時計が十時を回ると、美夜はだんだん居心地悪くなってきた。辰美の「予告」のせいだ。

 あれから明日行く場所のことを二人で相談したり他愛無い話で盛り上がっているが、辰美が動く気配はない。

 しかし、いつまでもこんな生殺しみたいなことをしているわけにはいかない。

「あの、お風呂入ってきてもいいですか」

 美夜は思い切った。辰美は表情を変えず「ああ、いいよ」と返事をした。

 部屋の中は散々眺めたから浴衣がある場所は知っている。着替えと下着を持って、バスルームの中に閉じこもった。

 石造の壁は重厚感があって大人っぽい。けれどそこにいる釣り合わない自分。大きな鏡が情けない自分の顔を映していた。

 ちょっとぐらい辰美が恥ずかしがっている姿をみれるかもしれないと期待したが、まったく無駄に終わった。やっぱり辰美は歳上だ。

 湯船にお湯を張って、台の上に置いてあった入浴剤を入れてみる。
待っている間ぐるぐると手でかき回しながらこれからのことを考えた。

 ────もしかして、辰美さんする気がないんじゃ……。

 今までその行為に踏み込まなかっただけに、十分あり得る展開だった。

 そもそも辰美は元妻の浮気シーンを見たせいでそういった行為に対し拒否感があるのかもしれない。いくら場所を変えても、不快に感じてしまわないだろうか。

 美夜はお湯が溜まり切る前にさっさと脱いで頭から浸かった。

 こんなことばかり考えているなんて、やっぱりまだ子供だ。初めてでもないのに、どんな顔で出ていけばいいか分からなかった。



 バスルームから出ると、辰美は同じ位置にいた。スマホをいじっていたらしい。

「辰美さん、お風呂空きました」

 声を掛けるとようやく顔を上げた。辰美は美夜の姿を見て少し目を見開いた。多分浴衣を着ているからだろう。

「なんだかお祭りみたいな気分ですよね。あ、着付け間違ってたかな……」

「似合ってるな」

 そう言うと、辰美は立ち上がった。自分も浴衣の着替えをとって美夜の横を通りながら「ゆっくりしてて」とバスルームに消えた。

 お色気作戦なんて通用する相手じゃないと分かっているが、思ったよりもドライな反応だ。やっっぱり、今日は「なし」だろうか。

 どれくらい経ってからか、ようやく辰美が出て来た。同じホテルの浴衣を着ているが、辰美が着るとなんだか絵になる。すっとした佇まいが余計に大人っぽく見えた。

「え?」

 辰美は美夜を見て首を傾げた。

 美夜と言えば、少し前からベッドの上で正座していた。特に意味はないが、辰美のことを考えていたら勝手にそこに落ち着いたのだ。

 だが、こんな状態でいたら待っていたと思われるだろうか。自分も辰美のように、ソファでゆっくりしておくべきだったと後悔した。

 辰美はしばし美夜を見つめた後、

「海でも見ようか」と言った。

 ────え?

 辰美は微笑むとそのままテラスの方へ歩いた。美夜は慌てて後に続いた。

 テラスは小さいが、二人には十分な広さだ。手すりの向こうには道路を挟んで海が見える。月の明かり以外は真っ暗だ。

「……波の音って、なんだか落ち着きますね」

「都会にいると聴くことがないからな。やっぱりここにして良かったよ。夜の海が綺麗って書いてあったんだ」

「夜の海が見たかったんですか?」

「『美夜』は、美しい夜って書くだろう。だから君と夜を見たかったんだ」

 月明かりに照らされた辰美の顔が薄ら微笑んだ。

 ────私の馬鹿。せっかく辰美さんが色々考えてくれてるのに、やましいことばっかり考えて。

「……ごめんなさい辰美さん。変な態度ばっかり取ってしまって……」

「いいや。俺が色々言ったから気にしてたんだろう」

「辰美さんといると、自分が子供っぽく見えて嫌なんです」

 なんだかやるせなくなって俯く。すると、前触れなく辰美の体に引き寄せられた。浴衣から伸びた骨張った腕が見えた。辰美の腕だ。

 辰美はそのまま何も言わず、ゆっくりと口付けた。ゆっくりと、この間の口付けと同じように。

 美夜は息を止めて、ただそれに応えた。やがて辰美の指がすっと脇腹に触れた。身八口(みやつくち)から差し込まれた手が確かめるように、焦らすように背中をなぞった。思わずぞくりと痺れを感じた。

「子供はそんな顔をしないよ」

 波音の合間に低い声が聞こえる。

 やっぱり、この人の前だと自分はとても子供だ。そう感じた。

「続き……してください」

 そうせがむと、押し付けるようにもう一度唇が触れた。

 気が付くと、体は波音の聞こえない部屋の中に戻っていた。辰美が電気を消して、部屋の中が真っ暗になる。

 ベッドの上で浴衣が擦れる音。辰美の手が湿った髪に絡まって、何か追い立てられているように唇を貪る。そのまま首筋を辿った唇は、筋を這うように濡れた舌を這わせた。

 真っ暗だった闇はいつの間にか消えていた。目が慣れてきた頃に、ようやく辰美の顔が見えた。

 ひどく、困ったような顔をしている。苦しそう、にも見える。けどその顔がなんだか扇情的だ。あんなに余裕たっぷりだった辰美を自分がおかしくしているのだと思うと、胸の奥がきゅんと疼いた。

 そんな辰美を見ていたいのに、それ以上見ている余裕はない。暗闇の中で脱がされていく自分が恥ずかしくて、ただ横を向いて恥ずかしさを誤魔化していた。

「歳上」の辰美の目に、自分がどう写るかが怖かったのかもしれない。

 自分の声以外、部屋から消えた。辰美はただずっと無言のまま触れた。時々切羽詰まったような息を吐く音が聞こえる以外は。それがなんだか必死に見えて、勝手に辰美の声を頭の中で想像した。

 辰美が同じところばかり弄べばそこが好きなんだと思ったし、声をあげると殊更触れられる。

 好きだとか、愛しているの一言がなくても辰美が自分のことを求めているのだと分かった。むしろ、言葉にはしてほしくなかった。この恋をそんな簡単な言葉でまとめることはできない。

 ────これは、いけない恋?

 けれど、恋と呼ぶにはあまりにも────。