「美夜さん? もしかして寝た?」

 誰かの声が聞こえて慌てて意識が覚醒する。辰美が上から眺めていた。どうやら、あのままうたた寝してしまったらしい。

「……っごめんなさい! 寝てました!」

「ああ、いいよ。疲れただろうから休もう。また明日もあるし」

 辰美は風呂上がり姿で楽な格好をしていた。持っていたペットボトルをベッドの横に置くとベッドの縁に腰掛けた。

 ────えっ、もう寝るの?

 ベッドの横に置かれた置き時計は十時過ぎを指していた。明日は日曜だ。辰美は休みだし、一緒に過ごす約束をしている。

 それとも、自分が寝ていたから気を遣ってくれているのだろうか。

 しかしこれではまるで親戚の家に来たみたいだ。「恋人」に接する態度じゃない。

「……辰美さん。私────」

 こんなことを聞いたら面倒な女だと思われるだろうか。だが、気持ちもないのにこのままズルズルしていても無意味だ。話し合わなければ辰美の気持ちが分からない。

「どうして……私に触れようとしないんですか?」

 その質問をすると、辰美は表情を凍らせた。何か不味いことを聞いてしまったのだと思った。

 そして、「ごめん」と一言言った。

 ────ごめんって、私に触れたくないってこと?

 短い一言は考えを悪い方へ悪い方へと導いてしまう。

「それは……私のこと女性として見れないってことですか」

「……っ違う。そうじゃない」

「じゃあ、どうして?」

 部屋はしばらく静かになった。辰美はなにか躊躇っている様子で、ずっと顔を背けていた。やがて痺れを切らした美夜が「教えてください」と呟くと、ようやくその思い口を開いた。

「……君が聞いたら、きっと不愉快になると思って言わなかったんだ」

「それでも、聴きたいんです」

 辰美がただ流されて付き合ったとは思えない。彼の態度には愛情が感じられた。だから、余計に分からなかった。どうして辰美が触れようとしないのか。

「……別れた妻の話をしただろう」

 美夜は静かに頷いた。

「妻とは円満な関係を築けてると思っていた。自分では、ちゃんとしてるつもりだった。あの日も、早く帰って喜ばせようと思ってた。けど、夢が終わるのは一瞬だ」

 悲しい声。記憶。だが、辰美の表情は無だ。悲しい気持ちに顔がついていかないのだろうか。

「別れる時、散々言われた。あなたは自分の意見を言おうとしない。私のことは放ったらかし。裏切ったのはあなただって」

「そんな……浮気したのは奥さんなんでしょう」

「そうだけど、その通りなんだ。俺は確かに自分の意見を言わなかった。家を決めるときも、結婚の時も、妻がしたいようにさせた。それが一番だと思っていたし、そうすれば妻も喜ぶと持ってたから。けど妻はそれを望んでいなかった。結果的に、妻は俺が心を変えることを望んで浮気したみたいだけど、今度は俺の方が無理になった」

「そんなの、当たり前です。自分の奥さんが浮気してどうやって受け入れろって言うんですか……」

「それでも……俺は俺なりに妻のことが好きだった。だからあの瞬間、頭が真っ白になった。悪い夢を見てるんだと思った。自分ではまともに話せそうになくて、弁護士に頼んで話をしてもらって、色々聞かされた。妻がずっと裏切っていたことも、知りたくないことも。それが、君と会った少し前のことだ。それから君のおかげでなんとか前向きになって人生を楽しめるようになったんだけど、思ったより、引きずっててね」

「……もしかして、まだ《《ここ》》が怖いんですか?」

 辰美は返事しなかったが、それはイエスという返事なのだろう。

 今更辰美の傷を理解した。それが思っていたよりもずっと深いことを。

 ────私、なんにもわかってなかったんだ。

 浮気するような妻なんて別れて正解だと思っていた。自身の父と母が反発して別れた時も、そんな「重し」とは離れるべきだと思っていた。

 だから母もきっと大好きな仕事ができて安心していると思っていた。だが────。

 もしかしたら、母は辛かったのかもしれない。一度は好きで結婚した相手だ。喧嘩別れなんてしたくなかったはずだ。

 夫婦の間には愛情がある。多かれ少なかれ、最初は必ずあったはずだ。それを忘れていた。

「どういう関係を築いても、いつかはなくなるような気がして、怖いんだ。積み上げても裏切られたら一瞬で終わる。全部なくなるんだ」

「ごめんなさい……私、何も考えずに……」

「ごめん……君が悪いんじゃないんだ。ただ、俺が吹っ切れてないだけなんだ。君と付き合うって決めたのに、情けない話だよ。君が離れるのが怖くて触れられないなんて」

「いいえ……」

 必死に首を横に振る。美夜は辰美の手のひらをギュッと握った。

 もうこの人に悲しい思いをさせたくない。年下の小娘にできることなんてないかもしれないが、自分にできることをやっていきたい。辰美が自分のピアノを聞いてくれたように。

「じゃあ……私と一緒に楽しい思い出を作っていきませんか。今は嫌な記憶もたくさんあると思うけど、一つずつ、いろんなことに挑戦するんです。ほら、修学旅行に行ったら友達とベッドでトランプとかするじゃないですか。それとか、ここに大きいスクリーンを置いて、映画を見るんです。あと、プラネタリウムとか……」

 思いつく限りのことを言ってみる。なんて稚拙な提案だろうか。だが、辰美はクスッと笑みを浮かべた。

「楽しそうだな」

「きっと、楽しいですよ」

「君がいたらもっと楽しそうだ」

「じゃあ、一緒にいていいですか」

「ああ……もちろんだ」

 電気を消して横になる。窓の外の明かりがうっすら室内を照らしていた。

 広いベッドだと思っていたが、二人で寝ると意外と狭く感じた。辰美の体が大きいからかもしれない。

「君がいるから、今日はよく寝れそうだ」

「辰美さん」

「ん?」

「……ちょっとだけ、手を握ってもいいですか」

 小さな要求のはずなのにやけに緊張する。隣から穏やかな声が聞こえてきた。思っていたものとは、別の。

「美夜、こっちに来て」

 突然呼び捨てにされたことに驚きながらも、美夜は辰美との距離を詰めた。布団の中で辰美の手が伸びて、美夜の体を抱きしめる。暖かくて、優しい。想像してた通りだ。

 やがて顔が近付いた。黙って目を瞑ると、唇に柔らかいものが触れた。辰巳の唇だ。

 唇の動きは控えめなのに、腕の力は強い。どこか焦らされているような気がしてもどかしい。辰美の手のひらが髪をゆっくりと梳いた。

「美夜、ありがとう」

 愛しているではなく、ありがとうと言った。だが、美夜は十分幸せだった。

 その言葉を言えるほど、自分たちの関係は成熟していない。まだ短い、浅い関係だ。

 それでも辰美がこうして心を開いて、そばにいてくれる。穏やかに笑ってくれるなら、その役に立てるなら、それでいい。今はそれでいい。