「今日は昼から雨だって」
 天気予報では昼から大雨。未だ降り出してはいないが、空は黒く厚い雲に覆われていつ降り出してもおかしくない。湿気でコンクリートの壁はベタベタに濡れていて気持ちが悪い。
「傘忘れたから下校時間に降り出したら嫌だなぁ」
「そうだね」
 春希は竜の話に相槌をうちながら、念入りに櫛で髪をとかしていた。
「何してるの?」
「湿気で髪がまとまらなくて」
 さっきからずっと梳かしているが、うねりや広がりが全く直っていない。柔らかい髪がいつにも増してふわふわしている。
「俺、髪の毛硬いからこんなことなったことないや」
「そうなんだ……」
 春希はため息をついて、直る気配のない髪を手で押さえた。
「ちょっと!デリカシーないんだから!」
 近くで竜と春希のやりとりを聞いていたクラスメイト、宮野は落ち込んでいる春希に駆け寄って竜を叱責した。バッチリ化粧をして髪も明るく染め、派手な格好をしている女子だ。いつも髪をクルクルに巻いているが、湿気で上手くセットが出来ずに気が立っているらしい。
「私が髪の毛結んであげる。退いてよ、竜」
 宮野は春希の近くにいた竜をシッシと追い払い春希の髪を結び始めた。何故怒られているのか分からない竜は、言い返そうとするが女子の地雷を踏みそうで言葉にならない声をあげる。
「次、移動教室だから早くしろよ」
 次の授業は理科実験室で行われる為、クラスメイトのほとんどは移動を始めている。竜が忠告すると、それも気に食わなかった宮野は先に行けと竜を追い払う。竜に対して機嫌が悪い宮野が春希を離さないので竜はしぶしぶ教科書を持って教室を出て行った。
「あんなに近くにいたら鬱陶しくないの?」
「そんなことないよ」
 宮野は竜が出て行ったことを確認すると春希に話しかけた。側から見ていると、竜は暇があれば春希に近づき好きなように話しかけている。春希はそれをニコニコしながら聞いているので不思議だった。竜は渚と騒いでクラスの中心にいることが多いが、春希は大人しく目立ちはしない。幼なじみでなければ関わることはなかっただろうと思う。
「何か嫌なことがあったらちゃんと嫌って言うんだよ」
 竜は春希に「ノートを見せてほしい」だの「日直を手伝ってほしい」だの頼み事をするが、春希はそれをほとんど断らずに受け入れている。宮野からしてみれば春希が大人しいから都合がいいように扱われているようにしか見えなかった。
「竜君は意地悪なことはしないよ」
 断言した春希に気圧されて、しどろもどろになる宮野だったが、なるほど。両片思いってやつね。と思い、ふふっと笑った。
「あ、雨降ってきた」
 春希が窓の外を見て雨に気づいた。それと同時に一瞬でうるさいくらいの土砂降りになった。バケツをひっくり返したような雨はおさまりそうになく降り続けていた。
「もう少しで出来るから、待っててね」
 教室にはもう春希と宮野しか残っていなかった。授業まであと五分ほど。手の込んだ編み込みはもう少しで完成する。
「痛い……」
 春希が呟いて、前屈みになった。
「え?ごめん」
 春希の髪の毛を強く引っ張ってしまったと思った宮野は慌てて春希の顔を覗き込こむと、春希は「違うよ」と首を横に振った。雨でじめっとしていて気が付かなかったが、春希は冷や汗をかき始めていた。顔色も青白くて調子が悪そうだ。足を抱えてうずくまってしまった。
「体調悪いの?」
「ううん。ちょっと痛くて……」
 春希は「平気だよ」と笑うが、作り笑いだとすぐに分かる。取り繕っても汗や顔色が調子の悪さを訴えている。宮野はどうしたらいいのか分からず狼狽えていた。
「あれ?もう授業始まるよ?どうしたの?」
 教室にふらっと入ってきた渚。授業を受ける気分ではなかった渚は、教室には誰もいないと思って入ってきたが春希と宮野が残っているので驚いて話しかけてきた。
「斉藤さんが……」
 宮野は上手く説明が出来ずに「どうしよう」と渚に助けを求めた。
「どうしたの?」
 渚は、自分の足を抱き抱えるようにしてうずくまっている春希を見下ろした。足が痛いのか?と気づくと、そういえば竜と春希が六年前に交通事故にあっていたと思い出した。たしか春希は足に大怪我を負っていたと聞いた気がする。
「大雨だと古傷が痛い時あるよね。俺も小さい頃、骨折したところが台風の日に痛くなる時あるよ」
 全て察した渚は自分の体験談を話すと、春希もうんうんと頷いていた。
「斉藤さん、怪我してたの?」
「小学生の頃ね」
 どれだけの大怪我を負ったらこんなに辛そうになるのだろうか。宮野は想像しただけで胸がギュッと痛くなった。
「竜君には内緒にしてて」
「どうして「今日は昼から雨だって」
天気予報では昼から大雨。未だ降り出してはいないが、空は黒く厚い雲に覆われていつ降り出してもおかしくない。湿気でコンクリートの壁はベタベタに濡れていて気持ちが悪い。
「傘忘れたから下校時間に降り出したら嫌だなぁ」
「そうだね」
春希は竜の話に相槌をうちながら、念入りに櫛で髪をとかしていた。
「何してるの?」
「湿気で髪がまとまらなくて」
さっきからずっと梳かしているが、うねりや広がりが全く直っていない。柔らかい髪がいつにも増してふわふわしている。
「俺、髪の毛硬いからこんなことなったことないや」
「そうなんだ……」
春希はため息をついて、直る気配のない髪を手で押さえた。
「ちょっと!デリカシーないんだから!」
近くで竜と春希のやりとりを聞いていたクラスメイト、宮野は落ち込んでいる春希に駆け寄って竜を叱責した。バッチリ化粧をして髪も明るく染め、派手な格好をしている女子だ。いつも髪をクルクルに巻いているが、湿気で上手くセットが出来ずに気が立っているらしい。
「私が髪の毛結んであげる。退いてよ、竜」
宮野は春希の近くにいた竜をシッシと追い払い春希の髪を結び始めた。何故怒られているのか分からない竜は、言い返そうとするが女子の地雷を踏みそうで言葉にならない声をあげる。
「次、移動教室だから早くしろよ」
次の授業は理科実験室で行われる為、クラスメイトのほとんどは移動を始めている。竜が忠告すると、それも気に食わなかった宮野は先に行けと竜を追い払う。竜に対して機嫌が悪い宮野が春希を離さないので竜はしぶしぶ教科書を持って教室を出て行った。
「あんなに近くにいたら鬱陶しくないの?」
「そんなことないよ」
宮野は竜が出て行ったことを確認すると春希に話しかけた。側から見ていると、竜は暇があれば春希に近づき好きなように話しかけている。春希はそれをニコニコしながら聞いているので不思議だった。竜は渚と騒いでクラスの中心にいることが多いが、春希は大人しく目立ちはしない。幼なじみでなければ関わることはなかっただろうと思う。
「何か嫌なことがあったらちゃんと嫌って言うんだよ」
竜は春希に「ノートを見せてほしい」だの「日直を手伝ってほしい」だの頼み事をするが、春希はそれをほとんど断らずに受け入れている。宮野からしてみれば春希が大人しいから都合がいいように扱われているようにしか見えなかった。
「竜君は意地悪なことはしないよ」
断言した春希に気圧されて、しどろもどろになる宮野だったが、なるほど。両片思いってやつね。と思い、ふふっと笑った。
「あ、雨降ってきた」
春希が窓の外を見て雨に気づいた。それと同時に一瞬でうるさいくらいの土砂降りになった。バケツをひっくり返したような雨はおさまりそうになく降り続けていた。
「もう少しで出来るから、待っててね」
教室にはもう春希と宮野しか残っていなかった。授業まであと五分ほど。手の込んだ編み込みはもう少しで完成する。
「痛い……」
春希が呟いて、前屈みになった。
「え?ごめん」
春希の髪の毛を強く引っ張ってしまったと思った宮野は慌てて春希の顔を覗き込こむと、春希は「違うよ」と首を横に振った。雨でじめっとしていて気が付かなかったが、春希は冷や汗をかき始めていた。顔色も青白くて調子が悪そうだ。足を抱えてうずくまってしまった。
「体調悪いの?」
「ううん。ちょっと痛くて……」
春希は「平気だよ」と笑うが、作り笑いだとすぐに分かる。取り繕っても汗や顔色が調子の悪さを訴えている。宮野はどうしたらいいのか分からず狼狽えていた。
「あれ?もう授業始まるよ?どうしたの?」
教室にふらっと入ってきた渚。授業を受ける気分ではなかった渚は、教室には誰もいないと思って入ってきたが春希と宮野が残っているので驚いて話しかけてきた。
「斉藤さんが……」
宮野は上手く説明が出来ずに「どうしよう」と渚に助けを求めた。
「どうしたの?」
渚は、自分の足を抱き抱えるようにしてうずくまっている春希を見下ろした。足が痛いのか?と気づくと、そういえば竜と春希が六年前に交通事故にあっていたと思い出した。たしか春希は足に大怪我を負っていたと聞いた気がする。
「大雨だと古傷が痛い時あるよね。俺も小さい頃、骨折したところが台風の日に痛くなる時あるよ」
全て察した渚は自分の体験談を話すと、春希もうんうんと頷いていた。
「斉藤さん、怪我してたの?」
「小学生の頃ね」
どれだけの大怪我を負ったらこんなに辛そうになるのだろうか。宮野は想像しただけで胸がギュッと痛くなった。
「竜君には内緒にしてて」
「どうして?」
「嫌なこと思い出すかもしれないから」
 竜と春希の事情をしらない宮野は戸惑いながら、とりあえず頷いた。何故竜が関係あるのか気になったが今は詳しいことを話している場合ではない。
「とりあえず保健室行こうか」
渚は背を向けて屈み、春希に背負うから乗るようにと手をヒラヒラさせた。
「ほらどうぞ、お嬢さん」
「……う」
背負われる恥ずかしさで躊躇した春希だが足が痛くて動けそうにない。何より宮野にこれ以上迷惑かけられないと腹を括って渚の背中にそっと乗った。
「さぁ、竜に見つからないうちに行こう」
渚は春希を軽々と持ち上げ、早足で教室を出ようとした。宮野が教室の戸を開けようと手をかけると、戸がひとりでに開いたので驚いた宮野は手を引っ込めた。
「何してるの?」
「あ」
なかなか来ない春希と宮野が気になった竜が教室に戻って来たのだった。春希に竜には内緒にしてほしいと言われたばかりだったので渚と宮野は視線だけ合わせて苦笑いをした。竜は渚が春希を背負っている状況が理解出来ずに呆然としている。
「ちょっと保健室行ってくるね」
「どこか具合悪いの?」
「えっと……」
 渚と宮野は明らかに言い訳を絞り出そうとしている。隠し事をされていると分かった竜はムッとして眉をひそめた。
「とりあえず、行ってくるから先に授業に行ってて」
言い訳を絞り出そうとしても何も思いつかなかった渚は保健室へ走り出した。急に動いたので春希は後ろに倒れそうになるが、渚にしっかり抱えられていたので落ちずに済んだ。いきなり逃げられたので追いかけようとした竜だったが、宮野に「授業に行こう」と理科実験室の方へ背中を押されていた。

手が塞がっている渚は保健室の戸を足で開け、「先生!」と養護教諭の塚本先生を呼んだ。コーヒーを飲んでいた塚本先生は驚いて少しこぼしていたが、渚が「足が痛いんだって」と簡潔に説明すると春希をベッドに連れて行くように指示をした。
「ありがとう、渚君」
「竜に見つかっちゃったね」
 誤魔化せたとは思わない。強行突破をしたものだから、きっと竜は何があったのか聞きに来るはずだ。
「やっぱり竜には内緒の方がいいの?」
「私はその方がいいと思う」
上手い言い訳を考えないといけない。渚は参ったなと頭をかいて唸っていると、春希は「困らせてごめんなさい」と眉を八の字にして申し訳なさそうにしている。
「秘密の一つや二つ誰にでもあるから、言いたくなければそれでいいと思うよ。でも、竜は大丈夫だと思うけどなぁ」
 隠し事をされて嫌な気持ちになるのは分かるが、春希の隠し事は竜への気遣いだ。それを知ってなお怒るような男ではない。
「嫌なことを思い出さないように竜君の体は心を守ったの。それをわざわざ私が思い出させるようなことをしたくない。私のことを忘れたとしても。それに……」
言いかけて、足を見下ろして撫でると、照れて「ふふ」と笑った。
「竜君に会いたくてリハビリしてただなんて、重いでしょ?」
「そう?俺なら嬉しいけどな」
「気持ちの押し付けになってしまうから」
春希の立場だったなら君の為に頑張ったんだよと言ってしまう気がする。でもそれは彼女の言う通り気持ちの押し付けになってしまう。見返りを求めているようにも聞こえてしまうかもしれない。竜の立場だとしても女の子がこんなに想ってくれるなら喜んで何でも差し出すだろう。だから自分は竜と春希のようにはなれないのだと苦笑いをした。
「ちょっと、竜。どうしたの?」
保健室の外から足音と話し声が聞こえる。それが宮野が竜を呼ぶ声だと分かると、渚は再び頭をフル回転して言い訳を考え始めた。竜を引き止めることに失敗したのだろうか。保健室の戸がゆっくり開けられると、涙目になってグスグスと鼻を啜る竜と困惑している宮野が入ってきた。
「ごめん。全部聞こえてた」
春希は聞かれた恥ずかしさと、竜の涙に「どうしよう」とオロオロしている。渚はもう言い訳を考えることを諦め、竜を春希の近くに引き寄せて、自分は宮野と二人でベッドから少し離れた。
「どうして泣いてるの?」
「春希が足に怪我してたことは知ってる。それを俺に見せないようにしてたのもなんとなく気づいてる。でも痛いのは知らなかった。俺に隠してても春希は雨の日に痛い思いをしていたのかと思ったら、能天気にしてる自分が情けなくて」
「情けなくないよ。それでよかったの」
「それに、俺に会いたくて頑張ったんだなって嬉しくて。ありがとう」
春希は顔を真っ赤にして俯いた。耳の裏まで赤い。知られた恥ずかしさと頑張りを認めてもらえた嬉しさで泣きそうになったのを隠そうと手で顔を覆った。
「あと、春希のこと忘れたことないって言わなかった?誰かに言われたの?」
「お父さんが言ってた……」
「じゃあどこかで聞き間違えたんだ。信じてよ」
「うん」
竜に伝わったのは偶然だが、嫌なことを思い出している様子はない。伝わってよかったのかもしれない。いらない隠し事だったかもしれない。春希は竜を見上げると、彼の目に溜まった涙を手で拭った。
「あの、授業始まってると思うんだけど行かなくていいの?」
 春希に湯たんぽを用意してきた塚本先生は竜と春希が話し込んでいるので割って入りづらかったのか、渚と宮野に授業に行くように行った。
「そんな気分じゃなくなりました」
「気分の問題じゃないでしょ」
三人を保健室から追い出し、春希に湯たんぽを渡した塚本先生。春希が下を向いたままハラハラと涙をこぼしていることに気がついた。そっと顔を覗くと、穏やかに嬉しそうな表情をして泣いていた。
「通り雨みたいだから、止むまで休んでいきなさい」
塚本先生は湯たんぽを布団の中に入れ、春希に自分のハンカチを渡すと、ベッドのカーテンをしめて出て行った。

「泣くほど好きなのね」
授業はとうに始まっており、泣き顔で教室に入ることが出来なかった竜は外の水道に顔を洗いに行った。一段落して授業を受ける気分でなくなった渚と宮野は竜に付いてきた。
「明らかに両思いなのに、どうして付き合わないの?」
顔が濡れたままの竜に宮野が自分のハンカチを差し出しながら聞いた。顔を洗ったはいいが拭くものを持っていなかった竜は素直に受け取り、彼女の質問に「うーん」と悩み込んだ。
「女子ってそういう話好きだよね」
 困り顔の竜に気づいた渚は話の雰囲気を変えようと、話に入ってきた。
「あんた達はそういう話しないの?」
「するけど、聞いてくれないんだもん」
 渚は腰に手を当てて、わざとらしくやれやれと首を振った。聞いてくれないとはひどい言いがかりだ。
「聞いてるよ。でも共感出来ないんだよ」
「そんなぁ」
渚の年上お姉さんとの拗れた恋愛話を聞いても共感することができないのでどんな相槌を打てばいいのかも分からなくなる。
「どうして付き合わないの、か」
人のことを言えないかもしれない。自分も大概考えすぎで拗らせている。
「春希は多分、俺が付き合いたいって言えば付き合ってくれる。俺が頼むことは聞いてくれる。我慢してでも聞いてくれる」
「すごい自信ね」
「好いてくれてるのは知ってる。でもずっとそうだとは限らない。春希が我慢すると、俺は甘え過ぎて、知らない間に嫌なことをするかもしれない。『付き合ってないから』ストップできる。これ以上は言わない。触らない。近づかないって。デリカシーがない俺でも常識くらいは分かる。嫌われたくないんだ、絶対に」
竜と春希から彼氏彼女になると、今まで許せていたことが許せないかもしれない。今日だって渚に背負われているのを見て、モヤッとしたが「付き合ってない」から表に出さないようにした。これが全部出てしまうかもしれない。そんな自分は嫌われてしまう。春希をそんな縛り方したくない。今までろくに外に出られなくてやっと人と関われるようになって楽しそうな春希の邪魔をしたくない。たくさん友達が出来て、いろんな人に好かれて、それでも自分にだけ特別な表情を向けてくれる。それでもう十分幸せだ。俺だって春希のお願いならなんでも叶えてやりたい。
?」
「嫌なこと思い出すかもしれないから」
 竜と春希の事情をしらない宮野は戸惑いながら、とりあえず頷いた。何故竜が関係あるのか気になったが今は詳しいことを話している場合ではない。
「とりあえず保健室行こうか」
 渚は背を向けて屈み、春希に背負うから乗るようにと手をヒラヒラさせた。
「ほらどうぞ、お嬢さん」
「……う」
 背負われる恥ずかしさで躊躇した春希だが足が痛くて動けそうにない。何より宮野にこれ以上迷惑かけられないと腹を括って渚の背中にそっと乗った。
「さぁ、竜に見つからないうちに行こう」
 渚は春希を軽々と持ち上げ、早足で教室を出ようとした。宮野が教室の戸を開けようと手をかけると、戸がひとりでに開いたので驚いた宮野は手を引っ込めた。
「何してるの?」
「あ」
 なかなか来ない春希と宮野が気になった竜が教室に戻って来たのだった。春希に竜には内緒にしてほしいと言われたばかりだったので渚と宮野は視線だけ合わせて苦笑いをした。竜は渚が春希を背負っている状況が理解出来ずに呆然としている。
「ちょっと保健室行ってくるね」
「どこか具合悪いの?」
「えっと……」
 渚と宮野は明らかに言い訳を絞り出そうとしている。隠し事をされていると分かった竜はムッとして眉をひそめた。
「とりあえず、行ってくるから先に授業に行ってて」
 言い訳を絞り出そうとしても何も思いつかなかった渚は保健室へ走り出した。急に動いたので春希は後ろに倒れそうになるが、渚にしっかり抱えられていたので落ちずに済んだ。いきなり逃げられたので追いかけようとした竜だったが、宮野に「授業に行こう」と理科実験室の方へ背中を押されていた。

 手が塞がっている渚は保健室の戸を足で開け、「先生!」と養護教諭の塚本先生を呼んだ。コーヒーを飲んでいた塚本先生は驚いて少しこぼしていたが、渚が「足が痛いんだって」と簡潔に説明すると春希をベッドに連れて行くように指示をした。
「ありがとう、渚君」
「竜に見つかっちゃったね」
 誤魔化せたとは思わない。強行突破をしたものだから、きっと竜は何があったのか聞きに来るはずだ。
「やっぱり竜には内緒の方がいいの?」
「私はその方がいいと思う」
 上手い言い訳を考えないといけない。渚は参ったなと頭をかいて唸っていると、春希は「困らせてごめんなさい」と眉を八の字にして申し訳なさそうにしている。
「秘密の一つや二つ誰にでもあるから、言いたくなければそれでいいと思うよ。でも、竜は大丈夫だと思うけどなぁ」
 隠し事をされて嫌な気持ちになるのは分かるが、春希の隠し事は竜への気遣いだ。それを知ってなお怒るような男ではない。
「嫌なことを思い出さないように竜君の体は心を守ったの。それをわざわざ私が思い出させるようなことをしたくない。私のことを忘れたとしても。それに……」
 言いかけて、足を見下ろして撫でると、照れて「ふふ」と笑った。
「竜君に会いたくてリハビリしてただなんて、重いでしょ?」
「そう?俺なら嬉しいけどな」
「気持ちの押し付けになってしまうから」
 春希の立場だったなら君の為に頑張ったんだよと言ってしまう気がする。でもそれは彼女の言う通り気持ちの押し付けになってしまう。見返りを求めているようにも聞こえてしまうかもしれない。竜の立場だとしても女の子がこんなに想ってくれるなら喜んで何でも差し出すだろう。だから自分は竜と春希のようにはなれないのだと苦笑いをした。
「ちょっと、竜。どうしたの?」
 保健室の外から足音と話し声が聞こえる。それが宮野が竜を呼ぶ声だと分かると、渚は再び頭をフル回転して言い訳を考え始めた。竜を引き止めることに失敗したのだろうか。保健室の戸がゆっくり開けられると、涙目になってグスグスと鼻を啜る竜と困惑している宮野が入ってきた。
「ごめん。全部聞こえてた」
 春希は聞かれた恥ずかしさと、竜の涙に「どうしよう」とオロオロしている。渚はもう言い訳を考えることを諦め、竜を春希の近くに引き寄せて、自分は宮野と二人でベッドから少し離れた。
「どうして泣いてるの?」
「春希が足に怪我してたことは知ってる。それを俺に見せないようにしてたのもなんとなく気づいてる。でも痛いのは知らなかった。俺に隠してても春希は雨の日に痛い思いをしていたのかと思ったら、能天気にしてる自分が情けなくて」
「情けなくないよ。それでよかったの」
「それに、俺に会いたくて頑張ったんだなって嬉しくて。ありがとう」
 春希は顔を真っ赤にして俯いた。耳の裏まで赤い。知られた恥ずかしさと頑張りを認めてもらえた嬉しさで泣きそうになったのを隠そうと手で顔を覆った。
「あと、春希のこと忘れたことないって言わなかった?誰かに言われたの?」
「お父さんが言ってた……」
「じゃあどこかで聞き間違えたんだ。信じてよ」
「うん」
 竜に伝わったのは偶然だが、嫌なことを思い出している様子はない。伝わってよかったのかもしれない。いらない隠し事だったかもしれない。春希は竜を見上げると、彼の目に溜まった涙を手で拭った。
「あの、授業始まってると思うんだけど行かなくていいの?」
 春希に湯たんぽを用意してきた塚本先生は竜と春希が話し込んでいるので割って入りづらかったのか、渚と宮野に授業に行くように行った。
「そんな気分じゃなくなりました」
「気分の問題じゃないでしょ」
 三人を保健室から追い出し、春希に湯たんぽを渡した塚本先生。春希が下を向いたままハラハラと涙をこぼしていることに気がついた。そっと顔を覗くと、穏やかに嬉しそうな表情をして泣いていた。
「通り雨みたいだから、止むまで休んでいきなさい」
 塚本先生は湯たんぽを布団の中に入れ、春希に自分のハンカチを渡すと、ベッドのカーテンをしめて出て行った。

「泣くほど好きなのね」
 授業はとうに始まっており、泣き顔で教室に入ることが出来なかった竜は外の水道に顔を洗いに行った。一段落して授業を受ける気分でなくなった渚と宮野は竜に付いてきた。
「明らかに両思いなのに、どうして付き合わないの?」
 顔が濡れたままの竜に宮野が自分のハンカチを差し出しながら聞いた。顔を洗ったはいいが拭くものを持っていなかった竜は素直に受け取り、彼女の質問に「うーん」と悩み込んだ。
「女子ってそういう話好きだよね」
 困り顔の竜に気づいた渚は話の雰囲気を変えようと、話に入ってきた。
「あんた達はそういう話しないの?」
「するけど、聞いてくれないんだもん」
 渚は腰に手を当てて、わざとらしくやれやれと首を振った。聞いてくれないとはひどい言いがかりだ。
「聞いてるよ。でも共感出来ないんだよ」
「そんなぁ」
 渚の年上お姉さんとの拗れた恋愛話を聞いても共感することができないのでどんな相槌を打てばいいのかも分からなくなる。
「どうして付き合わないの、か」
 人のことを言えないかもしれない。自分も大概考えすぎで拗らせている。
「春希は多分、俺が付き合いたいって言えば付き合ってくれる。俺が頼むことは聞いてくれる。我慢してでも聞いてくれる」
「すごい自信ね」
「好いてくれてるのは知ってる。でもずっとそうだとは限らない。春希が我慢すると、俺は甘え過ぎて、知らない間に嫌なことをするかもしれない。『付き合ってないから』ストップできる。これ以上は言わない。触らない。近づかないって。デリカシーがない俺でも常識くらいは分かる。嫌われたくないんだ、絶対に」
 竜と春希から彼氏彼女になると、今まで許せていたことが許せないかもしれない。今日だって渚に背負われているのを見て、モヤッとしたが「付き合ってない」から表に出さないようにした。これが全部出てしまうかもしれない。そんな自分は嫌われてしまう。春希をそんな縛り方したくない。今までろくに外に出られなくてやっと人と関われるようになって楽しそうな春希の邪魔をしたくない。たくさん友達が出来て、いろんな人に好かれて、それでも自分にだけ特別な表情を向けてくれる。それでもう十分幸せだ。俺だって春希のお願いならなんでも叶えてやりたい。