その日の晩、美夜は辰美にお礼の電話をした。

 電話をかけて数コール目、ようやく辰美は電話に出た。

『もしもし、美夜さん?』

「あの……こんばんは。お疲れ様です」

『こんばんは。どうしたんだ?』

「えっと……朝は、ありがとうございました」

『ああ、突然行ってすまなかった」

「いえ、そんな。来てもらえて嬉しかったです」

『おいしかったよ。会社からそんなに遠くないから、また行こう』

 また来てくれる。それは大変嬉しいことだが、辰美がしょっ中職場に現れたら仕事どころではなくなるかもしれない。

「ごめんなさい。私、バタバタしてて情けないところ見せちゃって……」

『いや、俺が突然行ったのが悪かった。次行く時は事前に知らせよう』

 スピーカーの向こうから辰美の申し訳なさそうな声が聞こえてくる。これで遠慮されてバイト先に来られなくなったらそれはそれで嫌だ。なんて、矛盾しているだろうか。

「気にしないでください。私は嬉しかったので」

『それならいいんだが……ああ、そういえば。美夜さん今度代官山でライブするんだろう? 席、まだ空いてる?』

 月末の土曜に予定しているライブのことだ。ブログで告知を出したばかりだから、まだそれほど知られていないと思っていた。辰美はしっかりチェックしていたらしい。もちろん、席はガッツリ空いている。あまり褒められたことではないが────。

「はい。大丈夫ですよ」

『そうか。じゃあ予約するよ。その日は早く上がれそうだから』

「あ……」

 ────どうしよう。辰美さんに言っておくべきかな。

 一応、付き合うようになったわけだから少し気をつけようと思った。アイドルではないから気にしなくともいいが、中には嫌がりそうなファンもいる。文句を言われる筋合いなどないが、辰美が責められるのは嫌だ。

 しかし、どちらかといえば気をつけるべきなのは辰美ではなく自分の方かもしれない。辰美をみるとどうしてもニヤニヤしてしまう。

『どうしたんだ?』

「いえ、あの……こんなこと言うと失礼かと思うんですけど……私たちのこと、当面の間ファンの人たちには隠そうと思うんです」

『ああ、そのことか。うん、俺もそうした方がいいと思う』

 辰美はあっさりと承諾した。嫌がられるとは思っていなかったが、こんなに簡単に納得されるとも思っていなかったので驚いた。

「え……いいんですか?』

『以前、妙な男に付き纏われていただろう。俺も毎回助けてやれるわけじゃない。君の安全のためにもそのことは隠した方がいいと思う。何かあったら大変だ』

 なんだか複雑だ。事務所に入っているわけでもないのに堂々と交際できないなんて。だが、それだと辰美が肩身の狭い思いをしないだろうか。ただでさえ控えめなのに、また遠慮してしまわないだろうか。

「……ごめんなさい。私と付き合ったばっかりに……」

「君が謝ることじゃない。夢に向かって頑張るのはいいことだ。……そうだ、ちょうど、俺の部下が君のライブを見に行きたいって言ってるんだ。連れて行ってもいいかな』

「辰美さんの部下の人ですか?」

 突然部下の話をされて美夜は戸惑った。なぜ、この流れで部下の話をしたのだろう。

『その子は女性なんだが……俺が勧めたら聞いてみたいって言ってね。女性を連れて行けば、少しは他の目も誤魔化せないかと思うんだが、どうかな』

「なるほど……確かに、いい案ですね」

 辰美が疑われているかはともかくとして、辰美が女性を連れて行けば多少の目眩しになるだろう。少なくとも、疑われる確率は減るはずだ。これでエゴサーチした時に「MIYA 彼氏」の検索を見ずに済むかもしれない。

『ありがとう。一応、予定を聞いているよ。行けそうならい今度のライブに一緒に連れて行くから』

「分かりました。分かったらまた連絡ください」

『じゃあ、また』

 通話は切れた。美夜は一息ついてベッドに寝転ぶ。

 ────普通に付き合いたいだけなのにどうしてこんなことになるんだろう。

 どれもこれも、自分が売れてないのがいけない。もっと売れていればファンが一人減るぐらい大した痛手ではないのに。自分を女性としてじゃなく、ピアノだけを純粋に聞きに来てくれるファンが増えれば。

 だが、そういう意味では辰美こそそこから逸脱してしまった存在だ。彼も、純粋にピアノだけを聞きに来ていたわけではなかったのだから。

 ファンと辰美と区別する気はない。ライブを聞きにくる人はみんな平等だ。少なくとも、『MIYA』として活動している間はそうすることが自分の責任だと思っている。

 だが、私生活までとやかく言われるのは嫌だ。しかしそれも、売れるまでの辛抱なのか────。

「……仕事のやり方、もうちょっと考えないとなあ」