「竜君、大丈夫?」
「全然平気。大げさだよな」
 体育の時間に野球をしていると、手首にデッドボールを受けて腫れ上がってしまった。学校からすぐに病院に行くように言われ早退して診察をしてもらうと捻挫だそうだ。
 春希が心配して様子を見に行くと、竜は手首をぐるぐる巻きにテーピングされながらも、けろっとしていた。
「会計すませてくるから、ちょっと待っててね」
 総合病院の窓口は、ひっきりなしに人がやって来る。人でごった返していたので、春希は人手の少ない出口付近で待ってもらい、会計をしに行くと、会計待合の席に見覚えのある後ろ姿があった。
「あれ?千秋?」
 千秋は今、仕事の時間のはずだが、体調でも悪かったのだろうか。心配になった竜が話しかけると、千秋は驚いて手に持っていた物を急いで鞄にしまった。その際、竜の手のテーピングが目に入り、千秋の顔色がさっと変わる。
「なんで竜が病院に?どうしたの、その手」
「体育でボールが当たって」
「もう、びっくりさせないで。喧嘩したのかと思ったわ」
「俺、そんなに血の気が多く見える?」
 殴り合いの喧嘩なんてしたことないのになぁ、と少しショックを受ける竜。
「千秋こそ、体調悪いの?」
「大丈夫よ」
「じゃあなんで、病院に?」
 千秋の鞄に目をやると、閉め忘れたジッパーから手帳が見えた。母子手帳だ。
「千秋、赤ちゃんできたの?」
 稜輔と千秋の子供ということは、甥っ子か姪っ子ができるのか。嬉しいな。うきうきする竜とは裏腹に浮かない顔をする千秋。
「でも、まだ稜輔に言えてなくて」
「なんで?」
「まぁ、色々あるじゃない?」
「稜輔と祖父ちゃんのこと?大丈夫だよ。稜輔ならうまくやるって」
「そうね」
 勇気づけたつもりが、千秋は困り笑顔を浮かべた。
 竜は一緒に帰ろうと言うが、千秋は会計に時間がかかるから先に家に帰ってなさいと言う。春希を待たせていたことを思い出して、彼女のもとへ急ぎ、千秋の妊娠を報告した。春希も嬉しそうにしていた。
「春希は、もしも彼氏が実家と仲悪かったら気を使う?」
「え?」
「あ、俺は関係良好だから!」
「う、うん」
「あ、違う!そういう意味じゃなくて」
 戸惑いながら赤面していく春希に、竜は遠回しに告白しかけたことに気がつき、慌てて稜輔の過去を説明した。
「稜輔さんは今も実家とうまくいってないの?」
「俺を引き取る時に帰って来たらしいんだけど、よく分からない」
 竜の親の葬式の日に、竜を引き取りたいと当時の当主である祖父と話す稜輔を見ていたが、それから二人が会話をしている所を見たことがない。稜輔が実家に戻ってきているにも関わらず、次代の当主は遠縁の親戚の伸之輔が就任した。ということは、今も仲が悪いのかもしれない。
 







 家に着き、竜は晩ごはんの用意をしようとしたが、妊婦に出していい食事が分からない。
「どうしようかな」
「たしか、生ものはダメだった気がするけど、千秋さんが帰ってきたら聞いてみたら?」
 まだ夕飯には早い時間だし、聞いてから作っても遅くならない。千秋なら病院で注意も受けているだろうし、本人に聞くのが一番いいだろう。
「でも竜君、手にテーピング巻いてあるのに料理できるの?」
 ガチガチにテーピングされた竜の手を見て春希が心配する。
「利き手じゃないから、なんとか」
 固定されているからやっぱり難しいか、お惣菜でも買ってこようか、やっぱりやってみようかと春希と相談していると、千秋が帰って来た。道中で合流したのか、稜輔も一緒に家に入ってきた。竜が二人に話しかけようとするが、千秋が稜輔に深刻な顔をして話しているのが見えて、思わず棚の影にしゃがんで隠れてしまった。
「なんで隠れるの?」
 春希が不思議そうに聞くが、竜は首を横に振って、春希の腕を引っ張って側に座らせた。
「稜輔、話があるんだけど」
「どうしたの?今日の病院と関係あること?」
 稜輔は千秋の体に具合が悪いと思っている様子でソワソワと心配そうにしている。
「赤ちゃんいるのよ。ずっと隠していてごめんなさい」
 千秋は何故か申し訳なさそうに稜輔に報告する。稜輔はそんな千秋を優しく抱きしめた。
 竜達は、盗み見している状況だが、映画のワンシーンを見ているようでドキドキした。
「言い出せなかったんだね。謝らなくても大丈夫だよ」
「でも、約束と違うもの」
 異常に不安そうな千秋。優しくなだめる稜輔だったが、彼の表情にも僅かに不安が見えた。
「なにか変じゃない?」
 妊娠報告にしては、別のことを心配しているように見える。竜は違和感を覚えて春希に尋ねるが、春希はきょとんとしていた。

















 週末になると、稜輔と千秋はスーツを着て緊張した面持ちで出かける用意をしていた。
「僕ら、少し本家に行ってくるよ。すぐ帰ってくるからね」
 何をしに行くかは言わずに、稜輔と千秋は出かけていった。
 それから、しばらくして春希が訪ねて来た。
「やっぱり何か変だった」
「何が?」
「分からないけど」
 分からないけれど、稜輔と千秋は何か隠し事をしているように思えた。二人は自分たちの考えを竜に話すことは全くない。竜が違和感を覚えて聞くことがあっても「なんでもないよ」とか「大丈夫だよ」等と言ってはぐらかされる。竜の保護者として弱いところを見せたくないのだろうが、もうそんな言葉で騙されてやる振りができない。
「聞きに行ってみる」
 とはいっても、いつも通りはぐらかされるだけなので、盗み聞きをする。稜輔と千秋に見つからないように、二ノ宮本家に向かった。
 二ノ宮本家に着き、玄関を開けると、先代当主と、稜輔、千秋の靴があった。郁留は出かけているようだ。玄関から入ると鉢合わせになるかもしれない。庭に回り、人の話し声がしないか聞き耳を立てて探すと、裏口の近くの部屋から稜輔の声がした。
「子供ができました。急ですが、結婚します」
「それは構わないが、竜が高校卒業まではあの子を第一に考えるという約束だったから、しっかり見ていてやってくれ」
竜は思わず春希と顔を合わせた。皆が口を揃えて言う、約束が自分のことだと思わなかった。
「伸之輔も頑張ってくれていたが、やはり体調が辛いようだ。竜が卒業してから当主の役目を代わるということだったが、もう少し早めに代わってやってくれないか」
「分かりました」
「お前が上手くやるなら何も言わない。孫が増えるのは嬉しいことだよ。おめでとう」
声しか聞いていないが、終始和やかな雰囲気で話し合いは終わったようだ。
話の軸が、ほとんど自分のことだったということに混乱する竜。約束とは、竜が卒業したら稜輔は二ノ宮家当主になる。稜輔と先代当主は仲違いなんてしていなかった。初めて知ることが多くてボーッとする竜。
「竜君、皆が出てくるよ」
「あ、あぁ」
 春希に肩を揺すられて、ハッと気づき急いで二ノ宮本家の敷地内から出た。
 聞いた話を頭の中で整理すると、千秋が約束のことを気にして子供のことを素直に喜べなかったのは、竜のことがあったからかもしれない。本来、稜輔が当主になるはずだったが、竜を第一に考えた結果、伸之輔が代わりに当主になった。そして体を壊すことになってしまった。自分が厄介者に思えてくる。周りの大人はみんな竜に優しい。それは、親を失ったからなのか。みんな自分のことをほったらかしにして優しくしてくれる。でもそれは竜にとっては嬉しくないことだった。自己犠牲の果ての優しさなんか受け止められない。特別なことは何もしてくれなくていい、余計なことはしなくていいなんて言うと、皆の気持ちを踏みにじることになるので何も言えない。
 竜はふらふらと家に帰り、リビングのソファーに深く沈んだ。
「竜君?」
 ずっと黙りこくった竜を心配して春希が竜の顔を覗きこむ。
「ごめん、ちょっと考えさせて」
 会話をする気になれなかった竜は春希から顔をそらした。
「大丈夫だよ。そんなに悩まないで。みんな竜君が大事だからだよ」
 春希が元気づけようと声をかけるが、竜の頭には入ってこず、思考の邪魔にしかならなかった。
「うるさいな!」
 思わず大きな声を出してしまい、自分でも驚く竜。春希の方を向くと、彼女の大きな目が揺れていた。手が震えているのを抑えて一歩ずつ後退りしている。
「ごめんね。私、今日は帰るね」
 くるっと背を向けて足早に家から出ていく春希。
怖がらせてしまったことと、初めて春希に強い言葉を言ってしまった衝撃で動けずにいた竜だったが、しばらくして追いかけようと思い立ち、玄関に急ぐと稜輔と千秋が帰って来た。
「どうしたの?青い顔して」
「春希とすれ違わなかった?」
「見てないけど」
 もう遠くに行ってしまったのか。気が抜けて深いため息をつく竜。
「春希を怖がらせてしまった」
 春希を追いかけて追い付いたところで、今話しかけても怖がられるだろうか。目に涙が浮かんでいた。泣きそうになっているところを見せないように早く帰って行ったのだろう。
 「女の子は大事に扱うんだよ」と、竜と春希は今も昔も変わらず、よく一緒にいるので、稜輔は昔から口酸っぱく言う。分かっていたのに八つ当たりをしてしまった。
「落ち着いてから謝ればいいわ。優しい子だから大丈夫よ」
 何をしたのかにもよるけど、と付け足す千秋。普段の竜なら何か返事をするが、うつむいて何も言わない。
「竜、一緒に夕飯の買い物に行こうか。その手じゃ何もしにくいでしょ?」
 稜輔が沈んだままの竜の顔色をうかがい、話題を変えようとする。
 あぁ、また気を使われている。人が自分中心に回っていく。何もしなくても人を振り回してしまう。稜輔と千秋の優しさが、今はいやに居心地が悪く感じた。
「あんた、なんか変よ。体調悪いの?」
どことなく竜の機嫌が悪いと感じ取った千秋は熱でもあるのかと額を触ろうとする手を」振り払った。今は構ってほしくない。ため息をついて、ふらふらと外に出ようとする竜を、千秋が腕を掴み引き止める。
「ちょっと、どこいくの」
 力任せに振りほどこうとしたが、千秋が身重だったと思い出して止まり、「出かけてくる」と呟いて、彼女の手首を掴んで振りほどいた。
「そう。ちゃんと帰ってきてね」
 稜輔は目も合わせず出ていく竜を引き止めることはせず見送った。悲しいような寂しいような顔をしてバタンと閉まったドアをじっと見つめていた。