことを言うのだろう。噂のことを知っているのだろうか? だとしても、あれが嫌がらせだと知っているわけがない。
「別れた奥さんから嫌がらせの手紙が届いたんですよね?」
有野は当然知っている、と言わんばかりの態度で答えた。
「どうして……」
「だって課長、私に紹介してくれたじゃないですか」
────大切にしたい人。有野は困ったように笑った。
まさか。有野は美夜がそうだと知っているのか。教えていないから知らないはずなのに、有野の態度はどこか悟ったような様子だ。
「だから、負けちゃダメです。課長はこれからその人と幸せになるんですから。モラハラ妻なんか無視しないと」
「でも無視したらヤバいんじゃないですか? あんな手紙送ってくるような人なのに」
「そこは弁護士に頼めばいいじゃない。なんとかしてくれるでしょ」
二人の和やかな雰囲気のせいか、肩の力が一気に抜けた。うっかり泣いてしまいそうだ。
この二人は自分を信じてくれていたのだ。噂を信じた人間もいたが、そうでない人間もいた。自分の全てが否定されたわけではなかったのだ。
「……すまない」
「謝っちゃダメですよ。課長は被害者なんですから!」
有野が親指を立てる。すかさず横から上坂が「被害者に親指立てるのっておかしくありません?」と突っ込んだ。辰美は久しぶりに笑顔を浮かべることができた。
その原因はなんとなく分かっていた。
あの書類を開けた人物が部長ではなかったのなら、噂が広まっていてもおかしくはない。日向辰美は浮気していたのだと。それでこんな事になっているのだ。
だが、辰美は自分で弁解するわけにはいかなかった。そんなことをすると余計にみっともない。なにも知らないふりをして仕事を続けた。
なんとなく静かなオフィスに、電話の音とキーボードのタイプ音が聞こえる。以前はもっと賑やかだったオフィスだが、今日も朝からこの調子だ。
辰美は昼休憩になるとトイレに立った。社員達もそれぞれ席を立ち休憩し始める。
用を済ませオフィスに戻ろうとした時だった。通りがかった給湯室の近くで、辰美は聞き覚えのある名前を聞いた。
「えっ、じゃあやっぱり日向さん浮気してたの!?」
「らしいよお。事務の子が見ちゃったんだって。浮気相手もの写真も入ってたみたい」
「やばいね、それ。全然そんなことしなさそうな人なのにさあ」
ドクン、と心臓が音を立てる。早鐘のように鳴り始めて、辰美は居た堪れなくなってその場を離れた。
────どうしてこんなことになるんだ。
なにが間違っていたのだろう。あのまま雪美の浮気を見過ごしていればよかったのだろうか。それとも美夜と付き合わなければよかったのか。それとも雪美をやり直すべきなのか。どうして誰も自分をそっとしておいてくれないのだろう。
今まで精一杯尽くしてきた仕事場から見捨てられれば、自分に残るものなどない。だが、このままここにいてもいいのだろうか。いっそ辞めた方がいいのだろうか。
昼食を食べる気にもなれず、そのままデスクで仕事をした。朝から集中できていなかったから、そのほうが仕事は進んだ。
やがて十三時近くになると、またオフィスに人が戻ってきた。辰美は顔を上げることなく、手元の仕事を進めた。
「日向課長」
休憩から戻ってきた有野と上坂がデスクに近付いた。有野はなんだか真剣な顔でデスクの上に缶コーヒーを置いた。いつも辰美が飲んでいたブレンドコーヒーだ。
そしてやや大きな声で、まるで周りに言い聞かせるように言った。
「日向課長、無理しないでくださいね」
「え?」
「別れた奥さんから嫌がらせを受けてるんですよね!? 絶対に負けちゃダメですよ。私達協力しますから!」
辰美はぽかんとした様子で呆けた。続けて上坂が言った。
「困った時は弁護士に頼むといいですよ。あんな嫌がらせしてきたんですから、絶対慰謝料取れます。俺、大学の知り合いが弁護士してるんです。よかったら紹介します」
「ま、待ってくれ。どういうことだ?」
なぜ二人は突然こんなことを言うのだろう。噂のことを知っているのだろうか? だとしても、あれが嫌がらせだと知っているわけがない。
「別れた奥さんから嫌がらせの手紙が届いたんですよね?」
有野は当然知っている、と言わんばかりの態度で答えた。
「どうして……」
「だって課長、私に紹介してくれたじゃないですか」
────大切にしたい人。有野は困ったように笑った。
まさか。有野は美夜がそうだと知っているのか。教えていないから知らないはずなのに、有野の態度はどこか悟ったような様子だ。
「だから、負けちゃダメです。課長はこれからその人と幸せになるんですから。モラハラ妻なんか無視しないと」
「でも無視したらヤバいんじゃないですか? あんな手紙送ってくるような人なのに」
「そこは弁護士に頼めばいいじゃない。なんとかしてくれるでしょ」
二人の和やかな雰囲気のせいか、肩の力が一気に抜けた。うっかり泣いてしまいそうだ。
この二人は自分を信じてくれていたのだ。噂を信じた人間もいたが、そうでない人間もいた。自分の全てが否定されたわけではなかったのだ。
「……すまない」
「謝っちゃダメですよ。課長は被害者なんですから!」
有野が親指を立てる。すかさず横から上坂が「被害者に親指立てるのっておかしくありません?」と突っ込んだ。辰美は久しぶりに笑顔を浮かべることができた。