二十九歳のクリスマス。美夜は一千人規模の会場でソロコンサートを開いた。美夜の中では過去最高の席数を誇る会場で、たった一人で演奏する。
一千人と聞くととてつもない数を想像するが、実際のところ関係者だけで百人ほど入るから大したことではない。満員御礼というわけでもない。
美夜としては半分以上埋まればある程度の形になるので十分だと考えていた。
大きな会場を埋められるほどの実力はまだ自分にはない。だからこれはファンサービスだ。たまにはいい会場でいい音を聞いてほしいという自分なりのプレゼント。だから、利益にならなくても赤字にさえならなければ良かった。
しかし当然、そんな規模のコンサートを一人で企画できる訳もなく、あれから世話になりっぱなしの田村オーナーにイベンターを紹介してもらった。おかげでややこしい手続きなんかはやらずに済んだ。
当日。美夜は緊張しながら控え室に入った。
大きな会場だけあって、今まで使った控室とは比べものにならないぐらい綺麗だった。
持ってきた鞄の中から衣装を取り出して、壁一面の鏡を見ながら着替える。
今日このために買った黒いドレスは、アーティスト仲間からは地味だと不評だった。ステージに立つのだからもっと明るい華やかな方が似合うと言われた。喪服を連想したのかもしれない。
だが、美夜にも言い分があった。
────美しい夜。いつか夜の海を見た時、辰美に言われた言葉だ。最初辰美と出会った頃ライブで着ていた衣装も黒だった。
だから、今日は黒がよかった。
持ってきた鞄の中から小さな箱を取り出す。中には花の髪飾りが入っていた。いつか辰美からもらった花を加工して作ったものだ。
あれから年月が経っているから、あまり触りすぎるとぼろぼろ崩れてしまう。自分では加工できなくて、花屋に依頼した。
────今日、辰美さんは来てるかな。
自分でチケットの管理をすることがなくなったから、もう誰が来ているかもわからない。あれから一度も辰美の姿を見ていない。
ストリートピアノを弾いても、ライブをしても、辰美は現れない。
もう、自分のピアノなんて好きじゃなくなったのかもしれない。けれどそれでも、辰美ともう一度会いたい。辰美にピアノを聞いてほしい。
セットした頭にスターチスの花を差す。この花が色褪せても、きっと自分の思いは変わらないだろう。自分が辰美のために作ったあの曲と同じで────。
やがて開演を迎えた。客席には大勢の人が座っていた。美夜が思うよりも、ずっと多く。
ステージの真ん中に用意されたグランドピアノがライトに照らされて艶々と光っている。ずっと弾きたかったグランドピアノだ。
ゆっくりとステージの中央に向かって歩いた。一度だけ客席に向かってお辞儀をして、椅子に座る。ライトがピアノだけを残し、辺りが暗くなる。
音が一つ鳴る。二つ鳴る。一つ目の曲は、未題と称したオリジナル曲だ。名前を決めていながらも、まだ誰にも名前を教えていない曲。
この曲を知っているのは、美夜と、その曲を聞いたたった一人の観客だけだ。きちんと完成したら、もう一度聞かせたいと思っていた。大きなステージで彼に、聞かせたかった。
ピアノを弾いていると、懐かしい記憶が蘇る。辰美がCDを買ってくれたこと。慰めてくれたこと。ピアノを買ってくれたこと。
この曲を弾けば、この曲を初めて聴かせた時のように、背中から抱きしめてくれる気がした。
誰にも認められなかったいけない恋。けれど自分たちは確かに、真剣に、愛し合っていた。
指が鍵盤を叩く。この音が誰かに届くように。一番聞いて欲しい人に届くように、と。
会場が広くなればなるほど探している人は見えない。
でも、彼はここにいる。この場所のどこかで私のピアノを聴いている。そう思いたかった。
一千人と聞くととてつもない数を想像するが、実際のところ関係者だけで百人ほど入るから大したことではない。満員御礼というわけでもない。
美夜としては半分以上埋まればある程度の形になるので十分だと考えていた。
大きな会場を埋められるほどの実力はまだ自分にはない。だからこれはファンサービスだ。たまにはいい会場でいい音を聞いてほしいという自分なりのプレゼント。だから、利益にならなくても赤字にさえならなければ良かった。
しかし当然、そんな規模のコンサートを一人で企画できる訳もなく、あれから世話になりっぱなしの田村オーナーにイベンターを紹介してもらった。おかげでややこしい手続きなんかはやらずに済んだ。
当日。美夜は緊張しながら控え室に入った。
大きな会場だけあって、今まで使った控室とは比べものにならないぐらい綺麗だった。
持ってきた鞄の中から衣装を取り出して、壁一面の鏡を見ながら着替える。
今日このために買った黒いドレスは、アーティスト仲間からは地味だと不評だった。ステージに立つのだからもっと明るい華やかな方が似合うと言われた。喪服を連想したのかもしれない。
だが、美夜にも言い分があった。
────美しい夜。いつか夜の海を見た時、辰美に言われた言葉だ。最初辰美と出会った頃ライブで着ていた衣装も黒だった。
だから、今日は黒がよかった。
持ってきた鞄の中から小さな箱を取り出す。中には花の髪飾りが入っていた。いつか辰美からもらった花を加工して作ったものだ。
あれから年月が経っているから、あまり触りすぎるとぼろぼろ崩れてしまう。自分では加工できなくて、花屋に依頼した。
────今日、辰美さんは来てるかな。
自分でチケットの管理をすることがなくなったから、もう誰が来ているかもわからない。あれから一度も辰美の姿を見ていない。
ストリートピアノを弾いても、ライブをしても、辰美は現れない。
もう、自分のピアノなんて好きじゃなくなったのかもしれない。けれどそれでも、辰美ともう一度会いたい。辰美にピアノを聞いてほしい。
セットした頭にスターチスの花を差す。この花が色褪せても、きっと自分の思いは変わらないだろう。自分が辰美のために作ったあの曲と同じで────。
やがて開演を迎えた。客席には大勢の人が座っていた。美夜が思うよりも、ずっと多く。
ステージの真ん中に用意されたグランドピアノがライトに照らされて艶々と光っている。ずっと弾きたかったグランドピアノだ。
ゆっくりとステージの中央に向かって歩いた。一度だけ客席に向かってお辞儀をして、椅子に座る。ライトがピアノだけを残し、辺りが暗くなる。
音が一つ鳴る。二つ鳴る。一つ目の曲は、未題と称したオリジナル曲だ。名前を決めていながらも、まだ誰にも名前を教えていない曲。
この曲を知っているのは、美夜と、その曲を聞いたたった一人の観客だけだ。きちんと完成したら、もう一度聞かせたいと思っていた。大きなステージで彼に、聞かせたかった。
ピアノを弾いていると、懐かしい記憶が蘇る。辰美がCDを買ってくれたこと。慰めてくれたこと。ピアノを買ってくれたこと。
この曲を弾けば、この曲を初めて聴かせた時のように、背中から抱きしめてくれる気がした。
誰にも認められなかったいけない恋。けれど自分たちは確かに、真剣に、愛し合っていた。
指が鍵盤を叩く。この音が誰かに届くように。一番聞いて欲しい人に届くように、と。
会場が広くなればなるほど探している人は見えない。
でも、彼はここにいる。この場所のどこかで私のピアノを聴いている。そう思いたかった。